今日は日曜礼拝。
私の子どもは長男がインフルエンザ(もう熱は下がってるけど)の予後のためお休み。
少な目の子どもと、昨日別のところであった法座の流れもあるのか、今日の法話担当のTさん人気で大人が多目。
ご法話は「迷い」についてのお話から。
子どもらにとっては「迷子-不安」というところで、大人には「行き先がわからない-不安」というところで、自分は大丈夫と思っているけど「ほんとう?」というところを刺激してもらったんじゃないだろうか。
(もちろん、それ以前に大丈夫と思えていない人はそこのところを)
その後、子どもたちと分かれて大人の分級へ。
T先生もご一緒に座談会。
ありがたい時間でした。
そこで感じたあたりを…
迷いの話から、自分では行き先がわからないという流れがあり、「じゃあ頼りになるものは」と話が進んでいった。
そこで私の中にあふれてきた言葉があり、それを口にしてみた。
「こう聞いたらなにかがわかるんじゃないだろうか」「ああ聞いたら心境が変わるんじゃないだろうか」ということばかり追い求めてしまうのが私の姿。
知識を総動員して、感情を探りまわって、あてになるものを探し回る。
しかし、こんな私の中から出てくるものは、なんら頼りにならない。
そこに「どうかまかせておくれ」と「頼っておくれ」と用意されているものがある。
そこになんの躊躇が必要だろうか。
そこまで聞かされてもなかなか「南無阿弥陀仏」と称える事が出来ない。
「称えても何も起こらなければ…」「こんな心のままで称えてもいいものか…」
そんな気持ちがどんどん湧き上がってくる。
自分の身に起こることや、心に起こることなど「頼りにならない」と聞いているのに。
そう、私が聞かせてもらっているのは「南無阿弥陀仏」の功徳。
私のこの身、この頭、この心になんの力も無い。
力は「南無阿弥陀仏」に収められている。
私のこの身、この頭、この心になんの価値も無い。
価値は「南無阿弥陀仏」に収められている。
だから、こんな私の口から飛び出す「南無阿弥陀仏」が心強いし、力強いし、頼りになる。
こういう風に文字として書いてみると、法のことばかりでこの”機”は放っといていいように見えるかもしれないが、一つ大きな役割がある。
それはこの”機”をお目当てとして”法”が出来上がっているということ。
あてにも頼りにもならないこの身だが、それでもここに”在る”ということが、仏様が仏願を立てずに居れなかった根本原因。
心はふらふら、頭もあーだこーだ…そんな素性は変えようとしても変わらない。
しかし、そんな身からもお念仏は飛び出してくる。
唯、わが名を称えよ
我が身のありように見切りをつけて(だって変わらないんだもん)、呼び声に応える。
自力は捨てるものではない、他力の前に役にたたないと聞かされる。
捨てた覚えは無いが、役にたたないものならば片隅に残っていても用事はない。
最近ネットで見た書き込みと、今日のご縁とで、「お念仏を称える」ということの意味がとても深まりました。
皆様のおかげですね。
南無阿弥陀仏