ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

「交通権」は法的権利たりえない、と考えるべきではないか?

2014年08月27日 18時21分09秒 | 法律学

 2012年11月18日に「気になる交通基本法案の行方」、2013年11月15日に「交通基本法案⇒交通政策基本法案」、2013年12月3日に「交通基本法案⇒交通政策基本法案(続)」 という記事を、このブログにアップしました。それ以来、久しぶりに交通政策基本法に関係する話となります。

 とある所での仕事の関係で、憲法の体系書や論文などを読み直しています。憲法改正の意味、集団的自衛権など、様々な話題がありますが、今回は人権の意味に関係することです。実のところ、かなり厄介な議論ではありますが、お付き合いください。なお、ここに掲げるのは仮の内容です。

 「交通基本法案⇒交通政策基本法案」において、私は「交通権」という言葉を取り上げました。そこで「交通権」が具体的にいかなる権利であるかを具体的に説明する見解が(管見の限りにおいて)存在しないことを記しました。それから9か月の間に、私は法律学を中心として論考を探したりしていますが、(これまた管見の限りにおいて)法律学では「交通権」についての議論がほとんどなされていません。

 交通経済学者や交通権学会には怒られそうですが、どう考えても「交通権」は法的な権利として認められるようなものではない、と思うのです。そればかりか、交通権学会には「交通権」の内容を、学会内の了解事項などとして閉じ込めるのではなく、大げさに記せば国民全体に向けて、具体的な内容を説明する責任があるはずです。

 「交通権」が権利であるというのであれば、それは実現されるものでなければなりません。もう少し丁寧に記しますと、個人の「交通権」が存在するならば、誰かがその「交通権」を守る、または実現するという義務を果たさなければなりません。次に、「交通権」が侵害されたならば、個人は侵害者に対して原状回復なり損害賠償なりを請求できる必要があります。そして、侵害者がこれら(原状回復なり損害賠償なり)を果たさないのであれば、個人が裁判所に訴え出て、勝訴判決を出してもらい、その判決の内容が執行されなければならないのです。日本国憲法に明文の規定がないプライヴァシー権、名誉権、人格権が権利たりうるのは、裁判所による判決の中身が執行されうるからなのです。もしも勝訴判決を得たところで中身を実現できないのであれば「絵に描いた餅」です(そもそも、そのような場合に裁判所が勝訴判決など出す訳がありません。棄却、却下のいずれかです)。

 以上については、既に「交通基本法案⇒交通政策基本法案」にて詳しく記しましたので、御参照ください。

 新たに加えるのは、以下の事柄です。

 「交通権」の内容が不明確なのでよくわかりませんが、おそらく、公共交通機関を中心とする地域交通体系の維持ないし発展が、内容の根本にあるものと思われます。つまり、社会的な利益です。地域社会全体の利益と考えられるものが保護される必要があるというのは当然のことでしょう。次いで、社会的な利益が個人の権利につながることが望ましいということも否定しません。しかし、そのことから、社会的な利益が個人の権利に還元される、ということにはならないのです。

 長尾一紘「個人の権利と社会的利益」〔『基本権解釈と利益衡量の法理』(2012年、中央大学出版部)所収〕は、Robert Alexyの議論に依拠しつつ、「<社会的な利益は、すべて個人の権利に還元されうる>とする命題は、概念論の上では成立可能であるが、規範論の上でこれがそのまま妥当するわけではない」と述べています。長尾教授の論考は「交通権」を考える際にも大いに参考となるので、ここで紹介させていただきます。

 権利の概念が拡張されれば、それだけ権利の内容が薄くなり、空洞化することにつながりかねない。このことは、憲法学などにおいて度々指摘されます。長尾教授は「都市美観権」や「好景気享受権」というものを想定し、「『有用なこと』『快適なこと』そして『価値があること』すべてについて、このそれぞれに対応する個人の権利が創出されなければならなくなってしまう」と述べます。ここで面白いのが「好景気享受権」でして、10年以上も不景気が続いたという仮定(?)が立てられています。「好景気享受権」が具体的な権利であるとすれば、90パーセント以上の国民が権利侵害を主張することができる、ということになります。長尾教授は「損害賠償請求権を認めることはできない。これを認めることは、財政の上から可能であるとは思われないからである」と述べるのみですが、実現の不可能性から原状回復請求権が認められえないことや、「好景気享受権」を誰に対して主張できるのかという問題もあるものと思われます。単純に国または地方公共団体を被告にすればよいというものでもないと考えられるからです。もう一つ記すならば「好景気享受権」が法的権利として認められるならば、政策決定などが権利問題に「矮小化」される可能性が出てきます。景気対策を初めとする経済政策などは、国民主権国家においては最終的に国民が主権者として判断すべき問題です。

 別の問題として、個人の権利には、長尾教授の表現を借りるならば「その作用として権利者の『持分』についての強制的実現可能性が生ずる」のです。教授は、この問題については「都市美観権」の例を出しています。美観は人によって異なるものですから、住民間で都市の景観について現状維持を主張する者と現状変更を主張する者とに分かれることでしょう。そして、両者の(主張の)優劣を判定するための基準はないし、「持分」を確定することもできない訳です。この際、注意しなければならないのは、現状維持VS.現状変更を権利問題として考えるならば、単純に多数決で優劣を決めることはできない、ということです(多数決は政策決定などの場で用いられるべきです)。

 同じことは「交通権」についても妥当するでしょう。例えば、或る鉄道路線が廃止されようとしているとします。おそらく、「交通権」を主張する人々は、沿線住民(これを画定することも実は困難です)が廃止反対・路線維持を国、地方公共団体または運行会社に請求することができ、国、地方公共団体または運行会社がこれを守る義務があると語ることでしょう。一見すると、この主張は成立しえます。しかし、沿線住民が「交通権」によって具体的にいかなる利益を主張できるか、という問題があります。

 「交通権」が法的権利として認められるならば、路線が廃止された場合には沿線住民が損害賠償請求権を行使することが認められるのでしょうか。そうであるとすれば、路線廃止による沿線住民の逸失利益はどれだけなのかを算定し、主張することが可能でなければなりません。これ自体は可能であるかもしれませんが、運行会社の経営権を犠牲にしてよいという理屈、つまり、「交通権」は経営権に優越するという理屈はどこから発生するのでしょうか。

 こうなると、損害賠償請求権は発生しないが、路線の維持を請求する権利は発生する、と考えることができるかもしれません。しかし、これにも問題があります。やはり「交通権」が経営権に優越するという理屈の根拠です。法的問題ですから、法律に根拠づけられたものでなければなりません(注意的に記しておくと、憲法上の根拠は最後の、または最後に近い段階での主張となります)。

 また、運行会社が路線の維持の請求に応じないのであれば、沿線住民は国または地方公共団体に主張するのでしょうか。そうであるとすれば、裁判で沿線住民は、いったい、具体的に何を主張するのでしょうか。

 現在の鉄道営業法は、路線の廃止について届出制を規定していますので(第28条の2第1項)、国土交通大臣ができることは届け出られた後に「関係地方公共団体及び利害関係人の意見を聴取する」ことです(同第2項)。届出制の場合、行政手続法第37条により「届出が届出書の記載事項に不備がないこと、届出書に必要な書類が添付されていることその他の法令に定められた届出の形式上の要件に適合している場合は、当該届出が法令により当該届出の提出先とされている機関の事務所に到達したときに、当該届出をすべき手続上の義務が履行されたものとする」とされていますから、形式的要件に適合しているのであれば、中身を見て届出を受理しないということは認められていません。つまり、届出を受け取ったことが違法であるという主張は成り立ちません。

 軌道法に準拠する路線であれば、廃止の許可(同第22条の2)を裁判で争うことは、一応可能です。ただ、この場合も廃止によって沿線住民が具体的にいかなる権利や利益を失うことになるのかが問われることとなるでしょう。そして、再び運行会社の経営権との比較衡量という話につながります。「交通権」が経営権に優越するという理屈が裁判所に認められなければ、意味がありません。

 (ついでに記しておくならば、路線の維持によって運行会社が一層の損害を被った場合のことも考えなければならないはずです。運行会社は、沿線住民の「交通権」行使によって損害を負ったとして、沿線住民に損害賠償請求権を行使しうるのでしょうか。)

 そして、先程記した別の問題としての「持分」の話に行きます。2005年の名鉄岐阜市内線等の廃止の際に、岐阜市民の間でも意見が分かれました。意外に報じられていなかったようですが、路線の維持に公費を投入することに反対する市民団体も存在していました。つまり、路線廃止について賛成の意見もあれば反対の意見もあります。このような場合、意見を戦わせて最終的なものにまとめること、場合によっては選挙権を行使することが、民主主義の基本でしょう。裁判にはなじまないのです。「交通権」の主張は、社会的な利益に関して常に一方的な決定を迫りかねないものであり、危険なものです。政策決定の過程に瑕疵があるというのであれば、それは法的な問題として争いえます。しかし、そのことと「交通権」の法的権利性とは別の問題です。

 長くなりましたが、以上はまだ暫定的な内容です。これからさらに詰めていきたいと考えています。

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