コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

因果の道理 (結びつける「今・ここ・わたし」)

2009-11-21 05:54:58 | 真宗
今日から華光大会。
今年も多くの方がお参りされるそうだ。

直前になって様々な事情(インフルエンザの影響は大きいかも)でキャンセルされる方がある一方、急遽参加を決める方も居られる。
しかも、初めてお参りされる方が。

で、気になって、時々チェックしてる「2ch」(いろんな話題のスレッドでコミュニケーションしているサイト)を覗いてみた。

すると、予想通りというかなんというか、親鸞会のスレッドで華光大会の事が話題にされている。
(いつもは名前を伏せるけど、今回は出していいかなと思ってる)

親鸞会のことをご存じない方は特に気にしなくてもいいですし、親鸞会のことをどうこう書こうというつもりもなく、日ごろ思っていることを話すネタフリにするだけです。


まぁ、こうやって多くの方が華光会のことを知ったり、気にしたりしてお参り下さることは喜ばしいことかもしれない。
しかし、こうしたサイトで話題にされるときには、「親鸞会と比べて」とか「親鸞会を批判」あるいは「反親鸞会を批判」するための材料にされているだけで、はっきり言っていい気はしない。

そして、実際にお参りくださる方も、その延長の気分でこられるのならばちょっと寂しい。


ここからは、そういう方だけでなくいろんな方へ通じるお話。

浄土真宗を通じていろんなものを求める方がいると思う。
その到達点は「浄土に生まれる」と言うことだろう。
だとすると、その”因”はどこにあるのか。
私のほうにはなく、「仏の願い」でしかない。
では私にある”因”は…
それは地獄行きのものしかない。

だとすると、法座で御聴聞するということはどういうことか?
私にお浄土行きの因はなく、阿弥陀仏に因があるということを知らせてもらう”縁”だ。
本願寺で聞こうが、親鸞会で聞こうが、華光会で聞こうが、それは縁でしかない。
僧侶であろうが、在家であろうが、学校で学んだものであろうが、まったく知識のないものだろうが、そういう環境の違いも縁である。
そんなものの違いなど超えたところで、「願い」が起こっている。

「親鸞会で聞けなかった人が、華光会で聞いたらしい」などといううわべの話がささやかれるが、その人は親鸞会を辞めたことで聞いたのでも、華光会に出会った事で聞いたのでもなく、そういう環境・立場のこだわりをすてて、「今・ここ・わたし」に立ち返って聞かせてもらったのだ。
もしご縁の違いがあるとすれば、「今・ここ・わたし」という、積み重ねてきたものも経験も知識も関係ないということを教えてもらえたかどうかの違いだけだ。


子どもの頃から華光会にご縁があり、お育てにあったからといって聞けるとは限らない。
家族に熱心な得心者がいるから聞けるとは限らない。
近くに「間違いなく善智識だ」と言う人が居るから聞けるとは限らない。
寺に生まれたから聞けるとは限らない。
親鸞聖人の血を引くから聞けるとは限らない。

そういう環境・立場を捨てて、唯一つの肩書き「願われているもの」として聞かせてもらえばいい。


じゃあ、今までの人生はまったく無駄だったのか…?
いや、そうではない。
良い出来事も、悪い出来事も、それらを経験してきたからこその「今・ここ・わたし」がある。
それらの出逢いを無きものにする必要はない。
どうどうと歩んできた道を受け止めればいい。
他人と比べる必要はない。


良いと思える縁があったから得なわけでもなく、悪いと思える縁があったから損なわけでもなく、わたしにはわたしにしか歩めなかったご縁があった。
そのうえで、「今までは出会えなかった」ものが、「これから先出会えるかどうかわからない」ものが、「今・ここ・わたし」だけが確かに出会わせてもらえる。

縁を味わうのも妙味があって捨てがたいのだが、そこに留まらず、わたしの持っている”因”、阿弥陀様の持っている”因”を聞かせてもらって、それぞれが咲かせる”果”をハッキリさせてもらう。

せっかく、そのことを教えてもらえる場に出てくるならば、他の事はもうどうでもよろしいじゃないですか。