コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真宗カウンセリング・ワークショップ in 福岡 -3

2009-11-07 01:22:33 | コミュニケーションワーク

気がつけばもう一週間前の出来事になってるんですね。
日々の生活の中で、刹那刹那に代わっている自分でもあるんですが、でもまだまだそのときの感じが余韻で残っている部分もあります。
もう一回そのことを書いてみましょう。

今回のワークショップでご一緒した方のお一人は、以前何度か(というかずっと長い間)お会いしていたときと、もっている空気感が大きく変わっていました。
その元になることもいろいろお聞きしたのですが、そのことはここでは触れません。
ただ、とても嬉しい感じがしましたし、頼もしい感じもしましたし、さらには嫉妬に似たものを呼び起こすくらい「すごく開放された」感じをうけました。

二日間、その方のお話を聞かせてもらうことで、今までのお付き合いの歴史を含んだ上での、今また新しい関係が出来上がってきたのを感じます。

そんな中で、その方のずっと思われていたことを言葉にされていました。
「ずっと、いろいろ聞いてもらっていたけど、返してもらっているのが、応えて欲しいポイントとちょっとずれていた」

いやぁ、ショックです。
もちろん、今の私から見れば過去の私は稚拙だなぁと思います。
ですので、力不足なことは仕方ないのですが、「ずれている」と知らずに「しっかり関われている」と思っていた事が恥ずかしいですね。

と同時に、「そう言っても大丈夫」と思ってもらえる関係が、今回出来上がったんだなと。

振り返ってみると、覚えているだけで(といっても普段は忘れてますが)本当に多くの方との関わりがありました。
私が拙いために多くの方を傷つけてきたと思います。
一方では「そうなるしかなかった」というところで収めることもありますが、もし今そういう方々ともう一度出会う事があれば、少しは違った関わりができるかもしれないなと。

いや、この私の性分からいくと、引け目を感じて、とてもフラットな関わりができないような気もします。

いやいや、想像だけで決めてしまうことのほうが良くないですね。

今までの事が消えることはないですし、それをお互いの歴史として内に秘めた状態での「いま・ここ」のところで、どのようなものが生まれてこようと、「そのように」いけるような私でありたいですね。

「どのようなもの」の中には、否定的な関係に支配される私もわきあがってくるでしょうが、それを無理に「それじゃ駄目だ」と抑えることもしないような気がします。

あるアニメでの「逃げちゃだめだ」という有名なシーンがありますが、「逃げてもいいんだよ」と言う言葉が私にはしっくり来ますね。

うーん、最初の書き出しと様子が変わってきましたが、そのまま投稿することにしましょう。


明日は(もう日付が変わって今日ですが)京都支部学習会
先日のミーティングを踏まえて、またワークショップの余韻を抱えて、どのような集まりになるのか、楽しみです。
よければご参加ください。


 


真宗カウンセリング・ワークショップ in 福岡 -2

2009-11-06 00:01:03 | コミュニケーションワーク

今日はミニカン継続学習会の予定でしたが、事前の参加申し込みが少なく中止になりました。
来月は10日ですので、皆様早めのご予定を。

で、以前からこの学習会の前か後に「ワークショップの分かち合い」をしましょうと松岡先生と話しておりましたので、中止になった分たっぷりと時間をかけて話をしてきました。
同じ出来事でも、先生の感じる側面、私の感じる側面それぞれありますし、お互い話し合うことで気付きがあったりします。
今日もその場面での、また後からの細やかな対応に、ありがたさを感じ、また勉強させていただいた感じです。

そんな振り返りも経たところで、先日のワークショップでの気付きを少し。


私自身が真宗カウンセリングを学びだした頃…いや、それ以前に回りの仲間が学びだした頃から、「開く」ということの理解が大きなテーマになっていました。
なかなか「開く」事が出来ない私自身。
「あぁこの人は開いているなぁ」と感じる様々な場面。
そんな対比を通して、私なりの「開くと言うことは…」というものをずっと持っていて、さらにそこに近づけないもどかしさを感じていました。

その時点での「開く」ということに、じつは大きな誤解があったんです。

それは

自分のうちに秘めているものを包み隠さずオープンにする

と言う感覚です。
言い換えれば

話しにくいことでも話ができる関係を築いていく

ということ。


しかし、ここには「無理して何でも話をする」ことも「開く」と認識し、それができない自分を責めるという非常に辛い状況にありました。
そりゃあ人に言えない話は一杯あります。
守るべきものもありますし(まぁ、たいしたものではないですが)、自分が良く見られていたいという欲も(たいがい見透かされてたりもしますが)あります。

そういう表に向けての「開く」の前に、内なるものが「開く」と言う事があるのを最近になって気付いてきました。

自分の中かから浮かび上がってくる思い・感情に対して、そのことが不都合だからとか、それでは駄目だと思うからとか、そういうことで蓋をしてしまう事があります。

理想の自分に対して、そうじゃない現状を嘆いて自分を責める…そういうことにつながってくるので、隠そうとする。
それもがんばってやっていると言うより、無意識にそうしてしまっているんですね。

そんな自分の内なるものを、そおっと受け止めてみる。
どんな思いや感情が出てきても、「そんな自分がそこに居るんだね」と。

これが、内なる自分に「開けて」いる状態じゃないかなと。

そんな自分があるって事を言葉にして伝えてみる。
その隠そうとしている中身をオープンにするんじゃなくて、「隠しておきたい私なんだ」ということを言葉にしてみる。
これは内なるものを「開いて」それをそとに「開いて」いる状態ですね。

中身を何でもさらけ出すんじゃなくて、今どういう自分かってことを丁寧に見つめて、あるいは衝動的にあふれてくる感覚をそっと捕まえて、
「今、こういう私がいます」
と言葉にしてみる。


もうひとつ「開く」に関して言うと、自分の中にある100のことを100表に出すことだけが「開く」じゃなくて、その中のほんのひとつでも言葉にして見る事が出来たら…
残りの99を問題にするんじゃなくて、1つでも言葉に出来たことを大事にする。
そういうプロセスも「開く」と言うことにかんして味わえます。


回りに100%近くオープンにしている人がいたら、そうなることを理想としてしまいがちです。
(こちらは100%と思っていても、本人はほんの少しだって場合が多いでしょうけど)
それも大事でしょうが、今の自分自身を認めていくこと。
そこから「開かれた私自身」が始まって行くと思います。


 


いろんな意味での 出逢い

2009-11-05 00:20:48 | 日常雑感

前回書いた「真宗カウンセリング・ワークショップ」での思いもいろいろ整理されてきているので、おいおい書いていきたいと思いつつ、日々いろんな出来事や刺激があって、そちらも楽しんでいます。

「いま・ここ」と言う感覚は、まさに一期一会のものであって、時間と共に変化していきます。
なかには”記憶”として、我が身に蓄積されていくものもありますが、その多くは薄れていくあるいは変質していきますね。

と前置きはこのくらいにして、この「ワークショップ」の翌日の話題を。
ただ、別の話ではなく、私にとってはこの出逢いも「ワークショップ in 福岡」のひとつだったりします。

日曜日の夕方にワークショップを終え、残った仲間と食事と振り返りをしたあともう一泊して、月曜日に下関で知人と会いました。

この方とはネットでご縁があり、一度東京での結婚式の際に初めて対面し今回が2回目。
でも、その間もネットを通じてのご縁があるので、ずっとつながっている感じはあります。

今回、福岡で「ワークショップ」を開く事が決まったときに、「ご一緒できるかな」と言う予感がありました。
この時点で、私にとっての「ワークショップ in 福岡」はこの方込みで膨らんでいます。
参加者が決まっていく過程でお申込があったのですが、諸事情で今回は不参加となりました。
そこで、ワークショップの翌日の予定の関係と、その翌日が祝日だったので、都合があえば会おうかなと。

そんな思いからお互い連絡を取り合い、時間を合わせる事が出来ました。


最初の待ち合わせは、関門海峡大橋のふもとの公園。
ちょうど前日から天気が崩れだし、この日は朝から風が強い。
現地へ移動する車中で、
「Yさんと会うイメージは穏やかな日差しの中っていうのがあるけど…」
と。
実際は、空は晴れているものの(雲の動きは速かった)、風が強く波も荒れている。
「まぁ、これはこれで、Yさんとはこういう環境で会う何かがあるんだな」
と。

ところが電話がかかって来て、前の予定の都合で、ここまで来ると時間が短くなるので、別の場所にこれますか?と。
待ち合わせ場所を聞いてナビに従い向かった先は、少し山手に入ったお寺。
ちょっと肌寒かったんで、近くの喫茶店へ。
ここがまた回りを緑に囲まれた木造のいい雰囲気で、ガラス越しに陽の光が。
まさに「穏やかな陽射しの中での出逢い」というイメージどうり。

うーん、予感と言うか、イメージっていうのはつながっていくんだなぁと。

ほんの2時間足らずでしたが、「このやり取りを結論まで」って言うものじゃなく、話題の途中でフッと違う話題に切り替わっても、思いつくままのやり取りを楽しんだ感じです。
それはとても心地いい感じで、言葉として流れているものは流れているものとして、それとは別にお互いの通ってきた歴史を通じて、”共有できるなにか”を感じながらの関係です。

Yさんの取り組んでいる様々なことのお話を通じて、新しいものをこの胸に吹き込んでいただいた感じもあります。
Yさんの問いかけに答える事で、自分の中にいただいているものを言葉にさせてもらうこともありました。

Yさんに出逢い、Yさんを通して私に出逢い。

最初の予感も含めて、すべて意味のあることだったんだなという感覚にあふれています。

もちろん、この日・この時間の単独のものではなく、ワークショップから続いているからこそです。
そうやってたどっていくと、お互いの存在をも知らないずっと昔からのそれぞれの出逢いの蓄積が、この一瞬に交わったとでも言いましょうか。

そんなことを感じています。

ある意味、”ご縁”として収めることもできます。
でも、そんな言葉を超えたものを感じることもありますよね。

こういう雰囲気のことだけじゃなく、話題としてもすごく書きたいものもあるんですが、今日はそういう気分じゃないかな。
また、他の事とも絡み合って、この日の話題を書くこともあるでしょう。


真宗カウンセリング・ワークショップ in 福岡

2009-11-01 23:47:22 | コミュニケーションワーク
二日間の「真宗カウンセリング・ワークショップ」が終わりました。
素敵な出逢いの二日間という感じです。
この二日間に体感したことだけで数日ブログにかけそうな勢いですが、今日はまだ旅先(福岡にもう一泊しています)ですので簡単に。

時間がたつと気持ちも変わるので、記録的な意味を込めて…そんなのはメモにでもしておけば良いんでしょうが、私にはこのスペースがあるんで、活用させてもらいましょう。

このブログにも今までいろんな形で、私にとっての「真宗カウンセリング」ということを記してきましたが、この二日間で「いままで言語化できていなかった」おぼろげなイメージのものがはっきりしてきたという感覚、そしてあらたに出逢った感覚をつうじて、ますます「真宗カウンセリング」が深まってきました。

「いま・ここ」を共有している人たちを通じて、「いま・ここ」の「わたし」との出逢いをする場。

繰り広げられるのは目の前の人たちとの関わりであるけれど、そのことを通じて「私自身」に出逢っていく。

するとそこに現れるどのような「わたし」であっても、それが「いま・ここ・わたし」として受けられるし、さらにはどのような「わたし」も、弥陀の本願に願われていることに気づいていける。

いや、言葉にすると今までも記してきたことの焼き直しに過ぎないけれど、わたしの中では単に頭でつむぐ言葉以上のものとして、身体全体に浴びた感覚。

もうちょっと時間がたったら、また違う言葉で表すことができるかもしれませんね。



今回、「お念仏のワーク」をする時間があったり、自由にお念仏する時間もあったりして、より「ダルマベースド」の感覚が大事にされた感じも、わたしにとって深まる時間だったなと。


また、具体的な話題を通じて書けたら、またアップしていこうと思います。


ご一緒させていただいた皆様、先生、ありがとうございました。
南無阿弥陀仏