二日間の東京公開講演会・支部法座にお参りして来ました。
公開講演会は今年で3年目ですが、私は初回と今回の2回参加。
いずれもお手伝いとして狩りだされているのですが、そういう役割でもないとなかなか時間とお金をかけて東京までおまいりしようと思いません。
京都にいると法座のご縁が一杯ありますしね。
でも、そういう京都の法座にはあちらこちらからお参りに来られます。
うーん、本当に頭が下がります。
一方で、東京まで馳せ参じて聞かせてもらうと、それはそれは大きな意味があります。
出会うって言うのは、出かけていって会うことですから、この身体を持ち出していくことで…ね。
公開講演会を開催することの意味、お聞かせいただいた講演・法話の中身についていろいろ書きたい事が出てきます。
支部法座のほうでも、輪読形式やご法話、また座談のことでも多くの気付きがあります。
どこから書こうか迷うほどですね。
まだ疲れも残ってたりするので、今日は軽め(?)の話題から。
二日目の午前は、華光誌を使っての輪読形式で「誌上法話」を読んでいくのですが、すでに法話として話されたことを読んでいくので、もう一度ご法話を聞かせていただくのと同じことですね。
そのときに気になる事がありました。
人によってはかなり読み間違いが多かったりします。
まぁ読めない仏法用語や漢字などは仕方ないことです。
年配の方だったり、目が見づらく読みづらいなどのこともあるでしょうから、そういう物理的な事情も仕方ないでしょう。
(ありがたくなって声が詰まって読めなくなるというのは別ですしね)
じゃあ何が気になるのか。
これは私自身もそうなんですが、口に出している部分よりも先に目が違うところを追って行ったりしてるんですね。
先に目が追って「こう書いてある」と頭に叩き込んで口に指令を出して声にしている。
この「こう書いてある」が曲者で、ときに間違ったままそれを気にせずに…いや、間違っていることを知らずに声にしている。
もうこうなると文字を追っているだけで、そこに書かれていることの意味がなくなっている…
これって、輪読だけのことじゃなくて、聴聞なんかにも当てはまるんじゃないでしょうかね。
頭のほうで「こういうことを言われているんだろう」と決め込んで聞いてませんかね。
先生を通して届けられる「仏願」を、「そのまま」聞くことが聴聞なのに、覚えたり理解したりすることに気持ちが行って、その言葉すら「そのまま」聞いていない。
文字という形で、そこに”在る”お話でさえ、そのまま読まずに自分の思い込みで読んでしまうんですから。
まぁ、輪読会という形なんで、順番に読み進んでいかないといけないプレッシャーなんかもあるかもしれません。
上手に読まなくちゃっていう”欲”もあるでしょう。
でも作品を読んでいくことを目指してるんじゃなくて「法座」のご縁として、文字になっている仏願に触れさせていただくのですから、立ち止まったり味わったりしながらでも、まずはその文字を「そのまま」にしっかりいただくことを大事にしてもいいんじゃないかと思います。
また、そういう風にしか読んでない・聞いていない”わたし”だということを見つめなおしてみることもいいんじゃないでしょうかね。
公開講演会は今年で3年目ですが、私は初回と今回の2回参加。
いずれもお手伝いとして狩りだされているのですが、そういう役割でもないとなかなか時間とお金をかけて東京までおまいりしようと思いません。
京都にいると法座のご縁が一杯ありますしね。
でも、そういう京都の法座にはあちらこちらからお参りに来られます。
うーん、本当に頭が下がります。
一方で、東京まで馳せ参じて聞かせてもらうと、それはそれは大きな意味があります。
出会うって言うのは、出かけていって会うことですから、この身体を持ち出していくことで…ね。
公開講演会を開催することの意味、お聞かせいただいた講演・法話の中身についていろいろ書きたい事が出てきます。
支部法座のほうでも、輪読形式やご法話、また座談のことでも多くの気付きがあります。
どこから書こうか迷うほどですね。
まだ疲れも残ってたりするので、今日は軽め(?)の話題から。
二日目の午前は、華光誌を使っての輪読形式で「誌上法話」を読んでいくのですが、すでに法話として話されたことを読んでいくので、もう一度ご法話を聞かせていただくのと同じことですね。
そのときに気になる事がありました。
人によってはかなり読み間違いが多かったりします。
まぁ読めない仏法用語や漢字などは仕方ないことです。
年配の方だったり、目が見づらく読みづらいなどのこともあるでしょうから、そういう物理的な事情も仕方ないでしょう。
(ありがたくなって声が詰まって読めなくなるというのは別ですしね)
じゃあ何が気になるのか。
これは私自身もそうなんですが、口に出している部分よりも先に目が違うところを追って行ったりしてるんですね。
先に目が追って「こう書いてある」と頭に叩き込んで口に指令を出して声にしている。
この「こう書いてある」が曲者で、ときに間違ったままそれを気にせずに…いや、間違っていることを知らずに声にしている。
もうこうなると文字を追っているだけで、そこに書かれていることの意味がなくなっている…
これって、輪読だけのことじゃなくて、聴聞なんかにも当てはまるんじゃないでしょうかね。
頭のほうで「こういうことを言われているんだろう」と決め込んで聞いてませんかね。
先生を通して届けられる「仏願」を、「そのまま」聞くことが聴聞なのに、覚えたり理解したりすることに気持ちが行って、その言葉すら「そのまま」聞いていない。
文字という形で、そこに”在る”お話でさえ、そのまま読まずに自分の思い込みで読んでしまうんですから。
まぁ、輪読会という形なんで、順番に読み進んでいかないといけないプレッシャーなんかもあるかもしれません。
上手に読まなくちゃっていう”欲”もあるでしょう。
でも作品を読んでいくことを目指してるんじゃなくて「法座」のご縁として、文字になっている仏願に触れさせていただくのですから、立ち止まったり味わったりしながらでも、まずはその文字を「そのまま」にしっかりいただくことを大事にしてもいいんじゃないかと思います。
また、そういう風にしか読んでない・聞いていない”わたし”だということを見つめなおしてみることもいいんじゃないでしょうかね。