コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真宗カウンセリング・ワークショップ

2009-10-29 23:48:34 | 真宗カウンセリング
さて、週末はいよいよ「真宗カウンセリング・ワークショップ in 福岡」ですね。
世話役を3人にして、多くの参加を…と意気込みましたが、やや少な目の定員割れ。
しかし、面白いもんで、多ければ多いなりの、少なければ少ないなりの、「いま・ここ・わたし」が集まった関わりになれるというのがね。

私はすでに知っている方ばかりの参加なので、最初から気兼ねなく入っていけそうです。


最近…いや、ここ数年ずっと、「真宗」「カウンセリング」「真宗カウンセリング」と、それぞれだったり組み合わさったりしながら、いろんな関わりを持ってます。
私自身は”ひとつ”なんだけれど、外からの関わり方によって私の中の”現れ方”が違ってたりします。
でも、それは側面が違うってだけで、本質はおなじ”わたし”だってことがますますハッキリしてきます。

よく、「法座は厳しい」「ワークショップはゆったり」というイメージの方が居られますが、確かに進行の仕方はそういう面があるかもしれません。
法要や法話があって、限られた時間に多くの方と関わる「法座」
二日間など、いくつもセッションのある「ワークショップ」

「法座」は毎回顔ぶれが変わって、前回の時間からつながってる話題になっても数名は流れがわからず、そこにも気持ちが取られる。
その分、時には有無も言わさず、「無常」を突きつけられることもある。
限られた時間に”要”を聞いてもらわないと、次の時間にはリセットされることもあるから。

「ワークショップ」は、その時間に大きな変化が無くとも、ゆっくりゆっくり居所を確認しながら、気付きを待つ。
ただ、わずかの変化でも”成長”として受け入れられる。

と、こういうイメージが多いようだけど、じつはこれは全然本質じゃない。
むしろこういうイメージに捉われて参加していては、自分の尺度で聞いたり成長したりする、自己満足で終わってしまう。
どちらが”自分向き”だと選り好みしている時点で、肝心の”法”が疎かかになってしまう。

法を前面に出すことで、仏願に出会うその人を尊重するか、その人を尊重して、そこにかかる願いに気付いていってもらうか。
主役はお一人お一人。
目的は仏願に出会うこと。

そこに”法”があり、そこに”機”があることになんの違いもない。


などということを、最近やっと「この身」に現れる”相”を通して味わえるようになってきました。
そうです、二つを分けて理解に勤め、それをひとつにしようと躍起になっていたのは何を隠そうこの私自身なんです。


と、そんな思いを抱きながら、福岡へ向かいます。

興味をもたれた方、ぜひ次回はご一緒しましょう。
年末までに来年度の計画を立てますので、ご要望があればぜひ。

京都では、毎月小さな集まりは行っています。