久しぶりに献血に行ってきました!
全血で400mlです。なんせ、埼玉県内では血液が不足しているとのことなので。
A型の全血は25名必要とのことなので、そのうちに1名ということで。今の私にできるボランティアはこのくらいですから。
とはいえ、血管が細いらしく、採血に結構時間がかかってしまいました。
全血で400mlです。なんせ、埼玉県内では血液が不足しているとのことなので。
A型の全血は25名必要とのことなので、そのうちに1名ということで。今の私にできるボランティアはこのくらいですから。
とはいえ、血管が細いらしく、採血に結構時間がかかってしまいました。
長男に送られてきた産業能率大学のオープンキャンパスのご案内!
「マーケティングを学んで、ヒット商品で世の中をワクワクさせよう!!」というのは全く否定するつもりはないし、その通りだと思っている。問題は、下の方にかかれている「その1 受験生が知っておきたい大学のアクティブラーニング豆知識」である。
「授業を聴いているだけでは眠くなってしまうのはなぜ?」とかかれたところ。「講義を聴いているだけの時の学生の脳は眠っている時の状態に近いというハーバード大学の調査結果があるのです。」との回答が書かれている。
いや、ちょっと待って!なら、聴いているだけの講義では、学生の脳は、すべて眠っているというのだろうか?違うだろう。つまらない授業の場合、比較的、眠りに陥る学生が多いだけに過ぎない。
グループワークを否定するつもりはないが、それにかこつけて、手を抜く先生が多いのも問題だと思っている。なんせ、グループワークは時間がかかるにもかかわらず、先生が関与できる部分は限定的であるから。本来、基礎力をつけるべき学びの段階まで、グループワークが占拠するのは教育的に正しいとは、わたし的には思えないのである。
学生を眠らせないためにグループワークをさせるというのは本末転倒である。適正なカリキュラムに沿って、限られた時間で何を修得させるのか。それが、最大限に効果を発揮させるために、どれだけグループ討議を入れるのか。通信教育課程でも、何を血迷ったか、一日中グループワークをさせた上に、終わったと思ったグループは定刻前に帰らせるという、勘違いな先生の話を聴いたことがある。どう考えても、私の思うSCではないし、そんな科目は履修したいとは思わない。
我が母校なれど、わたし宛の郵便物ではないので、ちょっと、思うところを述べてみました。
「マーケティングを学んで、ヒット商品で世の中をワクワクさせよう!!」というのは全く否定するつもりはないし、その通りだと思っている。問題は、下の方にかかれている「その1 受験生が知っておきたい大学のアクティブラーニング豆知識」である。
「授業を聴いているだけでは眠くなってしまうのはなぜ?」とかかれたところ。「講義を聴いているだけの時の学生の脳は眠っている時の状態に近いというハーバード大学の調査結果があるのです。」との回答が書かれている。
いや、ちょっと待って!なら、聴いているだけの講義では、学生の脳は、すべて眠っているというのだろうか?違うだろう。つまらない授業の場合、比較的、眠りに陥る学生が多いだけに過ぎない。
グループワークを否定するつもりはないが、それにかこつけて、手を抜く先生が多いのも問題だと思っている。なんせ、グループワークは時間がかかるにもかかわらず、先生が関与できる部分は限定的であるから。本来、基礎力をつけるべき学びの段階まで、グループワークが占拠するのは教育的に正しいとは、わたし的には思えないのである。
学生を眠らせないためにグループワークをさせるというのは本末転倒である。適正なカリキュラムに沿って、限られた時間で何を修得させるのか。それが、最大限に効果を発揮させるために、どれだけグループ討議を入れるのか。通信教育課程でも、何を血迷ったか、一日中グループワークをさせた上に、終わったと思ったグループは定刻前に帰らせるという、勘違いな先生の話を聴いたことがある。どう考えても、私の思うSCではないし、そんな科目は履修したいとは思わない。
我が母校なれど、わたし宛の郵便物ではないので、ちょっと、思うところを述べてみました。
あと5日後に迫ってきた放送大学大学院の修了式。
今、熱いコーヒーを飲みながら、システムWAKABAの「学籍情報」の「学位情報」に表示された「取得年月日 2014年03月21日」「学位 修士(学術)」を見て、なんだか、胸があたたかくなった(コーヒーのせいかも)。
「学術の修士」という、なんか、訳のわからない標示。逆に、それが、なんだか、妙にハガユイ気持ちにさせてくれる。その昔、機構の学位で「学芸の学士」を取得したときに感じた思いに近いのだろうか?
本当の意味で言えば、この2年間の学びについては明らかに「修士(教育学)」がふさわしいのであるが、放送大学で授与される修士の学位は、どの研究プログラムでも「修士(学術)」となってしまう。同期に、2回目の放送大学大学院を修了する方がおられるのだが、同じ名称の2つ目の学位記を授与されることとなる。
「同じ学位じゃ意味無いじゃん」な~んて、無粋なことを言ってはならない。なんせ、書いている修士論文は、各プログラムで違うものを作成せねばならないのだから。生涯学習に勤しむものにとっては、同一名称であったとしても、それは、全く違った学びのプロセスの結果によるもので、同一性は無いのだから。
ただし、学位を授与される各人にとっては、その学位の価値は同値である。例え、研究指導の成果が「○A」であろうと、「A」「B」「C」であろうと、それぞれの方が精一杯努力した結果が「修士論文」であり、それほど大した違いとはいえないからである。確かに、「○A」の論文は「凄いな~!」と思えるのだが、それ以下の論文は特段差は無いと感じている。「A」~「C」の違いは、論文の書き方や作法を「知っているか」「知らなかったか」「知ろうとしないか」ぐらいの差しかないと思っている。
それくらいの誤差の範囲において、学びの成果とも言える学位記は各人にとって「等価」の成果物といえるのである。それぞれ、所定の学習期間という「時間」を投下し、それぞれの力の及ぶ範囲で、未だ、この世に無いものを生み出したのだから、その内容に優劣を付けるのは野暮というものであろう。今、話題となている「剽窃して作成した博士論文」より、余程立派というものである。
そう考えると、学部で作成する「学士論文」も、同様に等価の成果物だといえるだろう。生涯学習においては、「修士」も「学士」も、そんなに大差ないのである。研究を生業にする「博士」はともかく、学位を生活の糧としない「修士」「学士」「短期大学士」等々は、学び続ける人々にとって、その軽重を軽々しく言及すべきものではない。どの学位だろうと、どの卒業証書であろうと、学んだ証となるものは尊いのである。
そういう考えがベースにあるので、「修士だからえらい」とか、「成績がいいから優越している」とか言う輩は嫌いである。自分に合った学びのステージや、学びの方法、学びの目的等々に応じて、セレクトすればいいだけである。誰に断ることなく、誰に見せびらかすわけでもなく、現在の、多彩な生涯学習の範疇から、自分の思うところの学習をすればいいだけなのである。
な~に、そんなに難しいことではない。人類がサルであった時代からやってきたことである。好奇心に身を任せ、興味のあることをすればいいだけでいい。それで十分だし、それ以外、できないのだから。ただ学ぶ。ひとつでいいからやってみる。そうすれば、今までの惰性の日常生活において、きっと何かが変わるものだと信じている。
今、熱いコーヒーを飲みながら、システムWAKABAの「学籍情報」の「学位情報」に表示された「取得年月日 2014年03月21日」「学位 修士(学術)」を見て、なんだか、胸があたたかくなった(コーヒーのせいかも)。
「学術の修士」という、なんか、訳のわからない標示。逆に、それが、なんだか、妙にハガユイ気持ちにさせてくれる。その昔、機構の学位で「学芸の学士」を取得したときに感じた思いに近いのだろうか?
本当の意味で言えば、この2年間の学びについては明らかに「修士(教育学)」がふさわしいのであるが、放送大学で授与される修士の学位は、どの研究プログラムでも「修士(学術)」となってしまう。同期に、2回目の放送大学大学院を修了する方がおられるのだが、同じ名称の2つ目の学位記を授与されることとなる。
「同じ学位じゃ意味無いじゃん」な~んて、無粋なことを言ってはならない。なんせ、書いている修士論文は、各プログラムで違うものを作成せねばならないのだから。生涯学習に勤しむものにとっては、同一名称であったとしても、それは、全く違った学びのプロセスの結果によるもので、同一性は無いのだから。
ただし、学位を授与される各人にとっては、その学位の価値は同値である。例え、研究指導の成果が「○A」であろうと、「A」「B」「C」であろうと、それぞれの方が精一杯努力した結果が「修士論文」であり、それほど大した違いとはいえないからである。確かに、「○A」の論文は「凄いな~!」と思えるのだが、それ以下の論文は特段差は無いと感じている。「A」~「C」の違いは、論文の書き方や作法を「知っているか」「知らなかったか」「知ろうとしないか」ぐらいの差しかないと思っている。
それくらいの誤差の範囲において、学びの成果とも言える学位記は各人にとって「等価」の成果物といえるのである。それぞれ、所定の学習期間という「時間」を投下し、それぞれの力の及ぶ範囲で、未だ、この世に無いものを生み出したのだから、その内容に優劣を付けるのは野暮というものであろう。今、話題となている「剽窃して作成した博士論文」より、余程立派というものである。
そう考えると、学部で作成する「学士論文」も、同様に等価の成果物だといえるだろう。生涯学習においては、「修士」も「学士」も、そんなに大差ないのである。研究を生業にする「博士」はともかく、学位を生活の糧としない「修士」「学士」「短期大学士」等々は、学び続ける人々にとって、その軽重を軽々しく言及すべきものではない。どの学位だろうと、どの卒業証書であろうと、学んだ証となるものは尊いのである。
そういう考えがベースにあるので、「修士だからえらい」とか、「成績がいいから優越している」とか言う輩は嫌いである。自分に合った学びのステージや、学びの方法、学びの目的等々に応じて、セレクトすればいいだけである。誰に断ることなく、誰に見せびらかすわけでもなく、現在の、多彩な生涯学習の範疇から、自分の思うところの学習をすればいいだけなのである。
な~に、そんなに難しいことではない。人類がサルであった時代からやってきたことである。好奇心に身を任せ、興味のあることをすればいいだけでいい。それで十分だし、それ以外、できないのだから。ただ学ぶ。ひとつでいいからやってみる。そうすれば、今までの惰性の日常生活において、きっと何かが変わるものだと信じている。