コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真カ研 月例会 11月

2009-11-19 14:57:55 | 真宗カウンセリング


先月と同じ「十分に機能している人間」の章、中盤。

先月のSさん、今月のMさんと、はじめてレジュメ担当をされるが、さすがに現役学生さんはきれいにまとめたレジュメを作られる。
ついつい理屈っぽく並べようとする分析型(基本理系の流れだしね)の私には無理だな



今回の部分は、この「十分に機能している人間」と仮説されている”彼”と、”文化”また”社会”との関係について述べられている。

これまでも繰り返し繰り返し述べられていることだが、この仮説上の”彼”は、「どのような感情・欲求がおこってきても、それに対して防衛せず自由で居られる」ということだが、それは回りがどのような文化であろうと、それに影響されることなく「そのままのわたし」で居られるということ。
前回は診断上で異端児と診られても、それに関わらず「自分自身で居られる」ということだったが、今回の部分では文化に対してもそうだと。
さらには、先駆者になりえるということ。

話し合いの中で、今では異常と思われるが、その時点では異常と思えなかった文化、たとえば戦国時代や戦争時代など様々な規制がある文化、また特定の宗教下に支配され思想に制限がある文化ということを例に出して、先駆者と呼ばれる人たちはそういう文化の中でも「自分自身」を存分に発揮できた人ということが出てきた。
しかし、今でこそ先駆者と呼ばれる人たちも、その時代の渦中では評価される事がなかったのじゃないだろうかと。
やはり「異端」として扱われていたんだろうなぁ。

じゃぁ、今は正常な文化と言えるのか…
私の頭によぎってきたのは、同じ枠に入るように教育することを”良し”として、そのレールから外れるものを”悪し”とする、また会社でも特殊な考え方を認めない、そんな今の文化も、ロジャース氏が言うような先駆者を受け入れていない文化だと思える。

回りになじむためには、ある程度自分を殺して、”迎合”することを求められる。
いや、それを無理に行っているのではなく、自然とそういう妥協をしてしまうようになってしまっている現実…
なかなか「十分に機能している」状態とは程遠い気がします。

一方で”社会”との関係。
閉じこもることなく周りの人とコミュニケーション取れていくかと言うことです。

仮説上の”彼”は、その瞬間瞬間に起こってくる欲求に対して、その欲求を阻害(防衛)することなく自由でいる事が出来るのですが、私のイメージだと自分の欲求に忠実であるととても自己中になると思います。
しかし、「あらゆる欲求」に自由でいられるならば、一番適切なベクトルでそれらの欲求に満足できる行動を選択できると言うんですね。

たとえば、「殺してやりたい」という衝動が生まれたとします。
普通(何をして普通と言うのか…まぁ道徳的ということでしょうか)、そこには「自制」の欲求が働き、「殺したい」という欲求を抑えてしまいます。
ごくあたりまえの動きのようですが、これだと「殺したい」と言う欲求を封じ込めたままですから、何かのきっかけで抑圧されたその感情が爆発する恐れが残りますね。
(そのたびに自制がフル活動するのでしょうが…)
しかし、「十分に機能した人間」ならば、「殺したい」という欲求を抑えるでもなく、自己の中で他の欲求、たとえば「殺すことで悪い人間に思われたくない」だとか「殺さずに仲良くなれるようになりたい」だとか、(わたしには上手く想像できませんが)他の欲求にも応える形で、適切なベクトルで行動すると言うのです。
この話だけですと、妥協点だとか、中庸だとかいう感覚に思えてくるのですが、それだとすべての欲求が中途半端に終わるでしょうから、そういうことでもなさそうです。
すべての欲求が満たされるのか、あるいはそういう欲求に煩わされる事がない心境になるのか…これはもう”悟り”と言っていいかもしれません。


このあと、この「殺したい」という欲求をもったクライエントに出会ったときに、カウンセラーはどういう対応が出来るか、という話題で話が膨らみました。
そのことは、また機会があればこのブログの話題にしてみたいと思います。

今回書いた話題だけだと、この仮説上の”彼”はすごく特別な人間のように思えますが、こういう”彼”になるのが目的、あるいは”彼”を作るのが目的ではなく、カウンセラーが適切な関係を持つことが目的であり、その結果、究極のところ”彼”のような「十分に機能した人間」になりえると言うお話。
一足飛びに行く話ではありませんね。