今日はミニカン継続学習会の予定でしたが、事前の参加申し込みが少なく中止になりました。
来月は10日ですので、皆様早めのご予定を。
で、以前からこの学習会の前か後に「ワークショップの分かち合い」をしましょうと松岡先生と話しておりましたので、中止になった分たっぷりと時間をかけて話をしてきました。
同じ出来事でも、先生の感じる側面、私の感じる側面それぞれありますし、お互い話し合うことで気付きがあったりします。
今日もその場面での、また後からの細やかな対応に、ありがたさを感じ、また勉強させていただいた感じです。
そんな振り返りも経たところで、先日のワークショップでの気付きを少し。
私自身が真宗カウンセリングを学びだした頃…いや、それ以前に回りの仲間が学びだした頃から、「開く」ということの理解が大きなテーマになっていました。
なかなか「開く」事が出来ない私自身。
「あぁこの人は開いているなぁ」と感じる様々な場面。
そんな対比を通して、私なりの「開くと言うことは…」というものをずっと持っていて、さらにそこに近づけないもどかしさを感じていました。
その時点での「開く」ということに、じつは大きな誤解があったんです。
それは
自分のうちに秘めているものを包み隠さずオープンにする
と言う感覚です。
言い換えれば
話しにくいことでも話ができる関係を築いていく
ということ。
しかし、ここには「無理して何でも話をする」ことも「開く」と認識し、それができない自分を責めるという非常に辛い状況にありました。
そりゃあ人に言えない話は一杯あります。
守るべきものもありますし(まぁ、たいしたものではないですが)、自分が良く見られていたいという欲も(たいがい見透かされてたりもしますが)あります。
そういう表に向けての「開く」の前に、内なるものが「開く」と言う事があるのを最近になって気付いてきました。
自分の中かから浮かび上がってくる思い・感情に対して、そのことが不都合だからとか、それでは駄目だと思うからとか、そういうことで蓋をしてしまう事があります。
理想の自分に対して、そうじゃない現状を嘆いて自分を責める…そういうことにつながってくるので、隠そうとする。
それもがんばってやっていると言うより、無意識にそうしてしまっているんですね。
そんな自分の内なるものを、そおっと受け止めてみる。
どんな思いや感情が出てきても、「そんな自分がそこに居るんだね」と。
これが、内なる自分に「開けて」いる状態じゃないかなと。
そんな自分があるって事を言葉にして伝えてみる。
その隠そうとしている中身をオープンにするんじゃなくて、「隠しておきたい私なんだ」ということを言葉にしてみる。
これは内なるものを「開いて」それをそとに「開いて」いる状態ですね。
中身を何でもさらけ出すんじゃなくて、今どういう自分かってことを丁寧に見つめて、あるいは衝動的にあふれてくる感覚をそっと捕まえて、
「今、こういう私がいます」
と言葉にしてみる。
もうひとつ「開く」に関して言うと、自分の中にある100のことを100表に出すことだけが「開く」じゃなくて、その中のほんのひとつでも言葉にして見る事が出来たら…
残りの99を問題にするんじゃなくて、1つでも言葉に出来たことを大事にする。
そういうプロセスも「開く」と言うことにかんして味わえます。
回りに100%近くオープンにしている人がいたら、そうなることを理想としてしまいがちです。
(こちらは100%と思っていても、本人はほんの少しだって場合が多いでしょうけど)
それも大事でしょうが、今の自分自身を認めていくこと。
そこから「開かれた私自身」が始まって行くと思います。