資格のことを書いていて、ふと思う。
取得しただけで安泰といえる「資格」はあるのだろうか・・・と。
弁護士でも顧客がつかず、食うに困るものがいる時代。消費者金融の過払い金の代行をして糊口を凌ぐ弁護士の話を聞いたことがある。医師も医療法人が倒産する時代。不正に手を染め逮捕されるものもいる。理由は「お金が欲しかった」から。税理士なんかも脱税指南で逮捕される。
教師も資格。モンスターペアレントや学級崩壊で学校にいけない教師もいる。
力士も資格。大相撲が中止となってしまった・・・
東大卒業も資格。そう、「職業資格」とは違い、学位は「教育資格」と呼ぶのだが、東大卒業したからと言って、希望の企業や役所に入れるわけではない。また、希望通りの企業や役所に入っても、理想と現実のギャップに退職してしまうものもいる。
ターミナルケア特講で学んだのだが、『死ぬ現実と「死にたくない」希望のギャップが死ぬ苦しみです。ギャップを解消するには、現実を変える、あるいは希望を変容することになる』という点である。
ギャップが大きいから「苦しむ」のだ。資格を過剰評価しているから、資格が評価されないことに対する苦しみ=「怒り」や「失望」等々が大きいのである。いわば、ありえるはずのない「資格を取得した人の像」を追い求めるようなものである。
ごく一部の資格を取得した人の成功例を見て、資格を得れば自分もそうなれるという理想像を作り出してしまう。そして、実際資格を取得しても、世界はあまり変わらないことに、「絶望」してしまうのである。
いわば、「社会的に見られる自分」を変容させたいから資格を取得しているレベルである。何か、資格を取得したことに対して、社会から見返りを求める浅ましい姿といえよう。
私自身、「悟る」までは、数を多く、できれば日本一になることを、心の片隅で、きっと欲していたに違いない。
でも、たくさんの資格を取ろうが、「部門別」で日本一になろうが、学位を多数取得しようが、社会から見られる自分の姿は何も変わらなかった・・・そう、自分という本質が変わっていないのに、いくら、洋服を着替えるように資格や学位を取得しても、変わらないのである。
その「変わらないこと」を受容できたことで、ある意味、解脱できたのかもしれない。これこそが、「価値観・信念の変容」である。
自分の人生という「時間」を、「生涯学習」というものに等価交換する。そして、その時間を等価交換したことに対し、見返りを求めない。学習し、自己の内面が鍛錬できるだけで十分と思う=「足るを知る」。そう考えると、心静かに、嫉妬もせず、嘆き悲しむこともなく、命の時を削ることができる。
お金や名誉や権力に対する欲望は際限ない。そして、それは他者との比較によるものであり、ゼロサムである。
世の中にお金が一定である以上、誰かからお金を奪わない限り、自分のお金は増えない。
世の中に授与される名誉が一定である以上、誰かを蹴落とさない限り、自分に名誉は回ってこない。
世の中にポストの数が一定である以上、誰からから役職を奪わない限り、自分の権力は高まらない。
その点、学習はまだ平等である。無論、学問の世界にもドロドロしたものがあると思うが、自分が学習する上においては他者は無関係である。私が学習している間、他の誰かが学習をストップしなければならない義務もなければ規制もない。私が知識を得た分、他の誰かが知識を削られることもない。
お金・名誉・権力等の評価基準が「相対評価」であるとすれば、学習は「絶対評価」である。だから、他者に気兼ねすることもなく、自由に学ぶことができる。そして、やればやるだけ知見が広がる。
私は怠け癖があるので、学校という機関を活用しているが、別に、読書でも通信講座でも、生涯学習は何でもありだから、お金をかけなくても何でもできる。暇なときに、放送大学の放送を見聞きするだけでも知識は増える。増えた分、日常生活も面白くなってくる。そう、見方が変わるというか、視界や視野、あるいは視座がかわり、世界が一変するのだ。
最後に、個人のスキルとは、①自分自身への知識の蓄積②どこを見れば分かるかといった情報保管場所の検索能力③誰に聞けば分かるかといったネットワーク力・・・と言ったものではないだろうか。全部を頭に叩き込めとは思っていない。ただ、昔、あそこに書いてあったな~とか、○○さんが話していたな~と言った知識も個人のスキルである。それを1日1つでも増やすことができれば、その日を生きた甲斐があったといえないだろうか。