今月もテキストであるロジャース氏の論文「十分に機能している人間」を。
今回は小見出しも「十分に機能している人間」ということなので、この論文の中核に位置するのかもしれない。
内容的には、これまでの話を要約し、さらに次につながる部分。
様々な仮説に対して、証明していく作業があとに続くんだろう。
参加者の間で話題として盛り上がる部分が数箇所あったけど、私が印象的なのは、「セラピスト」と「診断家」にわけて、そこに起こっている出来事に対する評価が矛盾している例を挙げている場面。
ここでいう「診断家」は、ロールシャッハやTAT診断によってクライエントの状態を量る人のことで、その評価が時には適切なセラピィによる変化に対して、認知されなかったり逆の評価をされる事があるというもの。
で、私自身心理学を専攻したわけではないので、こういう診断方法は門外漢であるが、雑学的に知っている範囲でいくと「統計学的に、多数のデーターから適切と思われるカテゴリーに当てはめていく」というタイプだと認識している。
とすると、たとえば1000例中999例があてはまる評価があったとして、1例だけでも規格外のものがあったりする。
つまり、「他と比べてどう?」という相対的な評価方法をされるんだろうけど、この論文でロジャース氏が話してる「十分に機能している」というのは、「自分自身であるということ」であって、たとえ周りの評価がどうあれ、自分自身が「どのような選択もできる」ということ。
と、ロジャース氏の言葉を追っかけていくととてもややこしい表現になるが、それはできるだけ細かく伝えようとされているからだろう。
なので、私なりの解釈で行くと…
(つまりぜんぜんアカデミックでない”感想”)
自分自身に起こってくる出来事に対して、「いやだな」という感情があっても「あぁ、嫌だと思っている私なんだ」と受け止める事が出来るし、その「いやだ」という感覚が世間では「そんな風に思ってはいけません」というものであっても、「思ってしまっている」事を否定せず、その時点での自分を”大事”にできる。
そのうえで、「こう思わないほうがいいかな」という気持ちが出てきたならば、それはそれでその感情を尊重できるし、それまでの感情にこだわらない。
これは、世間的には「節操が無い」とか「優柔不断だ」などというレッテルを貼られるのかもしれないけど、そういう評価に縛られること無く「そのときの自分自身」でいる事が出来る。
うん、今の私には無理です。
周りの評価を常に気にしているし、自分自身に「どのようになってもいい」という自信が無い。
逆に周りの評価に合わせて、自分自身を隠して、無理に納得させている。
「十分に機能していない人間」あるいは「不十分に機能している人間」って事。
いや、これでも以前よりは結構自分自身にOKを出すようにはなっているんですが…
ただ、この論文の今回の部分で
「セラピィの仮説上の終結点を私なりに定義してみたが、ここでは、実際のクライエントはそこに接近するけど決して完全に到達することのできない極限として記述したのである」
とある。
理想ではあるけれど到達できない極みの境地。
うーん、やっぱり仮説上のものでしかないのか…
でも、限りなく接近できるものでもあるという。
この論文の仮説を論証する場面がこのあと続くので、来月以降もじっくり触れ合っていけば”接近”できるかもしれない。