ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2006年9月3日、日田彦山線と後藤寺線の車窓

2020年06月18日 00時00分00秒 | 旅行記

 最初にお断りです。今回は、「待合室」の第257回として2008年3月22日から29日まで掲載した記事の再掲載です。一部、文章を修正しましたが、基本的な内容に変化はありません。なお、写真撮影日は2006年9月3日です。

 

 2004年から2012年まで、夏休みの後半になると、西南学院大学で集中講義を担当しておりました。その期間、集中講義は私の中で恒例行事のようなものになっており、必ず年間スケジュールに組み込んでいました。そればかりでなく、「今年はどこをまわろうか?」などと楽しみにしていたのです。福岡市内もよいのですが、どうせのことであれば、列車に乗ってどこかへ行ってみたいと思うのです。九州のローカル線に、心を惹かれるような何かがあるからです。

 2006年9月3日、西南学院大学での集中講義という仕事のために福岡入りしていた私は、西鉄宮地岳線に乗り、当時の終点である津屋崎まで行きました。これは、2007年3月31日を最後として西鉄新宮~津屋崎が廃止されるという話を聞いたからです。現在は貝塚線という名称となった路線の乗車記は、このブログにも「西鉄宮地岳線乗車記(1)」、「西鉄宮地岳線乗車記(2)」および「西鉄宮地岳線乗車記(3)」として掲載しておりますので、御覧ください。

 津屋崎から貝塚へ戻り、地下鉄で博多に戻ってから山陽新幹線で小倉に出ました。小倉から日田彦山線に乗ろうと思ったのです。

 何年ぶりかで小倉駅に降り立ちました。大分に住んでいた時には、この駅で新幹線に乗り換えたりしました。また、小倉駅を降りて魚町などを歩いたこともあります。また歩いてみたくなる場所ですが、この駅の南口(魚町、砂津、香春口方面)と北口とではあまりに大きな差があって驚かされます。また、小倉駅から西小倉駅にかけての通りは風俗街らしく、あまり風紀のよいところではありません。

 日田彦山線の田川後藤寺行きが停まっています。日田彦山線は、正式にはここからではなく、日豊本線の城野からの路線ですが、ほとんどがここ小倉から走ります。城野から田川伊田、田川後藤寺、添田、彦山を通り、日田市にある久大本線の夜明までなのですが、多くの列車は日田まで走ります。もっとも、城野から夜明までを通して走る列車は少なく、小倉からであれば田川後藤寺などで折り返す列車がほとんどです。今回、私が乗ったのも田川後藤寺行きで、田川後藤寺で日田行きに接続しますが、このように運行するのは、小倉~田川後藤寺と田川後藤寺~日田では需要に大きな差があるからでしょう。

 別のホームに止まっていた行橋行きです。これに乗った場合には、行橋で平成筑豊鉄道田川線に乗り換えれば、田川伊田に出られます。源じいの森、東犀川三四郎などという面白い名前の駅もいくつかある田川線ですが、既に乗ったことがありますし、私が目指すのは田川後藤寺であって、この電車に乗ったのでは乗り換えが2回になりますし、接続がよいかどうかもわかりません。

 16時17分、田川後藤寺行きは小倉駅を発車しました。城野までは複線電化の日豊本線を走りますが、城野からは単線非電化で、急に車窓が変わります。志井公園駅の近くに北九州モノレールの企救丘駅があるのですが、そうとは思えないほどひなびた場所でした。さらに山間の里の色彩を強めていきます。ただ、日曜日の午後、2両編成の列車は意外なほどに混んでいて、私は座れず、途中のどこかまで立っていました。

 列車の中から撮影してみました。遠くに駅名標があります。字が薄くなっていて読めなくなりかけていますが、呼野(よぶの)駅です。ここまでが北九州市小倉南区なのですが、政令指定都市の行政区の中を走っているとは思えない場所です。使われなくなった線路が雑草に覆われています。

 この辺りから、所々が削り取られて白い山肌を剥き出しにしているという光景が見られます。この奥のほうに平尾台というカルスト台地が広がっている、とのことです。

 呼野駅でもう一枚撮影しました。日田彦山線は、元々が石炭運搬のための路線で、何年か前まで石灰石を積んだ貨物列車も運行されていたそうです。駅構内が広いのも、貨物運送華やかりし頃の名残なのでしょう。それだけに、使われなくなり、雑草の成長に任せているようなホームや線路跡には侘しさが漂います。

 いつしか、列車は香春駅に到着しました。奥の山も香春岳の一部のようで、やはり山肌が削り取られています。以前、日田から添田、大任を経由して小倉まで車を走らせたことがあり、香春岳を見て、あまりの醜態に驚かされたことを思い出しました。ただ、石灰石は我々の日常生活にとって必要なものでもありますから、複雑な気分にもなります。

 かつて、この香春駅からは添田線が分岐していました。但し、元々は添田線のルートが本来の路線ですが、田川伊田、田川後藤寺経由の路線が日田彦山線となり、添田線が支線のようになりました。赤字ローカル線のために廃止されています。

 田川後藤寺に到着しました。日田行きが接続していたので、これに乗って久しぶりに大分県に入ってもよかったし、本当はそうしたかったのですが、日田に到着するのが18時過ぎになってしまい、何時に天神に戻ることができるのかわからなくなります。首都圏や京阪神地区と同じ感覚で動く訳にはいかないのです。そこで、田川後藤寺~夜明はまたの機会に残すこととしました(2007年9月4日に乗りました)。

 たまたま、平成筑豊鉄道糸田線の気動車が止まっていました。国鉄赤字ローカル線だったものが第三セクター化されたのです。直方に出るには、こちらに乗ったほうがよいのかもしれませんが、私が目指したのは飯塚ですので、後藤寺線のほうに乗ります。

 田川後藤寺駅0番線に後藤寺線の気動車が止まっています。豊肥本線で見慣れたキハ31です。私が大分に住み始めて最初に乗った気動車がこのキハ31で、駅によっては乗る時に整理券を取り、駅によっては運賃箱に整理券と硬貨を入れるという、路線バスのようなスタイルでした。扉までバスと同じ構造になっています。整理券というものがない京浜地区のバスに乗り慣れている私は、この気動車に乗った時に二重の驚きを感じたのでした。

 田川後藤寺駅には駅員がいますので、整理券を取る必要はありません。ただ、九州では切符を持たないで列車に乗る人も少なくないそうで、これにも最初は驚かされます。もっとも、無人駅が多く、大分市内にある豊肥本線の竹中駅のように自動券売機もないような駅も少なくないのですが。

 筑豊地区の鉄道路線は、石炭輸送のために建設されたというものが圧倒的に多いのですが、後藤寺線もその例です。国鉄解体時に、この地区のローカル線は次々に廃止されましたが、後藤寺線は残りました。途中は全て無人駅です。筑豊本線の新飯塚に向けて走ります。

 田川後藤寺を発車して次の駅が船尾駅です。麻生財閥のセメント会社が経営している大きな工場が駅前にあります。このあたりは石灰石が多いのか、船尾駅からも石灰石を採掘している山が見えます。


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