(今回は、2013年3月24日から4月1日まで「待合室」第518回として掲載した記事です。なお、一部を修正していますが、内容は基本的に当時のままです。)
2012年9月2日の朝、私は、宿泊していたホテルを出て、天神駅から地下鉄空港線に乗り、博多駅でJR鹿児島本線に乗り換え、香椎駅で香椎線のディーゼルカーに乗りました(「海の中道線(香椎線西戸崎~香椎)」)も御覧ください)。
同線の起点である西戸崎駅に到着しました。ここから志賀島へ行く訳ですが、歩くとかなりの時間を必要としますので、西鉄バスに乗ることとしました。
通称「海の中道」を通り、海の中道海浜公園の南西側を通ります。そのような場所にも、東区大岳には市営住宅などがあり、小規模な商店などもあります。実際、バスに乗っていると、およそ海岸に近い観光地とは思えない様子です。リゾート風味が少しばかり加えられた新興住宅地、と表現するほうがよいでしょう。
しばらくすると、その住宅地も途切れ、公園の緑地と海に挟まれた場所を走ります。程なく、短い橋を渡ります。これで、志賀島に入りました。
すぐに、海の家、駐在所、郵便局などがある集落があり、ここに志賀島バス停があります。私が乗っているバスは、志賀島小学校前から先、勝馬まで走りますが、途中の金印塚バス停で降りました。道路の片側にしかバス停の柱が置かれていません。
早速、バス停のそばから博多湾にカメラを向けました。南方は福岡市西区に属する能古島、北西には同じく西区に属する玄界島、西方には福岡市西区と糸島市に属する糸島半島が見えます。空は少しばかり霞んでいましたが、福岡ドーム、マリノアなども見えます。
関東の政令指定都市に、このような風景を楽しめる場所はあるでしょうか。私は、1時間ほど前まで福岡市中央区天神にいたのですが、既に大都市の一部地域とは思えないような場所にいます。頭の中で、何度も、ここは福岡市東区であると確認しながら、博多湾を眺めていました。
金員塚バス停で降りたのは、日本史の教科書でおなじみの「漢委(倭)奴国王」金印が発見されたという場所を訪れてみたかったからです。バス停のすぐ目の前に、金印公園があります。入口に、御覧のような石碑が立てられていました。
すぐに小高い丘を登ります。
階段を昇り終えると、中腹に御覧のような案内板が設置されています。
金印は、たしかにこの島で発見されたようです。江戸時代のことで、誰が発見したのかはわかりませんし、出土場所についても正確なことはわかっていないようですが、さぞ驚かれたことでしょう。
しかも、これが日本の弥生時代のものだったのです。弥生時代という名称は、現在の東京都文京区にあった弥生町で土器が発見されたことに因んでいますので、江戸時代にはどのように呼ばれていたのでしょうか。
「漢」と書かれていますが、ここでは後漢(25~220年)のことで、初代皇帝である光武帝(劉秀)が新を滅ぼして再興した王朝です。一方、「奴(な)」は、弥生時代にこの福岡市付近にあったとされる国の名前です。金印は後漢書にも登場しているようです。
ちなみに、実物は早良区百道浜にある福岡市博物館に展示されています。
ちょうど足元に、金印を模したモニュメントが置かれていました。
志賀島は、昔から海上交通の要所でした。そのために、古事記、日本書紀などにも登場しています。案内板に描かれている地図を見ても、志賀島が重要な位置に存在することがわかります。「奴」国の中心がどこにあったのかはわかりませんが、この島を押さえていたことは確実でしょう。
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