平成23年度の開講科目は画像の通りである。
平成22年度の開講科目のリンクを貼っておくので、興味のある方は見比べて欲しい。
コメントをいただいているように、通信(特に遠隔地)の方は、偏った分野の授業しか履修できないかもしれない。でも、逆に、通信で履修しようと思っていたのが、「1科目ぐらいスクーリングにしてみるか!」という考え方に変わるかもしれない。そして、実際に、先生に指導を受けることで新たな専門性や興味の対象を見つけることができるかもしれない。
そのように、運命は定められているのである。この履修科目が大幅に変更となった理由も、数十年後に振り返ると、何か運命の糸になっている学生もいるのかもしれない。
最初、この大学院の「売り」ともいえる「特定課題研究演習(=修士論文指導に相当)」以外、大学に来なくても修了できますという考え方に、非常に反感を覚えた。入学式もなく、1年時に履修する科目が決定されており、先輩後輩の交流もできない、いわば、学生がコミュニケーションをとる場が奪われていることに引っかかっていたのだ。
しかし、自分自身がスクーリングに出席すればいいと思って自分を強制的に納得させていた。
だが、自分との闘いともいえる「3ヶ月でレポート21通提出」を成し遂げることで、「学習とは孤独なものである」ことを理解した。その昔、中学、高校と受験戦争に身をおいていたときには「当然」に理解していたはずの「学習は独り」であることを、長い、社会人生活で忘れてしまっていたのである。他者と協調し、協働することが、いつしか学習と思い込んでいたのである。
当初自分が反発していたことを受容することで、新しい学習が見えてきた。そして、今、その学習に「かなり、はまっている」自分が存在する。グループワーク中心の「なかよし学習」では、永遠に見えてこなかったかもしれないものである。
だから、私は武蔵野大学に感謝せざるをえない。
一方で、今度は、仏教・思想系の授業を中心に学習しようと思っている学生にとっては「受難の年度」となる。なんせ、「インド思想特講」以外は、すべて「完全スクーリング」の授業となるためだ。2年次科目において、特定課題研究演習以外に最低4科目取得しないと修了できないから、「スクーリングに出るか」「心理系あるいは保健・福祉系科目」を履修しないと、先に進まない。
いわば、ここで「強制的に何かをしなければならない」という、発想の転換が必要となる。「仏教・思想系のレポートだけで済まそう」と思っていたものは、その考えを打ちのめされるわけだ。
だが、これを「受難」とするか、「福音」とするかは、学生の考え方次第である。
私は、かねてより母校批判は好しとしない。母校が学生に不利益なことをした場合、学生は退学する権利を持っているのだから、そんな学生を虐待するような学校は辞めちまえばいいのである。そのような学校に入学した不運を恨み、その学校に利益を与えるような「授業料の支払い」を拒絶すればいいだけのことである。損害を受けたなら、退学してから戦えばよい。
しかし、今回の学生にとって不利益とも見えるカリキュラム変更も、始めに述べたとおり、ひょっとしたら、ご利益になるかもしれないのだ。それに、募集要項にも「カリキュラムは変更となる場合があります」と書いてあったから、学生に対する裏切りではない。
実際、レポートを提出して、先生方は、通学制の授業も持ちつつ、研究も抱えつつ、それでも、レポートの返答を懇切丁寧に書いてくださった。深夜に返却されることもあり、そのご苦労は並大抵のものではない。しかも、1通、また1通と提出されたものを別個に見ているのではなく、前回のレポートから話を続けて書かれており、片手間にできるコメントではない。私が出したすべてのレポートについて、「最初から毎回一貫したテーマでよく覚えております」といった内容のコメントを最終レポートでいただいたこともある。それだけ、通信制の学生に対して、わずかな授業料にもかかわらず、誠心誠意指導してくださったのである。
対面で指導をいただいていないものの、ここまでやってくださったなら、一言の文句も言うことはできない。ただ、私にできることは、このようなすばらしい先生方に、手を合わせて感謝するだけである。
私がこの大学院に今いることも、仏のお導きなのかもしれない。だからこそ、感謝し、運命を信じて、履修科目を選択し、精一杯頑張るだけである。
そうそう、浄土真宗系の武蔵野大学といえども、さすがに、単位の取得や最終成果物の作成は「他力本願」とはいきませんので(笑)
平成22年度の開講科目のリンクを貼っておくので、興味のある方は見比べて欲しい。
コメントをいただいているように、通信(特に遠隔地)の方は、偏った分野の授業しか履修できないかもしれない。でも、逆に、通信で履修しようと思っていたのが、「1科目ぐらいスクーリングにしてみるか!」という考え方に変わるかもしれない。そして、実際に、先生に指導を受けることで新たな専門性や興味の対象を見つけることができるかもしれない。
そのように、運命は定められているのである。この履修科目が大幅に変更となった理由も、数十年後に振り返ると、何か運命の糸になっている学生もいるのかもしれない。
最初、この大学院の「売り」ともいえる「特定課題研究演習(=修士論文指導に相当)」以外、大学に来なくても修了できますという考え方に、非常に反感を覚えた。入学式もなく、1年時に履修する科目が決定されており、先輩後輩の交流もできない、いわば、学生がコミュニケーションをとる場が奪われていることに引っかかっていたのだ。
しかし、自分自身がスクーリングに出席すればいいと思って自分を強制的に納得させていた。
だが、自分との闘いともいえる「3ヶ月でレポート21通提出」を成し遂げることで、「学習とは孤独なものである」ことを理解した。その昔、中学、高校と受験戦争に身をおいていたときには「当然」に理解していたはずの「学習は独り」であることを、長い、社会人生活で忘れてしまっていたのである。他者と協調し、協働することが、いつしか学習と思い込んでいたのである。
当初自分が反発していたことを受容することで、新しい学習が見えてきた。そして、今、その学習に「かなり、はまっている」自分が存在する。グループワーク中心の「なかよし学習」では、永遠に見えてこなかったかもしれないものである。
だから、私は武蔵野大学に感謝せざるをえない。
一方で、今度は、仏教・思想系の授業を中心に学習しようと思っている学生にとっては「受難の年度」となる。なんせ、「インド思想特講」以外は、すべて「完全スクーリング」の授業となるためだ。2年次科目において、特定課題研究演習以外に最低4科目取得しないと修了できないから、「スクーリングに出るか」「心理系あるいは保健・福祉系科目」を履修しないと、先に進まない。
いわば、ここで「強制的に何かをしなければならない」という、発想の転換が必要となる。「仏教・思想系のレポートだけで済まそう」と思っていたものは、その考えを打ちのめされるわけだ。
だが、これを「受難」とするか、「福音」とするかは、学生の考え方次第である。
私は、かねてより母校批判は好しとしない。母校が学生に不利益なことをした場合、学生は退学する権利を持っているのだから、そんな学生を虐待するような学校は辞めちまえばいいのである。そのような学校に入学した不運を恨み、その学校に利益を与えるような「授業料の支払い」を拒絶すればいいだけのことである。損害を受けたなら、退学してから戦えばよい。
しかし、今回の学生にとって不利益とも見えるカリキュラム変更も、始めに述べたとおり、ひょっとしたら、ご利益になるかもしれないのだ。それに、募集要項にも「カリキュラムは変更となる場合があります」と書いてあったから、学生に対する裏切りではない。
実際、レポートを提出して、先生方は、通学制の授業も持ちつつ、研究も抱えつつ、それでも、レポートの返答を懇切丁寧に書いてくださった。深夜に返却されることもあり、そのご苦労は並大抵のものではない。しかも、1通、また1通と提出されたものを別個に見ているのではなく、前回のレポートから話を続けて書かれており、片手間にできるコメントではない。私が出したすべてのレポートについて、「最初から毎回一貫したテーマでよく覚えております」といった内容のコメントを最終レポートでいただいたこともある。それだけ、通信制の学生に対して、わずかな授業料にもかかわらず、誠心誠意指導してくださったのである。
対面で指導をいただいていないものの、ここまでやってくださったなら、一言の文句も言うことはできない。ただ、私にできることは、このようなすばらしい先生方に、手を合わせて感謝するだけである。
私がこの大学院に今いることも、仏のお導きなのかもしれない。だからこそ、感謝し、運命を信じて、履修科目を選択し、精一杯頑張るだけである。
そうそう、浄土真宗系の武蔵野大学といえども、さすがに、単位の取得や最終成果物の作成は「他力本願」とはいきませんので(笑)
さて・・・困惑の中、来期の武蔵野大学大学院の履修科目を考えている。
少なくとも、「特定課題研究演習」の4単位を含めて20単位以上を取得しないと修了できない。なんせ、修了要件が1年次必須の20単位と「特定課題研究演習」を含めて40単位以上だから。今期、なんとか20単位が取得できたことが、修了に向けての大きなステップとなっている。1年次の科目はすべて必須で1科目でも欠けると修了できないので。
「特定課題研究演習」を除くと、任意の16単位を取得することで修了できるのだが、「精神保健学特論」のみが2単位で、その他の科目はすべて4単位。だから、「精神保健学特論」を履修しても、しなくても、修了においてなんら影響はないのだが、捨てかねている。これを捨てると、隔月ですら、大学院に行く機会が喪失されてしまう。また、授業のテーマが「摂食障害」とか「メンタルヘルス」なので、興味があることも一要素ではある。だが、逆に、そのテーマなら既にかなりのレベルまで学習しているので、いまさら・・・という気持ちもある。
それはそうと、レポートのみで取得できる科目は以下の7科目しかない。
・インド思想特講
・発達心理学特講
・認知心理学特講
・人格心理学特講
・社会心理学特講
・環境心理学特講
・ケースワーク特論
仏教・思想系科目が1科目、心理系科目が5科目、保健・福祉系科目が1科目と「大幅に偏った」状況である。
逆にスクーリングのみで単位た取得できる科目は、仏教・思想系科目が8科目、心理系科目が0科目、保健・福祉系科目が1科目とこれまた、「大幅に偏った」状況である・・・
今さら心理学っていわれてもなぁ・・・人間学研究科人間学専攻として在籍して、1年目の「強制的学習」の成果で、やっと、人間学や宗教学等に興味がでてきたのに。無論、心理学も嫌いではないから、学習すればいいのだが、今まで学んだことのない科目が、手の届きそうなところにあるが履修できないのが無念で仕方がない。
もう少し、考えてみるか・・・
少なくとも、「特定課題研究演習」の4単位を含めて20単位以上を取得しないと修了できない。なんせ、修了要件が1年次必須の20単位と「特定課題研究演習」を含めて40単位以上だから。今期、なんとか20単位が取得できたことが、修了に向けての大きなステップとなっている。1年次の科目はすべて必須で1科目でも欠けると修了できないので。
「特定課題研究演習」を除くと、任意の16単位を取得することで修了できるのだが、「精神保健学特論」のみが2単位で、その他の科目はすべて4単位。だから、「精神保健学特論」を履修しても、しなくても、修了においてなんら影響はないのだが、捨てかねている。これを捨てると、隔月ですら、大学院に行く機会が喪失されてしまう。また、授業のテーマが「摂食障害」とか「メンタルヘルス」なので、興味があることも一要素ではある。だが、逆に、そのテーマなら既にかなりのレベルまで学習しているので、いまさら・・・という気持ちもある。
それはそうと、レポートのみで取得できる科目は以下の7科目しかない。
・インド思想特講
・発達心理学特講
・認知心理学特講
・人格心理学特講
・社会心理学特講
・環境心理学特講
・ケースワーク特論
仏教・思想系科目が1科目、心理系科目が5科目、保健・福祉系科目が1科目と「大幅に偏った」状況である。
逆にスクーリングのみで単位た取得できる科目は、仏教・思想系科目が8科目、心理系科目が0科目、保健・福祉系科目が1科目とこれまた、「大幅に偏った」状況である・・・
今さら心理学っていわれてもなぁ・・・人間学研究科人間学専攻として在籍して、1年目の「強制的学習」の成果で、やっと、人間学や宗教学等に興味がでてきたのに。無論、心理学も嫌いではないから、学習すればいいのだが、今まで学んだことのない科目が、手の届きそうなところにあるが履修できないのが無念で仕方がない。
もう少し、考えてみるか・・・
図書館に返却する本を袋に詰めて、服を着替えて、いざ本学へ行こうと思った瞬間、なんだか、いやな予感がした。
念のため、武蔵野大学図書館のカレンダーをネットで確認したところ・・・なんと、今週から3月末まで土曜日が図書館休館日となっていた!
無論、最初から日曜日は休館であり、事実上、図書館での学習は閉ざされた形となってしまった。カレンダーは3月までなので、4月になったら土曜日開館とは断言できない。
でも・・・これって、社会人には厳しくないかしら?
それはそうと、明日は返却ポストはあいているのかな?少なくとも、期日までには返却しないと。。。
念のため、武蔵野大学図書館のカレンダーをネットで確認したところ・・・なんと、今週から3月末まで土曜日が図書館休館日となっていた!
無論、最初から日曜日は休館であり、事実上、図書館での学習は閉ざされた形となってしまった。カレンダーは3月までなので、4月になったら土曜日開館とは断言できない。
でも・・・これって、社会人には厳しくないかしら?
それはそうと、明日は返却ポストはあいているのかな?少なくとも、期日までには返却しないと。。。
大学院に行く予定にしています。
本日は、事前学習のために借りていた本が、結局、不要となったため図書館に返却に行きます。とはいえ、読めなかった本は3冊だけなので、25冊借りた本のほとんどを読んでいるのですが。
英語の「ファーブル昆虫記」を読もうと借りてきたけど、結局、読めず。あとは、スピリチュアル関連の本と、東アジアの仏教思想の本が読めなかった・・・
ファーブル昆虫記は英語だから、その他の本は電車の中で読むには重すぎるから読めなかった。重すぎて腱鞘炎になってしまう。
スピリチュアルは、本学で学ぶまでは「ウサンクサイ宗教もどき」と思っていたが、人間学では極々自然な学問であることがわかった。避けて通るのではなく、受け入れるべき対象である。ただ、メディアで踊っているような内容ではなく、正しく学ばなければならない。
さて、そろそろ、朝食でも食べようか。
本日は、事前学習のために借りていた本が、結局、不要となったため図書館に返却に行きます。とはいえ、読めなかった本は3冊だけなので、25冊借りた本のほとんどを読んでいるのですが。
英語の「ファーブル昆虫記」を読もうと借りてきたけど、結局、読めず。あとは、スピリチュアル関連の本と、東アジアの仏教思想の本が読めなかった・・・
ファーブル昆虫記は英語だから、その他の本は電車の中で読むには重すぎるから読めなかった。重すぎて腱鞘炎になってしまう。
スピリチュアルは、本学で学ぶまでは「ウサンクサイ宗教もどき」と思っていたが、人間学では極々自然な学問であることがわかった。避けて通るのではなく、受け入れるべき対象である。ただ、メディアで踊っているような内容ではなく、正しく学ばなければならない。
さて、そろそろ、朝食でも食べようか。