ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2006年9月9日、筥崎宮

2020年01月28日 06時00分00秒 | 旅行記

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第250回:「筥崎宮(その1)」(2008年2月2日〜2月13日掲載)

 第252回:「筥崎宮(その2)」(2008年2月19日〜25日掲載)

 第253回:「筥崎宮(その3)」(2008年2月25日〜3月3日掲載)

 いずれも、写真撮影日は2006年9月9日です。誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 (その1)

 最近になって知ったのですが、日本の(と、わざわざ限定をつける必要もないのですが)三大八幡宮といえば、京都府八幡市の石清水八幡宮、大分県宇佐市の宇佐神宮、そして福岡市東区の筥崎宮( はこざきぐう。筥崎八幡宮ともいう)なのだそうです。このうち、石清水八幡宮に訪れたことはまだないのですが、宇佐神宮は大分大学に講師として就職して半年後に初めて訪れ、その後も大分に住んでいる時には毎年夏、誕生日の前後に行きました。そして、2006年9月9日の夕方、筥崎宮を訪れました。

 この日は、午前中が曇り、午後は雨模様でした。2006年9月の集中講義では、二日目早朝から少しばかり体調を崩し、食欲も失せて昼食をとれない日もありました。夕食も、天神地下街にあるコンビニエンスストアでサンドイッチやおにぎりなどといったものを1つだけ買って済ませたくらいでした。しかし、気力で一日4コマを四日間担当しました。中休み明けの五日目からは回復したのでよかったのですが、一時は「本当に大丈夫なのか」と思うほどでした。講義などで話をしている時は、仕事モードに入っているためなのか、別の理由によるためなのか、それほど苦痛を感じません。しかし、講義を行っていない時間には、何とも言えない不気味な感覚に襲われるのでした。

 少しずつ快方に向かいましたので、9月9日の土曜日、某会合に出席してから、地下鉄空港線と箱崎線を乗り継ぎ、まだ行ったことがなかった筥崎宮を訪れることにしました。全国的にはそれほど知られていないはずですが、福岡県内では非常に有名な場所です。地下鉄箱崎線の箱崎宮前(はこざきみやまえ)駅を降りると、筥崎宮への参道はすぐそばです。否、箱崎宮前駅は参道の途中にあります。

 お気づきかもしれませんが、筥崎宮と箱崎宮前では「はこ」の漢字が異なります。神社のほうは「筥崎」で、町名および駅名は「箱崎」です(その理由はよくわかりません)。中洲川端から地下鉄箱崎線に乗ると、箱崎宮前の次の駅は箱崎九大前です(九州大学が完全に移転したら、名称が変わるのでしょうか)。

 参道の両側に露天商の屋台などが並んでいます。放生会に備えたものでしょう。その中を歩いていきます。土曜日の夕方、しかも雨模様とあってか、人通りは少ないのですが、交差する道路を通る自動車の量は比較的多いでしょうか。

 よく見ると、右側に停車中のトラックのナンバープレートが「春日部」となっています。こんな所で埼玉県のナンバープレートを見るとは思いもよらなかったのですが、考えてみれば、首都圏のナンバープレートをつけている車は日本全国で見られます。東京都内で福岡県のナンバープレート(福岡、北九州、筑豊、久留米)をつけている車を見ることより、福岡県内で東京都のナンバープレート(品川、足立、練馬、多摩、八王子)をつけている車を見ることのほうが、確率的には高いかもしれません。大分県内でも首都圏のナンバープレートをつけている車は意外に多く、よく見かけました。かく言う私も、大分市に住み始めてからしばらくの間、川崎のナンバープレートをつけた車を運転していました。

 いよいよ、この横断歩道を渡り、筥崎宮の本殿、社務所などがある敷地に入ります。信号がないので、車の通行状況をよく見てから横断します。それにしても、風格のある立派な神社です。三大八幡宮の一つなのですから当然のことかもしれません。

 筥崎宮と言えば放生会です。毎年9月12日から18日までのお祭りです。残念ながら、私はこの放生会を見に行ったことがありません。2005年度の集中講義は放生会の期間中まで、2006年および2007年の集中講義の最終日は9月12日でした。放生会を見ようと思えば見られた訳です。それでも見に行かなかったのは、最終日の最終時限が終わると、集中講義のレポートの採点、本務校の仕事などのために、すぐに川崎に帰らなければならなかったからです。

 放生会という言葉を辞書で調べてみると、「供養のために、捕らえた生き物を池や野に放してやる法会。殺生戒に基づくもので、奈良時代より行われ、陰暦8月15日の八幡宮の祭りに催され、石清水八幡宮のものが有名」と書かれています(小学館の「デジタル大辞泉」によります)。しかし、福岡市を初めとして九州で放生会と言えば、筥崎宮でしょう。

 ちなみに、放生会は、一般的には「ほうじょうえ」と読むのですが、筥崎宮では「ほうじょうや」と読み慣わしています。

 博多三大祭と言えば、5月の博多どんたく(ゴールデンウィークで最も人出の多い行事です)、7月の博多祇園山笠(櫛田神社のお祭りで、2週間くらい)、そしてこの放生会ですが、博多どんたく以外は見たことがありません。しかも、博多どんたくの場合、たまたま天神に遊びに行ったらそのお祭りの日であることがわかったというくらいでした。博多祇園山笠は、ラジオやホームページでその様子を見たことがある程度です。放生会に至っては、名前くらいしか知りません。

 本殿の右側にある清明殿の手前に、上の写真にある案内板がありました。箱崎宮前駅のそばにある花庭園です。牡丹、芍薬などを鑑賞できるようです。それにしても、どうして、神社の中のレストランでフランス料理なのでしょうか。

 筥崎宮の本殿です。ここは旧官幣大社で、筑前国の一の宮でもあります。応神天皇(第15代天皇)、神功皇后(仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母)、玉依姫尊(神武天皇らを産んだ女性とされる)を祭神としています。この神社の歴史などについては、案内板などを撮影していますので、後日紹介することといたしましょう。

 

 (その2)

 前回に引き続き、三大八幡宮の一つ、福岡市東区にある筥崎宮です。いよいよ本殿です。

 

 本殿から参道のほうを見ています。土曜日の夕方、それほど人は多くありません。しかし、私は、神社であれ仏閣であれ、このような状態の時に訪れたいと思うほうです。この時間に訪れてよかったと思います。何故なら、ほんの一時とはいえ、心が落ち着くからです。

 前回も記しましたが、2006年、西南学院大学の集中講義の期間中、2日目の早朝から体調が悪くなり、期間中の前半は昼食も夕食もとる気がしないほどでした。大きな部屋だったのでワイアレスマイクを使用したとはいえ、よくぞ講義を行ってい る時間に 4コマも大声を出し続けられたものです。ただ、金曜日には快方に向かっていましたので、夕方には福岡滞在中に必ずと言ってよいほど訪ねる藤崎の中華料理屋で食事をとることができました。

 実は、撮影日もまだ完全に回復してはいなかったのですが、筥崎宮を訪れている間は体調のことを完全に忘れていました。

 御神木としての筥松です。上の写真にある説明板にも書かれているのですが、応神天皇は現在の福岡県糟屋郡宇美町で生まれたと伝えられています。その場所が宇美八幡宮なのです(私は2004年8月29日に訪れました。「待合室」でも取り上げています)。応神天皇の御胞衣(おえな。胎児を包んでいた膜や胎盤をいう)を筥に納めて、現在の福岡県東区箱崎に埋め、松を植えたとのことです。ちなみに、福岡市に西鉄の路面電車が走っていた頃、箱崎には松原があったようで、その写真も残っていますが、現在は埋立などの事業のために松原は消滅しています。

 後の絵馬が少し気になります。撮影したのは2006年9月、福岡ソフトバンクホークスはリーグ優勝をかけて福岡ドームで戦っていたはずです。優勝を逃しています。右隣にはアビスパ福岡の絵馬がありますが、この年、結局はJ1からJ2に降格しています。

 続古今集に収録されている短歌を読んで思い出しましたが、筥崎宮からJR鹿児島本線の箱崎駅まで歩き、そこで鹿児島本線の上り電車に乗ると、次の駅が千早です。最近できた駅ですが、西鉄貝塚線には名香野という駅がありました(移転し、現在は西鉄千早となっています)。

 本殿の楼門には「敵國降伏」という宸翰(しんかん。天子自筆の文書という意味)があります。まさに、筥崎宮は敵国降伏の神を祀る神社なのです。

 先ほどの筥松です。かなり大きな松です。樹齢がどのくらいなのかはわかりません。

 宇佐神宮の、本殿に至る階段の手前で「皇族下乗」を見かけます。筥崎宮にもあります。ここが八幡宮の一つであることを示しています。ただ、鎌倉市にある鶴岡八幡宮に「皇室下乗」があったでしょうか。全く記憶がないのです。それに、まだ、京都の石清水八幡宮に行ったことがありません。

 あと一回、筥崎宮を取り上げたいと考えています。

 

 (その3)

 前回に引き続き、福岡市東区にある筥崎宮です。今回が最後となります。

 本殿の近くに、上の湧出石があります。 「運が湧き出る」という信仰があるそうです。また、「国に一大事がある時地上に姿をあらわす」と言います。もし、私が訪れたのが2006年9月ではなく、2007年9月であれば、この石は地上に姿を現していたのでしょうか。

 足下を見ると、その湧出石らしきものがありました。かなり小さなものですが、何か一大事があればこれがさらに地上に出てくる、という信仰なのでしょうか。神社一つを選んでみても、様々な信仰があるものです。もっとも、このような気持ちが全くないというのでは殺伐としてしまいますから、科学的に割り切れない部分も必要ではあるのでしょう。

 それにしても、この石はどのような種類のものなのでしょうか。高校生時代に地学で石の種類などを学びましたが、どうもよくわからないのです。御影石であれば花崗岩であるとわかりますし(神戸市の御影から産出されるので御影石と言います)、玄武岩くらいまでならわかりますが、片麻岩だの凝灰岩だのになるとわからなくなります。それなのに、東急ハンズ渋谷店などに行くとラピスラズリ(瑠璃)の原石などを見てまわっていたりします。

 私が生まれ育った場所には松の木が植えられていましたし、今でも松を見ると気分が落ち着きます。その松の枝に御神籤が結び付けられています。「こんなことをしていいのかな?」などと思いながら見ています(禁止されている所もあるからです)。

 ところで、皆様は御神籤をお買いになるでしょうか。実は、私は一度も、神社で御神籤を買ったことがありません。絵馬、お守りの類なら買うのですが、何故か御神籤だけは買ったことがないのです。

 持参していたデジタルカメラのフラッシュが反射してしまいましたが、筥崎宮の案内板です。創建されたのは平安時代で 、第60代天皇である醍醐天皇の在位中、923年に創建された、とあります。

 醍醐天皇の在位期間は西暦で言えば897年から930年までです。日本史では延喜の治として有名な時代にあたります。藤原時平を重用しつつ、親政を行ったからです。また、醍醐天皇の治世中に、有名な古今和歌集が編纂されています。最初の勅撰和歌集であり、醍醐天皇の命令により、紀貫之などが撰者としてまとめあげたものです。

 先ほど、藤原時平を出しましたが、実はこの醍醐天皇、御本人が直接、当時の筑紫の国、つまり現在の福岡県を訪れたかどうかは知りませんが、福岡県に縁があると言えるお方です。醍醐天皇の父は宇多天皇であり、宇多天皇は菅原道真を非常に信頼していたようです(藤原氏を抑えたということで、後に寛平の治と称されます)。道真は894年に遣唐使に任ぜられますが、彼は遣唐使の廃止を建議します。これが採用されました。宇多天皇は30歳にして自らの子に譲位します。醍醐天皇は道真と時平を重用します。ところが、901年、時平は道真について讒言を行います。このために道真は大宰権帥として大宰府に左遷されます。その2年後に道真が没したのです。もし、道真が讒言の故に大宰府に左遷されなければ、太宰府天満宮は創建されなかったはずです。道真の事件への評価はともあれ、この事件がなければ福岡県を代表する名所はなかったことでしょう。さらに言えば、かつて筑紫に大宰府があったという記録は残ったとしても、太宰府市が誕生したかどうかは疑問です。

 筥崎宮を出て、地下鉄箱崎宮前駅に戻る途中に、このような道路があります。何の変哲もないように見える道路ですが、実は、この道路は1979年(昭和54年)に全廃された西鉄福岡市内線の跡なのです。ここは路面電車だけが通る専用の軌道敷があった場所で、福岡市内線が廃止された後にバス専用道路に転用したのです。

 北九州市内には、路面電車が通っていた軌道敷をバス専用道路に転用した所がいくつかあります。道路の構造ですぐにわかりますし、バス停を見ればわかるということもあります。しかし、福岡市内では箱崎で初めて見ました。他にあるのでしょうか。

 上の写真に箱崎バス停が見えますが、ここは路面電車の箱崎電停であった場所です。九大前電停から箱崎を通り、馬出(まいだし)、呉服町、天神、唐人町、西新、藤崎を経由して姪浜に至る貫線の一部が、この道路なのです。なお、このルートとほぼ同じルートのバス路線があるようです。また、現在の地下鉄箱崎線の箱崎九大前~中洲川端、空港線の中洲川端~姪浜は、西鉄福岡市内線貫線の代替路線です。

 箱崎宮前駅です。神社の鳥居のマークが付けられていますが、これが箱崎宮前駅のシンボルマークです。

 九州はよほどシンボルマークが好きなのでしょうか。大分県の各市町村には、市町村章(紋章のようなものです)とは別に、特産品、有名人などをモチーフにしたシンボルマークがあります。大分市なら高崎山の猿(何故かサッカーをしている)、宇佐市なら宇佐神宮と横綱双葉山、といった具合です。また、JR九州の駅名標には、たいてい、駅独自のシンボルマークがあります。福岡市営地下鉄も同様で、どの駅にもシンボルマークがあります(対照的に、西鉄や筑豊電気鉄道の駅にはシンボルマークがありません)。

 駅ごとの識別ということで早かった例は東急新玉川線(現在は田園都市線の渋谷~二子玉川)で、駅によって、壁に塗られている横帯の色が違います。二子玉川(開通時は二子玉川園)を除いて地下駅であったためです。また、目黒線も同様で、駅によってホームドアなどの色が違います。東京メトロ半蔵門線の半蔵門駅、九段下駅、神保町駅なども、駅ごとに壁のデザインが異なります。このような識別をシンボルマークにして行っているのがJR九州と福岡市営地下鉄です。どちらが先に行ったのかはわかりませんが、とくに福岡市営地下鉄のマークはわかりやすく、非常に役に立ちます。

 さて、今度は何処に行こうか。あれこれと考えています。


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