先日あった集まりで「還生回向」についての話題になった。
私なりの思いが湧いて話していたのだが、いろいろと面白い気付きになった。
ひとつはその”姿”というか、私にとっての現れ方として。
こういう仏教においての大事な話題というのは、個人的な思いで語るのはとても危険で、やはり「お聖経のどこそこに書かれている」という根拠を示して、その前後の流れも踏まえて「こう説かれている」ということを違えず示す必要がある。
しかし、その手順からそれないようにすればするほど、そこに示される”お心”よりも、正しく理解しているかどうかに重点を置いてしまう。
言葉のうえで矛盾しているような話になってしまうと不安にもなるし、比較のレベルで「どちらが正しい?」というところに捉われてしまう。
実は私は、そういう「お聖経に照らして」というのがとても苦手で、お味わいを大事にしてしまう傾向がある。
言葉の表面に現れていることよりも、そこから伝わってくる感覚を大事にしてしまうというか…
私の中ではそれでOKなんだけど、それを人様に伝えようとするとなかなか難しい。
ひとつは私の味わいを上手く言葉にしきれないということ。
たとえば「あったかい感じ」というものが在ったとして、その”あたたかさ”は「暖かい」であったり「温かい」であったり「あたたかい」であったり…私自身がつかみきれないものを、言葉にするのはとても難しい作業だ。
さらには、仮にぴったりの表現ができたとしても、それを受け取る人がどのような「あたたかい」で受け取るのかわからない。
あとは、相手の方を信じて、できる範囲で丁寧に表現する…
いや、人間同士の時点でそこのは限界がある。
かといって、黙ってしまうのではもったいない。
葛藤をしながら、動いていくしかない。
で、今回の「還相回向」についてだが、同じこの言葉をめぐって、二つの話を聞かれた方が少し混乱されて聞いてこられた
○私の知人に法を伝えたいと思うが、そういう心がおこるのを「還相回向」というのか
○私が食べる食べ物になって命を与える仏様の働きを「還相回向」というのか
残念ながら、これらのお話をされた先生方の根拠とされているものがぱっと浮かんでこない私だったりする。
しかし、この二つの話から湧き上がる「味わい」はある。
他人に法を伝えたいと思う心が起こったとしても、今の私には「欲」の心が混じっており、仏様と同じ心だとはとても言えない。
言い変えると、「あの人のご縁になった」というわたしが嬉しいのであって、その方に法が届いたことを喜んでいるのではない(もちろん、純粋にそういう思いで利他行に励んでおられる方もいるかもしれない)
しかし、この私がしっかり法を聞かせていただくことで、今の関係ではかなわなかったとしても、私が浄土に生まれさせていただいたあとで、その方がどの世界に迷っておられようと、そこに参ってお伝えする事が出来る。
その人ではなく、まず私の聞きようが問題になってくる。
一方で、その人に法を聞いて欲しいという純粋な願い…それは仏様にしかできない願い。
その願いのためには命も投げ出す。
食べ物となって施してくださるわけです。
それもほんの一回の自己満足で終わるなら意味が無い。
この私が法に出会うまで、無限とも思われる回数命を投げ出す。
それは無量寿だからできる所業ですね。
そう考えると、ほんの少し”仏心”を起こして利他行をしているつもりになっても、とてもとても…限りある行いでしかない。
でも、そんな真似事を通して”仏願”を味あわさせてもらう。
そこにはお聖経に書かれていることで理解できるようなスケール感のものじゃありません。
入り口としてお聖経などの言葉にうたれ、善智識の姿にうたれ、一心に向かっていく…
でも、それにうたれたこの私が”何を味わうか”が問われてくる。
知識を重ねるのでも、理解を深めるのでもない。
とても上手く言葉に出来ない味わいではありますが、”一味”といわれてうなづくしかないほどの、深いものがある。
それにただ頼ったり、安心したりするものじゃないが、言葉を超えたつながりがあることの心強さはある。
私なりの思いが湧いて話していたのだが、いろいろと面白い気付きになった。
ひとつはその”姿”というか、私にとっての現れ方として。
こういう仏教においての大事な話題というのは、個人的な思いで語るのはとても危険で、やはり「お聖経のどこそこに書かれている」という根拠を示して、その前後の流れも踏まえて「こう説かれている」ということを違えず示す必要がある。
しかし、その手順からそれないようにすればするほど、そこに示される”お心”よりも、正しく理解しているかどうかに重点を置いてしまう。
言葉のうえで矛盾しているような話になってしまうと不安にもなるし、比較のレベルで「どちらが正しい?」というところに捉われてしまう。
実は私は、そういう「お聖経に照らして」というのがとても苦手で、お味わいを大事にしてしまう傾向がある。
言葉の表面に現れていることよりも、そこから伝わってくる感覚を大事にしてしまうというか…
私の中ではそれでOKなんだけど、それを人様に伝えようとするとなかなか難しい。
ひとつは私の味わいを上手く言葉にしきれないということ。
たとえば「あったかい感じ」というものが在ったとして、その”あたたかさ”は「暖かい」であったり「温かい」であったり「あたたかい」であったり…私自身がつかみきれないものを、言葉にするのはとても難しい作業だ。
さらには、仮にぴったりの表現ができたとしても、それを受け取る人がどのような「あたたかい」で受け取るのかわからない。
あとは、相手の方を信じて、できる範囲で丁寧に表現する…
いや、人間同士の時点でそこのは限界がある。
かといって、黙ってしまうのではもったいない。
葛藤をしながら、動いていくしかない。
で、今回の「還相回向」についてだが、同じこの言葉をめぐって、二つの話を聞かれた方が少し混乱されて聞いてこられた
○私の知人に法を伝えたいと思うが、そういう心がおこるのを「還相回向」というのか
○私が食べる食べ物になって命を与える仏様の働きを「還相回向」というのか
残念ながら、これらのお話をされた先生方の根拠とされているものがぱっと浮かんでこない私だったりする。
しかし、この二つの話から湧き上がる「味わい」はある。
他人に法を伝えたいと思う心が起こったとしても、今の私には「欲」の心が混じっており、仏様と同じ心だとはとても言えない。
言い変えると、「あの人のご縁になった」というわたしが嬉しいのであって、その方に法が届いたことを喜んでいるのではない(もちろん、純粋にそういう思いで利他行に励んでおられる方もいるかもしれない)
しかし、この私がしっかり法を聞かせていただくことで、今の関係ではかなわなかったとしても、私が浄土に生まれさせていただいたあとで、その方がどの世界に迷っておられようと、そこに参ってお伝えする事が出来る。
その人ではなく、まず私の聞きようが問題になってくる。
一方で、その人に法を聞いて欲しいという純粋な願い…それは仏様にしかできない願い。
その願いのためには命も投げ出す。
食べ物となって施してくださるわけです。
それもほんの一回の自己満足で終わるなら意味が無い。
この私が法に出会うまで、無限とも思われる回数命を投げ出す。
それは無量寿だからできる所業ですね。
そう考えると、ほんの少し”仏心”を起こして利他行をしているつもりになっても、とてもとても…限りある行いでしかない。
でも、そんな真似事を通して”仏願”を味あわさせてもらう。
そこにはお聖経に書かれていることで理解できるようなスケール感のものじゃありません。
入り口としてお聖経などの言葉にうたれ、善智識の姿にうたれ、一心に向かっていく…
でも、それにうたれたこの私が”何を味わうか”が問われてくる。
知識を重ねるのでも、理解を深めるのでもない。
とても上手く言葉に出来ない味わいではありますが、”一味”といわれてうなづくしかないほどの、深いものがある。
それにただ頼ったり、安心したりするものじゃないが、言葉を超えたつながりがあることの心強さはある。