今日は2週間ぶりの休日♪
お正月に実家の母から頼まれていたことをやっとできました。
「(以前作ってもらったのが)おいしかったから、また作って~」と「ごまめ」の入った袋を預かって帰ったまま・・・今日に至る(; ̄ー ̄A アセアセ・・・
気まぐれCooking♪田作り
それにしても今回の田作りは上出来!
これは私の腕のよしあしではなく、「ごまめ」の品質が良かったから。
小ぶりでピカピカしていて、お掃除しても頭やおなかが落ちているものがほとんどない上物でした。
大きいのと小さいのと分けて炒るのですが、今回のは大きさもそろっているので仕分ける必要もなく♪
田作りは手で触ってポキンと折れるかな・・というくらいに厚手のお鍋かフライパンでじっくりと炒るので、ごまめの大きさがそろっていないと上手にできません。
砂糖、しょうゆ、みりんをフライパンで熱して、少し糸を引くくらいに煮詰まったら、炒ったごまめを入れて手早く絡めます。
コツはタレを余り煮詰めすぎないこと(さめるとカチコチになりやすい)
最後に黒酢をさっと振って炒りゴマを絡め、なるべく広げて冷まして出来上がり。
ほどよい固さがあるけれど、かめばサクサクと 崩れて香ばしさが広がります。
黒酢を振るとふんわりと優しい酸味が香る程度に残って爽やかな田作りに♪
出来たてを持っていくととても喜んでくれました。
遅くなってごめんね~!
rico先生に作ってもらったお正月アレンジのお花、まだしっかりしている葉牡丹と菊を小鉢に飾り、名甫先生にいただいた今年の干支「寅」の九谷焼のお猪口。
お正月のなごりを惜しんで・・・♪
そして今日は1月17日。阪神淡路大震災が神戸を襲って15年たちました。
当時、転勤で住まいは金沢でしたが、あの日は神戸長田区の実家に当時2歳と4歳の息子たちと泊まっていた私。
坂の多い神戸ですから、実家の南向きの二階の部屋からは瀬戸内海と淡路島がよく見えます。
本震の数秒前の小さな小さな余震で身じろいだ長男を何気なく抱き寄せた瞬間に、海から恐ろしい地鳴りがズズズズ・・・・・・っと近づいてきました。
「え!?」っと思うまもなく、カーン!と耳元で特大の拍子木をたたかれたような乾いた高い音が耳をつんざき、その後は今まで経験したこともない大きな音と揺れでした。
目をつぶっていたはずなのですが、カーンという音を聞いた瞬間、とてもまぶしい閃光で目の前が真っ白になった記憶があります。
記憶が途切れてよく思い出せない部分がありますが、とにかく2人の息子をしっかり抱いて小さく丸まっていたと思います。
何度目かの余震のあと、やっと体が動いた時には外は明るくなり始めていました。
光が差し込んだ部屋の中を見て本当に心臓が止まりそうでした。
私と息子たちの丸まっていた布団の周りだけをポッカリ残して、部屋中にあらゆるものが飛び散ってすごいことになっていたから。
これは信じてもらえないかもしれませんが・・・
私たちのふとんの上にお仏壇の中のお経の書いた紙が半分に千切れて落ちていました。
もう半分は、和室を抜けてトイレの前の細い廊下をぬけ、階段を下りて90度左に曲がった玄関に落ちていたのを後から見て背中がスゥ~っとなったのを覚えています。
守ってもらったかもしれない命。
あの後、生まれて初めてのいろんな体験をしました。
何ヶ月も、何年もしこりになっていることもあります。
でも今生きていることに本当に感謝をしたいと思います。
そして15年たった今、しこりとして残っていたことを言葉にしてみようと思い追記に書くことにしました。
では、またね♪ See You~!
ここからは追記です。
震災当日から神戸の実家にいたのは一週間くらいだったと思います。
水を求めていつ来るともわからない給水車を何時間も母校の小学校のグラウンドで待っている時に見た空を飛び回るヘリコプター(結局給水車は来なかったけど)
それならば・・・と一番近い商店街に行くと、火事もないのに何台もの消防車と忙しく動き回っているたくさんの人たち。
もっと南で火災が広がっていて、水が足りず消防車がたくさんとまっていたようでした。
避難所にはなぜだかいけませんでした。
小さい子供連れはきっと迷惑になるだろうし・・・とか、壊れた生家を放っておけなかったからかもしれません。
金沢から旦那さんが通れる道を探しながらなんとか車で神戸に来て4人で金沢の自宅に帰りました。
基礎部分の地盤に亀裂が入って半壊状態の実家に幼い息子たちを留めることもできませんでしたが、私自身は神戸にとどまりたかった。
うちの中が壊れた物でぐちゃぐちゃで、靴のままで、コートを着込んだまま、落ち着いて横になることもできない実家。
幸い旅行中で自宅にいなくて難を免れたけれど、家が全壊となって避難所生活となった旦那さんの両親。
そしてぐちゃぐちゃになった神戸と被災した多くの人たち。
そういうものから自分だけ逃げかえってしまったような、そんな苦しい気持ちになったのは金沢に帰ってからでした。
ご近所の方や友達のご両親、年末に「来年もよろしくお願いします」と挨拶を交わした方々が震災でなくなったことも時間とともに増えていきました。
転勤前に買った神戸の自宅マンションも一部損壊で修理が必要でした。
罹災者証明書も持っていました。
でも、金沢にいればごく普通の日常の生活。
被災したけれどあの時神戸を離れてしまった自分に複雑な気持ちを持っていることが恥ずかしくて人には言えずに時々苦しくなっていました。
あれから15年。
あの時4歳だった長男も来年の1月には成人式を迎えます。
もうそろそろ区切りをつけてもいいかなと思い、追記にしるしました。
読んでくださった方、ありがとうございました。