コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

宿善 と 求道心 ~華光大会の御法話より

2009-11-27 00:17:14 | 真宗カウンセリング

華光大会の話題から、座談会のことを中心に書きましたが、聞かせていただいた御法話の中にも大きな気付きがあります。
いや、冷静に考えると何度もお聞かせに預かっていることなのでしょうが、このタイミングで聞かせていただくことで”響く”事があったりします。

大会が始まる前のエントリーで「因果」のことを少し書きました。
お浄土に生まれさせていただくのは、仏様の「因」によるということ。

今回の法話の中で増井先生が「五重の義」のお話をしてくださったのですが、その中の「宿善」のお話の中で、「求道心」ということをおっしゃってくださいました。
先生のお話は、その前後の流れもあるので、部分的に取り出しても本意が伝わらないと思いますので、興味のある方はいずれ発売されるであろう音源か映像をお待ちください。
(華光会のHPを要チェックですね)

で、私が味わったことは、先生のお話と、私自身の関心の部分が混ざり合って残ります。

普通「宿善」というと、私がなにか善を積んで、それがいつか因果の種になるという風に思われますが、この私が積もうと思う時点で、その宿善(と思っているもの)には「欲」が混じってしまいます。
また「求道心」というものは、この私が真実を求めていく心と思われますが、実は私のほうには「求道」する心など微塵もなく、求めているものは「欲」を満たすためのものでしかありません。

なぜ「求道心がない」と言いきれるのか…
「求道する」と言うことは、お浄土に生まれたいと願う心から起こるのですが、本当に私はお浄土に生まれたいと願っているのでしょうか。
罪悪も無常も、本当に感じてませんし、観じることもできません。
「苦から逃れたい」と言う心はあるかもしれませんが、それも「目の前の苦」を何とかしたい気持ちに他ありません。

そう、求道心もなければ、宿善もない…
お浄土に生まれさせてもらえるはずがありません。
聴聞といっても聞けるはずがありません。

聞けない奴なんです。

でも、様々なご縁をいただき、おかげさまをいただき、まがりなりにも法座にお参りして”求め”ている。

ここまで書いたらお気づきでしょうか。
全部、仏様のお働きによって「求め心」までいただいている。
阿弥陀仏の「宿善」が、私の「求道心」となって、この身に働いているんですね。

それなのに、「宿善」を積めると思い込んだり、一生懸命「求道心」を起こして聴聞していると思っている。

これが大きな過ちですね。

だから、私の方にあると思っている「宿善」=「求道心」は頂きものだと知る。
なぜいただけるのか…
それは、この私が「願われている」から。
その願いを成就させるための「因」をいただいている。

「求道心」も、起こさせてもらっているんですね。