生涯学習の部屋

資格取得数241。6つの修士と19の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

雪が・・・

2011年02月11日 12時00分30秒 | ちょっと立ち止まって・・・
久しぶりに雪を見た!

無論、富士山に積もった雪は毎朝のように見ていたのだが、雪が降っているのを見るのは久々である。中国語で雪が降ることを「下雪(シャーシィエ)」と言うのだが、まさに、天から雪が下がっている様相である。

現状、積もりそうにないのだが、積もれば積もったなりに、面倒なことがあるので、空から降る雪を眺める程度がちょうどいい。
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個人のスキルとは何か?

2011年02月11日 10時33分40秒 | ちょっと立ち止まって・・・
資格のことを書いていて、ふと思う。

取得しただけで安泰といえる「資格」はあるのだろうか・・・と。

弁護士でも顧客がつかず、食うに困るものがいる時代。消費者金融の過払い金の代行をして糊口を凌ぐ弁護士の話を聞いたことがある。医師も医療法人が倒産する時代。不正に手を染め逮捕されるものもいる。理由は「お金が欲しかった」から。税理士なんかも脱税指南で逮捕される。

教師も資格。モンスターペアレントや学級崩壊で学校にいけない教師もいる。

力士も資格。大相撲が中止となってしまった・・・

東大卒業も資格。そう、「職業資格」とは違い、学位は「教育資格」と呼ぶのだが、東大卒業したからと言って、希望の企業や役所に入れるわけではない。また、希望通りの企業や役所に入っても、理想と現実のギャップに退職してしまうものもいる。


ターミナルケア特講で学んだのだが、『死ぬ現実と「死にたくない」希望のギャップが死ぬ苦しみです。ギャップを解消するには、現実を変える、あるいは希望を変容することになる』という点である。

ギャップが大きいから「苦しむ」のだ。資格を過剰評価しているから、資格が評価されないことに対する苦しみ=「怒り」や「失望」等々が大きいのである。いわば、ありえるはずのない「資格を取得した人の像」を追い求めるようなものである。

ごく一部の資格を取得した人の成功例を見て、資格を得れば自分もそうなれるという理想像を作り出してしまう。そして、実際資格を取得しても、世界はあまり変わらないことに、「絶望」してしまうのである。

いわば、「社会的に見られる自分」を変容させたいから資格を取得しているレベルである。何か、資格を取得したことに対して、社会から見返りを求める浅ましい姿といえよう。

私自身、「悟る」までは、数を多く、できれば日本一になることを、心の片隅で、きっと欲していたに違いない。

でも、たくさんの資格を取ろうが、「部門別」で日本一になろうが、学位を多数取得しようが、社会から見られる自分の姿は何も変わらなかった・・・そう、自分という本質が変わっていないのに、いくら、洋服を着替えるように資格や学位を取得しても、変わらないのである。

その「変わらないこと」を受容できたことで、ある意味、解脱できたのかもしれない。これこそが、「価値観・信念の変容」である。


自分の人生という「時間」を、「生涯学習」というものに等価交換する。そして、その時間を等価交換したことに対し、見返りを求めない。学習し、自己の内面が鍛錬できるだけで十分と思う=「足るを知る」。そう考えると、心静かに、嫉妬もせず、嘆き悲しむこともなく、命の時を削ることができる。

お金や名誉や権力に対する欲望は際限ない。そして、それは他者との比較によるものであり、ゼロサムである。

世の中にお金が一定である以上、誰かからお金を奪わない限り、自分のお金は増えない。
世の中に授与される名誉が一定である以上、誰かを蹴落とさない限り、自分に名誉は回ってこない。
世の中にポストの数が一定である以上、誰からから役職を奪わない限り、自分の権力は高まらない。

その点、学習はまだ平等である。無論、学問の世界にもドロドロしたものがあると思うが、自分が学習する上においては他者は無関係である。私が学習している間、他の誰かが学習をストップしなければならない義務もなければ規制もない。私が知識を得た分、他の誰かが知識を削られることもない。

お金・名誉・権力等の評価基準が「相対評価」であるとすれば、学習は「絶対評価」である。だから、他者に気兼ねすることもなく、自由に学ぶことができる。そして、やればやるだけ知見が広がる。

私は怠け癖があるので、学校という機関を活用しているが、別に、読書でも通信講座でも、生涯学習は何でもありだから、お金をかけなくても何でもできる。暇なときに、放送大学の放送を見聞きするだけでも知識は増える。増えた分、日常生活も面白くなってくる。そう、見方が変わるというか、視界や視野、あるいは視座がかわり、世界が一変するのだ。

最後に、個人のスキルとは、①自分自身への知識の蓄積②どこを見れば分かるかといった情報保管場所の検索能力③誰に聞けば分かるかといったネットワーク力・・・と言ったものではないだろうか。全部を頭に叩き込めとは思っていない。ただ、昔、あそこに書いてあったな~とか、○○さんが話していたな~と言った知識も個人のスキルである。それを1日1つでも増やすことができれば、その日を生きた甲斐があったといえないだろうか。

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通信制大学の掲示板にて・・・

2011年02月11日 09時49分12秒 | 武蔵野大学大学院
いまさらながらなのだが、私は武蔵野大学の通信制大学院生である。

通信制の学生となり、大学の掲示板をネット上で確認するのだが、最近、「認定心理士について必要な作業」というのがよく掲載されている。

正直、院生には関係ない。武蔵野大学大学院では「臨床心理士」はおろか、「認定心理士」も取得できないのだ。学部の心理系の学生に対するアナウンスなのである。

院生と学部生共通の掲示板のため、院生も強制的に表題が目に入ってしまうのだ。無論、「心理・・・卒業生」と明記されているので、とり間違えることはないのだが。

きっと、認定心理士は大学を卒業しないと取得できないから、この段階で準備しておくようにという配慮だと思う。この点については、大学は学生に対し、十分な配慮というか、アナウンスを行っていると思っている。

さて、この認定心理士もそうだが、資格に対して過度な期待をしてはいけない。学部卒で「申請のみ」で取得できる認定心理士。しかし、この世の中には、大学院を修了して、かつ場合によったら+αの実務経験も必要とされ、加えて試験もあり、更新もある臨床心理士。そのはるかに厳しい臨床心理士ですら、十分に職がない(あるいは給与的に恵まれない)状況である。

手元にある「資格図鑑」という本音ベースのコメントが記載されたダイヤモンド社の本には「どんなに人気でも心理学で食えているのは心理学者と、ごく一部の臨床心理士だけ」とされている。

「取るのも取ってからもハードなのに社会の受け皿が少ない心理学の資格」として臨床心理士が紹介されているのだ。その認定心理士の10倍以上も困難な資格を取得しても、活躍する場が、まだ十分とはいえない環境にある。よって、認定心理士という資格のみで食っていくことは、まず、ムリといえるし、認定心理士のみで活動している人の話は聞いたことがない。

とはいえ、仕事をしていく上で、認定心理士や産業カウンセラーあるいは心理相談員、衛生管理者といった資格を保有しておくことは有益である。部下や同僚、場合によっては上司の悩みを察知し、相談にのってあげることができる。

精神的に病んでいる人に対し、言ってはいけないキーワードを知っておくだけでも十分価値がある。あなたの何気ない一言が「長期の出社拒否」や、場合によっては「自殺」のトリガーを引いてしまうかもしれないのだ。あるいは、パワハラ、セクハラととらえられ、指弾される危機を、心理学の知識が救ってくれるかもしれない。

とかく「自分には天性のリーダーシップがある」と思い込んでいる人は、「精神論」で指導する傾向が高い。「頑張れ」とか「やればできる」とか「指導にならない指導」をして、悦に浸っている。ほんとに「カリスマリーダーシップ」を発揮できる人ならなんとかなるのかもしれないが、そんな人は滅多にいない。

そういう人こそ、カウンセリングマインドや心理学を学んで欲しい。ただ、独学で学ぶと好きな心理学に偏ってしまうので、認定心理士や産業カウンセラーのように、分野ごとに必要な取得単位数が決まっているものの方が、バランスよく多岐にわたって学習することができる。

心理系の資格がブームとなっているが、やはり、メンタル面の悩みを表に出さない文化が日本にはある。そして、心理系(カウンセリング系)の資格については適切な国家資格がない。「臨床心理士」も、「産業カウンセラー」も、「心理相談員」も、その他の「××カウンセラー」や「○○心理士」なども、すべて民間資格である。

そのような状況だから、心理系の資格だけで生きていくのは、未だ困難な状況なのである。
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健康管理誓約書を作成!

2011年02月11日 08時53分31秒 | 生涯学習
本学でスクーリング科目を受講するためには「健康管理誓約書(本学指定様式)」の提出が必要になる。

書類を書いて切手を貼って郵送するのであるが、健康診断書を作成するのと比べると安価で労力がかからずに済む。何も提出しなくていい通信制大学もあれば、このように誓約書で済む通信制大学院もある。

逆に、健康診断書を要求する大学ある・・・

学校では法律上健康診断書が必要と聞いたこともあるのだが、このバラバラな対応は一体なんなのだろう。少なくとも、日本最大の通信教育の大学で面接授業も多数準備されている「放送大学」では不要であることを付け加えておく。

※無論、入学前に判明しているなら、診断書を提出要としている大学に入学しなければいいだけの話である。

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最小の労力を狙うことなかれ・・・急がば回れの教えの通り。

2011年02月11日 00時43分59秒 | ちょっと立ち止まって・・・
昔は「最小の労力で最大の成果を」と思っていた。

資格試験なんかも、合格ラインギリギリで合格するのが美学と思っていた。ただ、最近は、安全策というか、何事に対してもバッファーを持つことが多くなっている。それだけ、弱気というか、自分に自信が持てなくなってきたのかもしれない。

例えば単位。産能大学(通教)は124単位で卒業できるのに200単位取得した。産業能率大学大学院は30単位に対して36単位。明星大学大学院は30単位に対して44単位。武蔵野大学大学院も40単位に足して46単位履修する予定である。

あるいは機構の学位もそうである。大学卒業なので専門科目+関連科目で62単位取得すればいいのだが、今まで取得した学位は、すべて100単位は越えているはずである。また、単位すべての合計は毎度のことながら400単位とかになっている。

特に、専門科目は厳しく、厳しく判定している。だから、今までシラバスの提出を求められたこともない。今ではそれが美学になっている。

何事もギリギリでクリアするのは爽快である。しかし、それは失敗と紙一重であり、孫子の兵法に従えば、百戦危うからずに程遠い。

特に機構の学位は曲者である。判断基準が究めて脆弱で主観的である。人間に例えると優柔不断。確乎とした基準はないため、そのときの雰囲気で「充足」「未充足」が決められかねないわけだ。いや、機構サイドとしては何かしら判断の根拠があるのかもしれないが、それが公開されていない以上、志願者の思いによるものが大きすぎる。

例えば、法学の「刑事法学に関する科目」の一例に「犯罪学」が計上されている。では、「犯罪心理学」は刑事法学に入れていいのか?今まで当然にOKと思っていたが・・・それは、私が刑事法学の単位が喉から手が出るほど欲しいがために、勝手に、充足すると思い込んでいたにすぎない。判定するのは機構である。「犯罪心理学はあくまでも心理学で学士(文学)の単位だ」といわれればそれまでである。

「それは違う名前が似ていれば絶対に認められる!」と、主張するのは勝手である。では「公法学に関する科目」に「教育法」があげられているのだが、「社会科教育法」という科目は認められると思うか?法学関連の「教育法」は「学校教育法」や「教育基本法」と言った法律が対象である。一方、同じ教育法でも「教育するための指導方法」と言う内容であれば、単なる「教育法」と言った科目でも「未充足」となるかもしれない。いや、内容からして未充足であろう。

自分は自分に対して「非常に甘い」というのが世の常である。私もその一人であり、自律心のある人をうらやましく思っている。だから、自分で単位を振り分けて集計しなければならない機構の制度に対しても、少しでも早くかつ楽したいために、自分のバイアスのかかった見方で単位を仕分けしてしまう傾向がある。無論、その甘い仕分けが機構の判定基準なら問題がないのだが、それ以上に厳しかった場合、せっかく、論文試験で合格しても単位不足で不合格となってしまう。

私ほど臆病になる必要はないが、少しは謙虚に考えたほうが、結局、早かったということも、よくあることなのである。
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