前回話題にした東京支部法座の二日目午前に行った輪読を通じて感じたこと。
ご法話は2009年3号の華光誌誌上法話「全徳施名のこころ」
そのお味わいはそれぞれだと思うので、その中身は皆様ご自身で読んでいただくとして、その”徳”というところをめぐっての思い。
じつは私はよく「徳のある顔をされているねぇ」などとほめてもらう。
今回もある同人がにこやかに私の顔を覗き込んで「ほとけさんみたい」と言ってくださる。
まぁ、まんざらでもない。
というのはウソで、そういう言葉によって心のうちがざわついてくる。
この誌上法話で語られる”徳”というのは、仏様の慈悲であり、それを南無阿弥陀仏にこめてすべて下さるというもの。
とてもとても私が備えられるものじゃない。
そんな私が「徳のある顔」といわれている表情の正体は何か。
それは「良く見られたい」という欲による作り物だ。
「がんばっている」
「尽くしている」
「えらいなぁ」
こう言ってもらうのが大好きなくせに、さらにそれを「いえいえそんなこと無いですよ」と謙遜してさらに重ねて「良い人」ぶる。
五欲の中の「名利欲」そのもの。
ではやめれば良い。
という訳に行かない。
ある意味においては、私自身は「欲のため」動いていることでも、その現れることは誰かのためになっていることもある(と思う)
私もうれしい、相手もうれしい…であるならば、そういうのも捨てたもんじゃない。
と、ここに大きな落とし穴がある。
誰かのためになっていようとも、そこに「欲の心」が混じるのならば、それは罪悪である。
いくら善行として収めようとも、そこにわずかでも「欲」があるのならば「雑毒の善」でしかない。
ほんの一滴でも毒が混ざれば、その水は飲めないのだ。
結果、それは地獄一定のため作りにしかならない。
私の損得は、どこまで行ってもその「欲」から離れることは無い。
まったくもって救いようの無い話(文字通りね)
そんな私に「徳」などあろうはずが無い。
では、私からにじみ出るものがあるとすれば…
それは「全徳」が施された「名」すなわち「南無阿弥陀仏」を称えさせていただくことで、それをおすそ分けしていくことだ。
私がいただいた「南無阿弥陀仏」は無量の命の賜物。
だから、私が周りの人にどれだけおすそ分けしようが、私のものはなくなりはしない。
そうやって、先達から受け継いできたものが私に届き、私から同行へ。
その同行におすそ分けする行為が、同時に私自身がもう一度聞かせてもらうことになる。
つまり…
やっぱり私一人のための南無阿弥陀仏。
と、そんなことを一人で留めずに、こうやってブログで外に出していくことこそ「名利の欲」だったりする。
どこまで行っても…
「悲しきかな愚禿鸞、
愛欲の広海に沈没し、
名利の大山に迷惑して、
定聚の数に入ることを喜ばず、
真証の証に近づくことを快しまざることを。
恥づべし、
傷むべし。」
『教行信証』親鸞聖人
うーん、私の場合は恥じたり傷んだりすることも「おぉいいところに気が付いてるな」とまたまた「名利の心」で受けてしまう。
底なしやねぇ