コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

願われていることを知る 2 

2009-11-25 23:29:23 | 真宗
前回は状況の話が中心でしたので、今回は私の感じを。
部分的に重なる部分もあるとは思いますが。

3日間、ほとんどご一緒した方も居られれば、一座だけのご縁の方も居られました。
(ずっと居たいけれど、少人数なので他の方の機会にとご遠慮された方も)

ここ数年でなんどか「真宗カウンセリング・ワークショップ」をお手伝いしてきましたが、1泊して、しかも同じ参加者で作り上げていく関係は、そのセッションごとにまさに「その人の時間」という感じで進んでいきます。
もちろん、最後の時間が迫るにつれ、「この方にもうちょっと関わりたいな」というものが入ってくることもありますが、そういう気持ちを表明する自由と、無理強いしない感じの中で動いています。

今回の少人数の座談は、それに近い感覚を味わっていました。
「話したい方」が居られ、それを聞きたい私が居ます。
「話したいこと」が生まれれば、それを話している私が居ます。

そこを自由にいられたのは、そこに居られる方を「どうにかしたい私」という意識がなく、「どうにもできない私」ということが徹底できていたことと、「仏様が願って、働いてくださっている」ことを信じる事が出来たということ。
もうちょっと言えば、「仏様の力」で「自ら気付かされて」「成長していく(破っていく)」ことが信じられたと言うこと。

相手の成長を信じる事が出来る感覚と言うのは、意識してできることじゃなかったですから、私にとってはとても貴重な感覚でしたね。

具体的には、やはり自由に話してもらって、その時々に現れている言葉を繰り返させてもらうことで、その方にもう一度(自分から出てきた言葉を)聞きなおしてもらう。
私が何か伝えるのではなく、その方が聞いてきたことを自らの口から発して、もう一度聞いてもらう…その連続だった気がします。
まぁ、まだ徹しきれず、多少意図的に水を向けることもありましたが。

私の中に流れているテーマは「願われている」って言うことでしたね。

前回書いた「ちょっとありがたい気持ちになることがある」っていうことも、なんにもなくて自己暗示的に「ありがたい気持ち」になっているのではなくて、なにかが「触れた」からそういう気持ちが生まれてくる。
でも、理想の「出会い方・触れ方」を持っていると、それと比べてしまって「これは違う」「まだ駄目だ」と決めていってしまう。
それは「私」の側の動きであって、「仏様」の見方はそうじゃない。
だから、どのような形であれ「ありがたい気持ちになった」と言う事実を何度も何度も確認して、「お働き」があることを気付いてもらう。
そのことで、劇的に何かが変わる事がなくても、また「ありがたい気持ち」が生まれたときに、否定や阻害をせずに、ゆっくりその感覚を受け止めてもらえれば…
というか、そういう受けとめを「駄目」と思わされてきたことから開放されれば、常に光を浴びていることを、そおっと受け止める事ができるかな、と。

これはお念仏にも言えて、多くの場合お念仏と共に「劇的な変化」があると思っている。
だからちょっとお念仏が出てきたくらいでは「これでは駄目」「これは自力?」と、自分の枠で量りだす。
あるいは逆に「そういう風に自分で量りだすから駄目」と、さらに内のほうを見つめだし、責めだしてしまう。
また、そういうふうに追い込む関わり方を、私がしてしまっている。

ほんの少しでも、この口から飛び出してきたお念仏を、「お念仏が出てきた」ということだけ繰り返し繰り返し確認して、もう一度味わってもらう。
聞かれればそのおいわれをお話しすることもあるけれど、それは押し付けられるもんじゃなくて、自ら気付いていく。
願われているんだから。


こういうゆっくりとした「願われている」ことに包まれた時間を過ごすことが出来た気がします。

こうやって振り返ってみると、もうひとつ最近まで犯していたことにひとつ気付きました。
「そのままのお救い」ということを押し付けていたんじゃないかなと。
「自分の内ばかり見ることをやめて、そっと仏様のほうを向いてみてください。」
ということを話するときに、そこから出てくる「でも」「だって」に対して、「何が出てきてもいいですよ、そのままなんですから」と言っている私が居る。
そのこともいらなかったなぁと。
無理に「そのまま」と思ってもらわなくても、願われていることが感じられれば、勝手に「そのまま」の感覚が味わえるはず。


がんばって0点にならなくてもいいし、がんばってかっらぽにならなくてもいい。
そう、だから、がんばってそのままと思わなくてもいい。

すべては阿弥陀様のお仕事で、すでに願われているのだから。
願われていることを、自ら気付かせてもらうだけ。

私がえらそうに言いながらできることなんてこれっぽっちもありませんね。