コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

言いたいことを聞く ~ボーリング・フォー・コロンバインより~

2009-11-15 18:03:26 | 日常雑感

昨晩「ボーリング・フォー・コロンバイン」という映画がテレビ放映されていた。
アカデミー賞も取った、マイケル・ムーア監督のドキュメント(?)映画。

基本、映画は娯楽としている私でもこの作品のことは知っている。
が、積極的に見ようとは思っていなかった。
今回も、深夜に放映があることは知っていたが、「絶対見よう」というほどのものではなく、ただその時間にまだ起きていて、点いていたテレビをザッピングしていたら「おぉ、始まってたんだ」というくらいのものだった。

映画自身の内容は、有名映画だからすでにご存知の方も多いだろうし、未見の方にはあまりネタばらしするのもなんなので多くは触れない。

で、印象としては…
やはり意志を持った人間が「編集」するという行為を挟む時点で、何らかの方向に引っ張る「気持ち」があるなぁ、って事。
だから、純粋なドキュメントとして「知る」というよりは、ある意思の側面から「観る」ということを忘れないようにしないとね。
このことは昨今のワイドショーなどで痛烈に感じてるから(まぁ、こちらはドキュメンタリーよりたちの悪い、エンターテイメント・ショーだからね)一方の情報ですべてを知ったつもりになることは怖いことを知っている。

じゃあ、面白くなかったのかというと、これが気がついたら最後まで観ていたってくらい引き込まれていた。
逆に、単なるドキュメントにしないで、観客の心をつかむ「演出」が巧みだって事だろう。

と、映画の話をずっとしたいわけじゃなく(それなら音楽・映画ブログもやってるしね)その中のワンシーンが非常に印象に残ったから。

ちょっとネタばれにもなるんだけど、この映画の主軸に「コロンバイン高校」で起きた学生による銃乱射事件がある。
その犯人が何故そういうことをしたのか、当時のマスコミはいろんな「専門家」が出てきて解説している(どこの国もいっしょやね)
その映像のまとめに、みながこぞって原因のひとつに「マリリン・マンソン」と声をそろえる。
「マリリン・マンソン」というのはロックアーチストで、ダークな世界観(死や恐怖)を演じている(あまり聞いたことはないけどね)世界的にメジャーなアーチストだ。
二人の犯人が「彼の音楽を聞いていた」ということで名指しされたのだ。
他にも、「暴力ゲーム」「暴力映画」「暴力アニメ」など、多くのものが影響を与えていると指摘されている。
まぁ、こういうものがあたりまえのように氾濫していることは私も知っているし、まったく影響がないとは思わない。
しかし、そのまえに「自分に問題はないか?」という視点は欠けていないだろうか?
と、この話をするとそれてくるので、今回はこれ以上深めない。

で、その「マリリン・マンソン」はかなりバッシングされるのだが、数年後、ちょうどムーア監督がこの映画の撮影をしているときに、コロンバインの近くでコンサートをするというので、インタビューが行われた。
そこで彼なりの意見もいろいろと語られていく。
その最後に監督が「コロンバインの被害者の人たちに何かメッセージを伝えるつもり?」と尋ねられたときに、彼が言った台詞が深かった。

「いや、何も言うつもりはないよ。ただ、みんなの言いたいことを聞くさ。誰もそういうことをやっていないからね」

記憶が頼りなので、正確な台詞はわからない(もともと日本語吹き替えだから、原文がどうかも知らない)
まぁ、台詞どうこうより、それを聞いた私の”感じ”を書きたいからいいでしょう。

事件が起こった後、「これが原因だ」的なことを多くの”専門家”が話をしていく。
相手の話が違うと思えば、自論で持って攻撃していく。(全米銃協会のチャールトン・へストンしかり、それに対するムーア監督しかり)

一方で、その事件の関係者は、インタビューでカメラの前にさらされると、途中で何も言えなくなってしまう。
インタビュアーが気遣っているようにも見えるが、その光景もカメラで記録されているのだから、ほんとうにその関係者の心の傷を気遣っているか疑問だ。

マリリン・マンソンも、バッシングの言葉を浴びるだけで、自分の話を聞いてもらえなかったんだろう。
ちぇんと、聞いて欲しかったんだろう。

もちろん、同じ過ちが起きないように、原因を探り、対策を講じることも必要だろう。

しかし、今、ここで苦しんでいる人の話を、ゆっくりゆっくり、その人の話したいように話してもらうのを聞いてあげること…

とても大事で、深いことを、マリリン・マンソンの台詞から感じた。


この映画のテーマのひとつは、「恐れ」から起こっているということの追求だと思う。
その「恐れ」は、おそらく相手との理解が断絶されていることから始まっているように描かれている。
「言いたいことを聞いてあげよう」
ここからはじめなければ、断絶は解消しないだろうが…

と、この話もこのまま続けると評論になってしまうので、今日はここまで。