コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

深くご恩を喜び

2008-05-17 01:10:29 | 真宗

子ども向けの法話を考えるというご縁があり、「食事の言葉」をテーマにすることにした。

で、ちょっと練り始めたんだけど、普通に毎日言っているこの言葉が実に深い。
しかし、それを子ども(もしかしたら4・5歳の子らが中心)に説明しようとすると、結構難しかったりする。

「おかげ」「ごおん」「ありがたく」
これをどう説明するか。
言葉の成り立ちとして、説明を重ねることはできるけどねぇ…

ということで、ここは細かいところはおいといて、全体の「願い」に重点を置くしかないなと。

そう、結局、いくら言葉の意味を追っかけたり分解したりしても意味はないし、理解にとどまってしまう。
ましてや、子どもには理屈よりも感覚的なところで受け取ってもらうに限る。

いっしょにいる大人を意識したら欲が出ちゃうから、もうそこは割り切っていこうと。

本番はまだ先なので、じっくりと「軽くする」作業に励みましょうか。

そう、「願い」なんですよ。


剥がされる教え

2008-05-15 23:50:03 | 真宗カウンセリング

今日は仏法のお話を。

ここでも何度か触れていますが、あるブログへのある方の投稿を契機に、親鸞会という組織の人が華光会に興味を示しているようです。
まぁそれ以前からつながりがないとは言えませんし、いまさらどうということはないのですが、真仮いりまじった情報には辟易としてしまいます。
いちいちそれを正して行こうとも思いませんし、付き合えば付き合うほど煽りや冷やかしに晒され心みだしてしまいますから。

しかし、そういう書き込みを見たりすることで、自分の足元を振り返ることが出来ます。

つくづく、華光で聞かせていただいていることは「剥がされていく」教えなんだなと。

「後生の解決」「信心獲得」「獲信」…それらを目指して仏法を一生懸命勉強される、また実践される方は多いでしょうね。
むしろ、そうやって積み重ねて真実に近づいていくことが「正道」なんでしょう。

しかし、「獲信」ひとつとってみても、そこには「今の自分をなんとかしたい」という「欲の心」が混じっているんじゃないでしょうかね。
ほかにも、「どうやって信心を得よう」とか、「どうやって解決しよう」とか、自分でどうにかしたいという気持ちが混じる。

真宗の教えというのは「弥陀を頼め」というもの。
「頼め」というのは、一見こちらから行動を起こすようにも見えますが、阿弥陀様の方で「願も行も具足した南無阿弥陀仏を用意した」から、任せておけという宣言が「一心に弥陀を頼む」ことだけでいいのだと。
自分ではどうしようもないうそれだけのものを用意するほどの存在を、こちらの下手な知識で計ったり、理解しようとしたりできるはずがない。
それだけ大きなものにぶち当たったら、もう何も出来ずにお手上げです。
お手上げだけじゃ困るから、頭を下げ手を合わせお念仏する。
一見自分でしてるようですが、これらすら自己を離れたところで成り立っている。

そういう「これができるはず」という思いを、ひとつづつ「剥がされる」のが法座ですね。
役にたたないことを知らされていく。
その「役に立たない」ということを根拠無しに言われてもうなづけないから、お聖経を規範としてこれでもかと知らされ、こだわっているものを手放していく。
お聖経を理解したり、記憶したりする行為とは全然別物ですね。

なにも出来なければ出来ないほど、寂しく哀しくなってくるのですが、そこは「ひとりじゃないよ」と。
一生懸命頑張ってきたことも知っていてくれた上で、「でも後生の解決に役立つものはひとつも出来ないでしょ」と。
「だから任せておくれ」という暖かみがそこにある。

「頑張るな」でも「頑張っても無駄」でもなく、「頑張ってるのは知ってるよ」と。
ただ、後生のことは「任せておくれ」と。

「信の一念」なんてものは、その瞬間を目指したって得られるもんじゃない。
手放して手放して、もうどうしようもなくなった時に「任せておくれ」の声にうなづくしかなくなる時…
自分でその時を向かえるのじゃなく、あとから「その瞬間だった」と言えるだけのこと。
それも、その時刻が大事なんじゃなく、そのひるがえり目を通過して「変わっている自分」が大事。

様々な時間経過を通じて、「今の私は確かに違っている」ということ。
同時に「私自身は何も変わっていない」といえるものがあるということ。

人は人だしねぇ。

どこかで聞いた話をしっかり胸に抱いて、「これだけは放せない」と力を入れて、華光の法座に来ても、何も入ってこないだろうし、何も捨てられないでしょうね。

「あの人は獲心してるんだろうか」「この人は正しいんだろうか」なんて探ってみても、自分のものさしが正しいかどうかもわからないだろうしねぇ。

「華光の法座に行って何か得よう」と思っている限り、逆に耳は閉じたまま。
いや、一生懸命聞いているつもりだろうけど、そんなのは自分の都合に合わせて取り込もうとしているだけ。

どこをどう切り取ってみても、こいつは「地獄一定」だと思い知らされるなら、今まで積み重ねてきたものも、これから積もうと思っているものも何の役にもたたんと知らされるだけ。
それこそ、親鸞聖人がたどり着いた心境じゃないでしょうかね。

親鸞聖人になるんじゃなく、親鸞聖人の言葉を理解することじゃなく、阿弥陀仏の「頼め」に応えるってことが親鸞聖人と一味だと知らされるだけ。
それを教えてくれるから「善智識」だと仰げるのであって、最初から「このひとは善智識だから、この人の言うことを聞けば間違いない」なんて信じ込むのは、積み重ねる行為でしかない。

もし、これから華光にお参りしてみようという方がこのブログを読まれたならば、まずはどういうつもりで来ようとしているのか見つめてみてください。
今まで積んできたものは全部捨てて、この「刹那」に聞かせてもらってください。
だから、それまでの聴聞暦も人生経験もまったく違う人たちが、膝を交えて話し合えるんです。

私は、それが当たり前だと思っていますが、そう思えるのもお育てあってのことなんだなと、いろんな論争を見て思えるわけなんです。

おかげさまで、足元を振り返らせていただきました。


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 8

2008-05-14 00:38:32 | 親子コミュニケーション

前回の日記に書いた、「自分の感情を吐き出したいことと、自分の思いを伝えてわかってもらうということは違う」ということについて書いて見ます。

子どもを叱るとき、最初は「これをしたら駄目」「こうして欲しい」ということを伝えたいと言う気持ちから始まると思います。
たとえば、車の通る道が危険だから「走ったら駄目」だとか、「止まりなさい」とか。
まぁ、こういう危険に関わるものならまだはっきりと伝えたいことが「危ないから」とはっきりしているのですが、「勉強しなさい」とか「片付けなさい」ということだとどうでしょう。

先の「走ったら駄目」ということなら、いくら子どもが「走ってない」と言っても実際「走っている」行為をしているかいないかで、子どもにとってもごまかしきれないのは明白です。
しかし、「勉強しなさい」や「片付けなさい」だと子どもなりに「やっているつもり」があるかもしれません。
そういうときに、しつこく「しなさい」「やりなさい」だと「やってるわ!」と帰ってくるんじゃないでしょうか。

その時点で「こうして欲しい」という気持ちとは別に「わかってくれない」という気持ちが生まれてきます。
多くの人がそういうときに自分の思い通りに行かない状況に困り、感情的になって攻撃したくなってくるんじゃないでしょうか。

感情的になるとどうなるのか。
まず、相手の言葉を聞こうとしません。
「わかってほしい」が一番ですから、自分のわかってほしい事柄をどんどん吐き出していきます。
それも過去に遡って、今まで押さえていたものまで吐き出したくなるんじゃないでしょうか。
子どもには子どもの言い分があるのですが、大人と子どもの力関係でそれがつぶされます。
言い返せる子どもがいても、「逆らうな」とさらに感情が湧き出て押さえつけます。

言いたいことが言えなくなる子どもは、どんどんストレスを溜め込みます。
「今の子どもは切れやすい」と言われますが、そうなるまで溜め込むことを強いるからです。

思い返してください。
最初は、子どものために「こうしてほしい」と伝えたかったはずです。
「子どものため」が、いつしか「自分のため」に変わっていませんか。

では、どうすればいいのか。
ひとつ試してほしいテクニックがあります。
こまめにたずねてあげること。

伝えたいことを一つ話したら「ここまででどう思う?」と聞いてあげる。
すぐに答えが返ってこないこともありますから、そのときはできるだけ待ってあげる。
悪いパターンは待ちきれずに「これこれと思ってるんじゃない」と答えを押し付けること。

答えが返ってきて、伝えたいとおもっていることと違うようなら、
「そう言いたかったんじゃないから、もう一度言うね」と。

何故そうするかと言うと、最初の事が伝わらないのに、どんどん違う話題にしていったら聞くほうも混乱しますから。
最初の「伝えたい」ということがおきざりになり、言いたい側の自己満足になっちゃう。
相手に考えさせてあげる時間であり、自分も振り返る時間ができるんです。

「伝える」ってことは、こちら側から伝えようと思うことで終わるのではなく、相手側に「伝わりました」という確認が取れてはじめて「伝える」という目的が達成できます。

実際は、感情的になっているときに落ち着くことはとても難しいです。
だからこそ、そうなる前にできることがあるならやってみませんか。

親子コミュニケーション 0 「序章」
親子コミュニケーション 1 「同じ目線」
親子コミュニケーション 2 「ありがとう」
親子コミュニケーション 3 「きれい」
親子コミュニケーション 4 「しつけ 暴力 虐待」
親子コミュニケーション 5 「呼び方」
親子コミュニケーション 6 「見本を示す」
親子コミュニケーション 7 「私メッセージ」


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 7

2008-05-11 00:20:08 | 親子コミュニケーション

今日は保育園の保護者会総会がありました。
一通りの総会議事終了後、コーヒーを飲みながらの雑談から、子育ての悩みについての話が盛り上がりました。
私も、このブログで書いていることや、これから書こうと思っていることなどを話しする機会になったのですが、他の保護者の方も似たようなことを実践されているという話を聞かせていただき、心強く思ったものです。

その話題の中から、一番重要なことだけれどまだ書いていなかったことをひとつ。

指示・強制するのではなく、「こうして欲しい」という自分からのメッセージで伝えるということ。

朝、急いでいる時に子どもがなかなか準備を進めてくれない。
「早くしなさい!」
「はよしろ!!!」
「遅い!グズ!」
あるいはもっときつい言葉で急ぐことを強要してしまいます。
こちらにも予定があるし、保育園に子どもを通わせているご家庭ならお母さんも働きに出ていることがおおいでしょうしね。
時間は限られているから、急いでもらうしかない。

子どもからするとどうでしょう。
お母さんを困らせてやろうとゆっくりしている?
ほかにやりたいことがあるから、後回しにしている?
子どもなりに、一生懸命用意しようとしている?
全部が全部とはいいませんが、子どもなりに一生懸命なことがあるんじゃないでしょうか。
大人と同じペースで動いて欲しいというこちらの希望もあるのですが、子どもには子どものペースがあったりします。
そういうときに、少し違った言い方で伝えることは出来ないでしょうか。

大人同士の関係でも「○○しろ」と強制されるのは苦痛です。
逆に、言うこと聞いてやるもんか、と逆らいたくもなりますよね。
そこで「私は、○○して欲しい」という伝え方はどうでしょうか。
先ほどの朝の場面でしたら「お母さんは、急いで欲しいんだけどな」と。
もう少し丁寧にするなら、「あなたはあなたなりに急いでいると思うけど、私はもう少し急いで欲しいし、そうしてくれるとうれしい」という言い方です。

まず、子どもなりにやっていることを認めてあげる。
こうして欲しいというメッセージを伝える。
そうすればうれしいという感情を伝える。
大人の関係だと単純にはいかないかもしれませんが、子どもにとっては「こうすればおかさんはうれしいんだ」という情報をもらったら、「うれしいと思って欲しい」という自分から動きたい衝動にかられると思います。

自分の感情を吐き出したいことと、自分の思いを伝えてわかってもらうということは違うんですが、そのことは別の機会にするとして、自発的に動いてもらうための近道は、こうして伝える・伝わるということが重要だと思っています。

私が、こうして欲しいというメッセージを伝える。

もう少し例を挙げましょう。
「片付けなさい」ではなく「お母さんは、片付けて欲しいと思ってる」
「全部食べなさい」ではなく「全部食べてくれたらうれしいな」

普段、時間に追われているときにはなかなか難しいものですが、心がけてみてください。

もちろん、すぐにできないからと言って自分を責めないでください。
いくら後悔してもすでに終わっていることですので取り返せません。
できなかった時は「あぁ、出来ていなかったな」という今の状態の確認に留めて、次の機会には、ね。

親子コミュニケーション 0 「序章」
親子コミュニケーション 1 「同じ目線」
親子コミュニケーション 2 「ありがとう」
親子コミュニケーション 3 「きれい」
親子コミュニケーション 4 「しつけ 暴力 虐待」
親子コミュニケーション 5 「呼び方」
親子コミュニケーション 6 「見本を示す」


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 6

2008-05-09 22:05:47 | 親子コミュニケーション

今日、小学校の授業参観に行ってきました。近所の別の学校に行っている友人のブログでは、授業中歩き回っている子がいる様子なども書かれているのですが、今日見た限りではこの学校ではそういう感じはないようです。

ただ、見に行っている親の方に気になることがあります。

教室内に入っている親御さんはそうでもないのですが、廊下で見ている親御さん(一部ですが)は知人を見かけると声をかけ、おしゃべりに興じはじめられます。
「授業中はしゃべらない」ということは、大人が子どもに対して教えることだと思うのですが、手本となる大人がたとえ廊下であっても、授業している横でぺちゃくちゃおしゃべりするのは…考えものですね。

実はこのことは以前から感じていました。
私の子どもが通う保育園の発表会は、結構大き目のホールで行います。
自分の子どもの出番になると、親たちは前の方に詰め寄って真剣に見ますが、それ以外のクラスになると後ろに下がります。
そうすると後ろのほうは子ども達が発表をしている最中でもかまわずおしゃべりをしているんですね。
最近はビデオを撮る親が多いんですが、迷惑にならないように後ろのほうに撮影用のスペースが用意されます。
すると、映像はズームで子どもらをとっているのですが、音声は近くでおしゃべりする親たちの声ばかりになるんですね。

普段、仕事や育児に忙しく、たまにこういう機会で他の親御さんたちと出会って、育児の情報交換や悩み相談をしたいという気持ちはわかります。
でも、そういう様子を子ども達は見ているんですね。

静かに出来ない…授業中も動き回る…集中できない…
その見本を示しているのは親達だということ。

前に、挨拶やお礼を普段から親がしていたら、子どもがそれを手本として身につけていくということを書いたと思いますが、その逆もあるということ。

「静かにしなさい」ということを教えるなら、自分達がそのことを示してあげないとね。

ちょっと心がけて見ませんか?

親子コミュニケーション 0 「序章」
親子コミュニケーション 1 「同じ目線」
親子コミュニケーション 2 「ありがとう」
親子コミュニケーション 3 「きれい」
親子コミュニケーション 4 「しつけ 暴力 虐待」
親子コミュニケーション 5 「呼び方」


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 5

2008-05-08 00:11:12 | 親子コミュニケーション

しばらく法座の話題が続いたので、久々に親子コミュニケーションの話題を。

前回はちょっと重い話題になったので、今回は少し軽く。

私が子どもを呼ぶ時、「○○ちゃん」「○○くん」と名前で呼ぶようにしてます。
きっちりフルネームというわけでなく、名前の頭の文字を取った愛称ですが。

「えっ、そんなの当たり前」と思われますか?
おそらくほとんどの方が、普段はそう呼んでおられると思います。
では、怒る時はどうですか?

「あんた、えーかげんにしーやぁ」
「お前は、はよせんかい」
「おのれはぁ…」

こういう呼び方が良いか悪いか…自分がそう呼ばれたときの気持ちを思い出してみてください。

「でも、癖でどうしても言ってしまう」という方、別に責めてはいませんよ。
このことをちょっと気にかけるだけで、その後の展開が変わるんじゃないかなと思っているんです。
「あんた」とか「お前」とか言ってしまった時に、このことが心によみがえってきたら、一度名前で呼びなおしてみてください。
その一瞬だけで、ちょっとだけでも落ち着くことが出来ると思います。
ほんの少しだけでも、言い方が丁寧になったら、その後子どもに対して伝えたいこと、やめて欲しいこと、やってほしいことを、伝えやすくなってきます。

怒鳴られるだけよりも、相手にしてもらっているという感覚。

子どもって、そういうところを敏感に感じてるんです。

私の知っている人も、「お前」っていう言い方はしたくないと考えておられます。
でも、怒りの感情に襲われると「お前」呼ばわりしてしまっている。
その後は感情の方が先にたって、「叱って正す」よりも、「怒って言いたいことを言う」だけになってしまうようです。

私自身も、感情に巻き込まれている時は、お前呼ばわりはしませんが「○○!」と大声で呼び捨てにしています。
そのとき、一息ついて「○○ちゃん」と言い直して、自分も落ち着かせ、相手も落ち着かせ、それから伝えることを始めます。
落ち着けたら、目線をあわす余裕や、ボディタッチする余裕も出来ますからね。
まぁ、なんでもかんでも、すぐにうまくいくって事ではないのですが…

ちょっとこのことを心に停めておけば、少し違ったコミュニケーションへの一歩になるかもしれませんよ。

親子コミュニケーション 0 「序章」
親子コミュニケーション 1 「同じ目線」
親子コミュニケーション 2 「ありがとう」
親子コミュニケーション 3 「きれい」
親子コミュニケーション 4 「しつけ 暴力 虐待」


華光出仏のすばらしさ

2008-05-07 00:56:30 | 真宗
世間ではGWですが、私が三日間法座にお参りさせていただいたので、子どもらと遊べていません。ということで、今日は散歩したり公園に連れて行ったり。
もっとも、その前に昼頃までぐっすりと、外出後も昼寝したりして身体休めもしましたが。

3日間、法座に浸っていると、こんな私でもまだ少し余韻が残っています。
前の3つのブログは、その日の思いを勢いで書いていますし、それはそれでその瞬間のお味わいとして大事なものですが、少し時間を置いて振り返ることも私には大事な時間です。
重なる話もあるでしょうが…

ずっと華光のご法座に出ていると当たり前のように思うのですが、他の法座を経験されてこられた方々と接すると、凄いことだなと感じることがあります。

「華光では信心をもらっても御恩報謝の活動をしない」というイメージがあるそうです。
まぁ、何をして「御恩報謝の活動」とイメージされているのかは知りませんが。
法座では「ご法話」がありますから、当然ご法話をしてくださる講師先生が居られます。
先生方は僧籍を持った方々つまりお坊さんです。
会から依頼をして出講願うのですから、それに応えるべく普段から勉強をされ、法話の題材を練って、お取次ぎしてくださいます。
じゃあそういう先生方を「獲信している人」というレベルで見ているのか…考えてみたら、そんな事(そんなことというのは失礼ですが)気にしたことない気がします。
その先生を見るのじゃなく、先生の話してくださるご法に用事がある。
先生の話を詮索するのでもなく、覚えるのでもなく、そのお話を通して「何を聴聞させていただいたか」という私を問題にする。
そこで受け取る「願い」に間違いがないから、師とあおいでいる。
師とあおいではいるが、頭を下げるのは先生にではなく弥陀の本願に頭が”下がる”

その後どうするか。
聞かせてもらった法話の「記憶自慢」でもなく、積み重ねた「知識自慢」でもなく、その法話を通して動いた”心”に焦点をあて、座談会で口を開く。
そこにも先生が参加されるが、先生に示談してもらうのではなく、「聞かせてもらったもの」が「聞かせてもらったこと」を語り合うだけ。
信心を得たものは、自分に届いた「どうか聞いておくれよ」の願いを、目の前にいる求める方に「どうか聞いておくれよ」と手渡していく。
先生だけが特別なんじゃなく、そこにいる一人一人が法を説いていく。
これ以上の御恩報謝はないんじゃないだろうか。

そう、仏法の伝道というのは「如是我聞」であり「○○にのたまわく」であり、それぞれが聞かせていただいたことを次の方に手渡していく作業でしかない。
手渡すには相手の居場所に合わせることが近道だから、機にあわせた説法のできる先生が大切だけど、多くの「聞かせてもらった」人がそれぞれのところで話していくことで、何十何百の道が出来てくる。
これに勝る財産はないんじゃないだろうか。

今回、5人の講師による7座のご法話があり、7座の座談に何十人ものひとが法を語り合った。
白色白光、青色青光…
一々の華より、無数の光が溢れ、それぞれの光から無数の仏が出でてくださる。
それが、この私一人のためのものとは、勿体無い話だ。

自力は、捨てるのではなく、用事がなくなる

2008-05-06 00:00:46 | 真宗
このブログが、「『ハッキング』から『今晩のおかず』」までを話題にする某サイトの某会のスレッドで紹介されたようです。
おかげで、一気に60人超のアクセスが増えました。
ということで、よーこそ、おいでくださいました。
ご希望に沿っているかどうかわかりませんが、お付き合いくださいませ。


三日間の永代経が終わりました。
ほんとに稀有な、大事な、聴聞の場でしたね。

今日は少ない人数の座談会に二つ参加。
ある意味、今まで何度もご一緒している方々とのご縁でしたから、自然な流れで法の話に焦点が定まっていく感じです。

今までの聴聞も踏まえて、今の自分の居所を見つめ、無理せずに言葉にしていく作業。
「地獄があるなんて思えない」
「阿弥陀様といっても目に見えないし感じられない」
「自分の黒いところを隠したり避けたりしようとしていた」
普通の法の場なら「そんなんじゃ駄目」と言われるような発言も、それまでの実機を知らされるご法話の後では「よう、そこまで気付いてこられたなぁ」と受け止められるし、発言者もその後ろにある願いに包まれている気がする。

午前のご法話で、親鸞聖人が多く使われる「海」と言う表現を通してのお話。
午後のご法話で、「疑心」との関わりを通してのお話。
そのどちらもが、自分で「渡る」のでもなく、「渡る手段を作る」のでもなく、ただただ用意されている「願船」に乗せられることを教えてもらっている。
自力を減らすのでもなく、逆に頑張るのでもなく、「自力いっぱい、疑心いっぱい」の自分に見切りをつける…それが「任せろ」の声に応える、自力無効の世界。

それを知らされるのに、自分を飾って熱心な求道者になったり、邪魔な頭を振り絞って理解に努める必要はない。

わからんものはわからん。
感じられんものは感じられん。
黒い機いっぱいなものは黒いまま。
それをそのまま「救うぞ」の声がある。

無常と思えなくとも、無常だと言う事実。
罪悪深重と思えなくとも、罪悪深重だと言う事実。

もう先手先手で、願船が用意されている。
渡るのではなく、「任せろ」に応えることで「必ず渡す」という願いに包まれる。

簡単にいい子になれる私なら、とっくの昔に自分の積む善によってお浄土参りの種を作っているはず。
宿善を積めん奴だからこそ迷ってるのだし、迷ってるからこそ願行具足の南無阿弥陀仏が作られた。

私が敵うはずはない

やっぱり、今 ここ わたし

2008-05-04 23:59:31 | 真宗

永代経も二日目。
あるブログや2chの影響か、ネットで興味を持って参加したという方がちらほら。
今までも、他のところで聴聞を重ね、不思議なご縁で華光の法座にお参りされる方も結構居られたが、ちょっと加速度がついてきている感じ。
まぁ、あえてその分析をしようとは思いませんが。

これは私自身の受け取った感じですが、長年獲信の方程式を求めてこられた方々は、まずは今まで聞いてきたこととの比較をはじめられるようだ。
言葉の意味を「思い込んでいたもの」からリセットする作業が必要なんだろう。
また、そういう道を通ってきた先達が、そういう意図ではないんだけど、結果としてそういうリセット作業を勧められる。

お参りされた方の気持ちを考えると、一度ほぐすことが必要なのかもしれないが…なんかもったいない。

その聴聞暦を通った人に限らず、10人いれば10人の通ってきた道がある。
どの道を通ってきたかが条件にあるのだろうか。
どんな道を歩んで来ようが、今ここであわせてもらうご縁を通して、弥陀の本願に打たれることはできる、いやそのためのご本願だ。

自分の通ってきた道を知っている、わかってくれている先達が増えてきているご法座は、どんどん居心地が良くなり、これからも勇気つけられてお参りされる方が増えるだろう。
しかし、そこで一歩踏み出すこと…興味や比較ではなく、わがこととして、先生方のお取次ぎを通じて、直接弥陀の本願に触れること。

「あそこはダメでもここなら…」
「今まで間違っていたから、これから取り返す…」
「信心を獲たという実績があるなら自分にも…」
きっかけはいろいろあるけれど、どうかそんな自分の都合から開放されて、今目の前で繰り広げられる「どうか聞いておくれよ」の慈悲、「どうして聞いてほしいか」の知恵に、生身で触れてほしい。

もう、今までの後悔自慢はいいじゃないですか。


今 ここ わたし

2008-05-03 22:59:03 | 真宗

今日から華光会の永代経法要法座です。

永代経・永代供養というのは、今まで亡くなった方をお寺でずっと(永代)続けて供養してもらうというもの。
その多くが、先祖供養の儀礼と化しており、「先祖を敬わないと何か悪いことがおきるんじゃないだろうか」という畏れに対するものになっていますが、先祖や先達を偲ぶことを通じて、「今・ここにいる・私」がいかに仏法を聞かせてもらっているかと向き合うことが大事です。
法要というのは、死んだ人に対して行うものではなく、今、生きて、お念仏の出会わせていただく私のためのものです。

こういう法要に限らず「今・ここにいる・私」ということを抜かして仏法をやりとりする場面をよく目にします。
その多くは、相手を論破しようとしたり、欠点を粗探しして優越感に浸ったり…
そんなことより、”私自身”がどう聞かせてもらっているかが大事なんですけどね。

ある会を脱退した人が投稿しているものに対して、その場所や違う場所でやり取りが続いているものを目にします。
その方は、自分自身の体験を通してのお味わいを中心に書かれていますが、多くの方はそれを「正しい・正しくない」と、またその会のことを「正しい・正しくない」と一生懸命論戦を繰り広げています。

自分に法を説いてくださる人が「正しい」から、伝えてくれることを「正しい」と判断したい気持ちはわかります。
しかし、仏法の救いというのは、その間に立つ人が行うことじゃないんですね。
救い主は「弥陀」なんです。
そこの”信”ひとつなんですが、どうしても周辺事情にあーだこーだと…

順縁なのか逆縁なのか、そう簡単に判断できませんよ。
人の信心がどうかなんてどうでもいいじゃないですか。
「我が信やいかに」でしょう。
目の前に繰り広げられる縁を通して、自分自身の因と果を見つめないとね。
「仏願の生起本末」を聞かせていただく”縁”として、いままでのお育てや出会う人たちを思い、人のことはほっといて聞かせてもらいましょうよ。

一生懸命、先祖を敬うことじゃなく(敬うなとは言いませんよ)、人のことをあれやこれや詮索するのでもなく、「今・ここにいる・私」のための法を。