みいちゃんといっしょ

みいちゃんとみいちゃんのパパの日記

北陸へ出かけました。(Part2の2)

2022年05月12日 | 旅行

 北陸旅行2日目 金沢市内観光も 後半に入ります。

 金沢城の「鼠多門(ねずみたもん)」から城外に出て、徒歩で「
いしかわ四高記念公園」を抜けて「石川四高記念館」へ向かいます。

 

 公園では、トンビがベンチでパンを食べている女性から、パンをかっさらったところをカラスに横取りされたのを目撃。
 びっくりしたぁ。金沢城付近では結構有名なトンビみたいです。

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「石川四高記念館」は、旧四高(しこう)の校舎を利用した赤レンガ建物。四高(旧制第四高等学校)の歴史と伝統を伝える展示がありました。

 旧制高等学校は、明治時代から昭和時代前期にかけての日本に存在した高等教育機関。存続時期のほとんどにおいて、帝国大学を中心とする官公立の旧制大学学部への進学のための予備教育(現在の大学教養課程に相当)を、男子のみに対して行った、と。

 第四高等学校は、明治20年に金沢に第四高等中学校が設置され、明治27年の高等学校令公布に伴い第四高等学校と改称されたとのこと。
 いい時代ですね。楽しそうです。「マスクをしろ、人と話をするな、出かけるな。」なんですかそれ!!

 

「四高ボート部琵琶湖遭難事故」の展示

 琵琶湖に合宿していた四高の漕艇部員と京都大学の学生ら3人が、遠漕訓練中の転覆事故により全員死亡した事件。

 この事故は関西方面では大きく報道されたものの、それ以外ではあまり取り上げられなかったが、この事件を悼む「琵琶湖哀歌」が東海林太郎と小笠原美都子によってレコード化されると、そのヒットと相まって全国的に知れ渡ったそうだ。

 この歌と加藤登紀子が歌った「琵琶湖周航の歌」との関係が分からなかったのですが、メロディーや歌詞の大部分が、三高(京都大学)の寮歌である歌琵琶湖周航の歌のパクリだったようです。

琵琶湖哀歌

 

 2階部分は貸しスペースになっています。

 

 こんなところにも、「孔子学院」がはびこってきています。やっぱり日本は終わっています。

 

 このあたりは「香林坊」という地名の繁華街となっています。比叡山の僧の香林坊が還俗して、この地の町人向田家の跡取り向田香林坊(むこうだこうりんぼう)となり、以来目薬の製造販売に成功して「香林坊家」として繁栄したのが由来だとか。

 

 高級ブティック店とかが多く、食事をとれるところがなくって、名物「金沢おでん」を狙っていたのですが、迷い込んだ「堅町通り」の飲み屋のランチで普通の食事になってしまいました。

 

 さて、体力も回復したので、気を取り直して、再び循環バスに乗って「尾山神社」に向かいます。予報通り小雨が降り始めました。

 加賀藩祖・前田利家公と正室お松の方を祀る尾山神社。

 和漢洋の3つの建築様式が用いられた「神門」が特徴的です。
 それもそのはず、歴史は新しく、明治6年に旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築されたとのこと。また、正室であるお松の方に至っては、平成10年合祀された。

 藩祖を祀った神社を建立することが、江戸時代後期から明治時代初期に流行したそうです。

 屋根には避雷針が。これは日本最古の避雷針だそうです。

 

 1階部分が木骨煉瓦造石貼付の3連アーチとなっていて西洋風です。

 

 境内に前田利家公の銅像が立っているのですが、背中にすごいものを背負っています。

 母衣(ほろ)といって、矢をよける甲冑の補助具だそうです。いわば、アクティブアーマーですね。かっこいい。

 

 本殿も造りが西洋風で、土台の玉垣は金沢で最初のレンガ造りだそうです。

 

 

 さて、本日の最後の目的地、「長町武家屋敷」へ。

 加賀藩士・中級武士たちの屋敷跡が残り、黄土色の土塀、石畳の小路などが特徴的です。

 冬には雪から土塀を守る「こも掛け」がなされるそうで、金沢の冬の風物詩となっているとのこと。

 

 長町を流れる大野庄用水は、古くから、灌漑、物資運搬、防火、防御、融雪などの多目的用水として用いられてきたそうです。
 いまでも、滔々と流れていて、屋敷内庭園の曲水(きょくすい)に利用されているのが見受けられます。

 

 この、用水は、旧宮腰(金石港)から大量の木材を運ぶために造られたもので、金沢城築城に大きな役割を果たしたと伝えられているそうです。

 

 さて、金沢市内1日観光の予定をすべて終え、金沢駅「あんと」内にある「ドンク」で時間調整します。

 今回の旅行で、ベーカリーのイートインスペースが意外と便利(人が少ない、静かなど)なことが分かりました。「スターバックス」なんて人でごった返していて、休める雰囲気ではなかったです。

 

 新幹線に乗り、今日の宿泊地、長野に向かいます。

 

 篠ノ井線の霜取り列車として知られていて、現在は長野総合車両センター内での操車を担当している「クモヤ143-52」のようです。いいもの見ました。

 

 乗ってきた「かがやき512号」 金沢16時48分 発 長野17時54分 着 1時間06分 はあっという間でした。

 

 さっそくホテルに向かいます。金沢駅ほどではないですが、長野駅も立派です。

 

 今日の宿泊ホテルは、長野駅ビル直結「メトロポリタン長野」。こちらは JR東日本系列です。

 

 今日は昨日と違い、まともな夕食をとりに出かけられました。

 長野と言えば、信州そばということで、駅前のドン・キホーテの下「そば亭 油や」で

手打ちそばがメインのミニ天丼セットをいただきました。

 蕎麦の盛がけっこう多くて、かつ、丼ぶりの海老天も大きくて、おなかいっぱいです。物価はだいぶ安そうです。

 

 明日に続く

 

 

 





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北陸へ出かけました(Part2)

2022年05月12日 | 旅行

 昨日の Part1 に引き続き、北陸旅行2日目

 金沢の夜が明けました。山がこんなに近くまで迫ってきているのは、東京の都心では味わえない光景です。

 

 恒例の散歩に出かけます。朝食の調達も兼ねています。

 

 昨日はゆっくり見られなかった「鼓門(つづみもん)」を眺めます。

 

 金沢の伝統芸能である能楽で使われる鼓をイメージしているのだそうです。高さが13.7mのねじれた2本の太い柱はなかなかのものです。
 夜はライトアップされているそうですが、まさか、アホの小池の真似してウクライナカラーじゃないでしょうね!!

 

 ビジネスホテルの朝食は粗食になってしまいますね。でも、このエキナカのおにぎり、暖かくって、おいしかったです。

 

 さて、循環バスに乗って市内観光に出かけます。

 

 まずは、浅野川のほとり「ひがし茶屋街」を散策。
 文政3年(1820年)、加賀藩の許可を得て、犀川西側に「にし」の茶屋町、浅野川東側に「ひがし」の茶屋町が開かれ、大いに賑わったとのこと。

 なんと、武家はご法度で、商人と町人しか使えなかったそうです。

 紅殻格子(紅殻OR弁柄(べんがら)と呼ばれる赤色の顔料で塗られた千本格子)の茶屋(芸妓が客をもてなす飲食遊興店)が軒を連ねます。
 紅殻はベンガル産(Bengala)の塗料(酸化鉄)という意味の語であり当て字だそうな。

 

 紅殻OR弁柄は、人体には無害で、紫外線による退色もない、また、防虫防腐作用もあることから、建物の外壁を守る素材としても重宝されてきたんだそうです。粋だしね。

 

 こんどは、浅野川の対岸、主計町(かずえまち)茶屋街へ向かいます。渡っているのは浅野川に架かる浅野川大橋。向こうに見える橋は、泉鏡花の小説の舞台になったという「中の橋」。橋を渡るごとに一文支払ったことから別名「一文橋」とも言われているそうです。

 

 加賀藩士・富田主計(とだかずえ)の屋敷があったことに由来。こちらは、明治期から昭和戦前期にかけて栄え、当時の建造物が多く残っているとのこと。

 

 本当に、芸妓さんの三味線の稽古の音が聞こえてきました。

 

 「暗がり坂」 鏡花は、「暗闇(くらがり)坂を下りると(中略)大川へ出るのであるが、人通りはめったにない。…心得ないものが見れば、坂とは言わず穴のような崕(崖)である」と書いているそうです。

 

 さて、再び循環バスに乗って、兼六園へ向かいます。桂坂口から入園。

 

 気温が上がって夏日になって、むっちゃ暑くて体力がそがれる坂を登っていくと、「霞が池」。
 13代藩主・前田斉泰( なりやす)がこの池を以前の三倍に拡張し、現在の形になったそうで、池の中程に浮かぶ蓬莱島は、不老長寿を表しており、形が亀に似ていることから亀甲島とも呼ばれている。

 

 ここで、驚愕の光景に遭遇。

 修学旅行の学生が集合写真を撮るときに、ボランティアガイドのおじさんが「写真を撮る時だけマスクを外しましょう」と促したのですが、なんと、みんな首を横に振って、だれ一人マスクを外そうとしませんでした。
 ガイドのおじさんが、わざわざ言ってくれたのに、それを無視して、数秒マスクを外すことも恐れているという、救いようのない子どもになってしまったようです。
 引率の教師も、せっかく、良かれと思って言ってくれたのだから「おまえら外せよ」ぐらいのこと言えないのかね。こんな常識のないバカ教師だから、横並び大好きの自立心のないこどもが作られるんだよ!!

 ああ、日本は終わったんだなと思い悲しくなりました。

写真はイメージです。

 次は、これも外せない、「唐崎松」。兼六園のなかで最も枝ぶりの見事な樹木で、前田斉泰が琵琶湖畔の唐崎松から種子を取り寄せて育てた黒松だそうです。冬を迎えるにあたって、雪の重みによる枝折れを防ぐために施される雪吊りが有名ですね。

 

 そして、由来が分からないと、何故みんながこぞって撮影するのか分からない「徽軫灯籠(ことじとうろう)」

 徽軫灯籠は、楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱(ことじ)に似ていることから、この名前が付いているとか。

琴柱」の画像 - 35 件の Stock 写真、ベクターおよびビデオ | Adobe Stock

 水面を照らすための雪見灯籠なのですが、足が片方は水の中、もう一方は石の上という微妙なバランスや、「この琴柱燈籠と、虹橋と、もう少し上流の段落ちが奏でる水音との3者で、琴そのものを表現している」ともいわれているそうで、とにかく変わった形と意匠がなんとも分からないところが特徴のようです。

 

 振り向くと、能登半島が霞んで見えます(バスガイドさんが説明しているのを盗み聞きしました)。

 

 さて、兼六園は暑すぎて体力が持たないので、これくらいにして、もとは百聞堀というお濠を道路にした上に架かる石川橋を渡って金沢城へ向かいます。

 「石川門」 規模がでかくって、スケール感が麻痺するような建造物です。

 

 復元された「河北門」の上から二の丸を眺めます。焼失した「二の丸御殿」というのをこれも復元中だそうです。

 三の丸広場を通って、

 

 「三十間長屋」へ 幅3間、長さ36.5間ほどの2階建ての多聞櫓(石垣や土塁の上に建てられる長屋造の櫓=高層建造物の総称)。金沢城では多聞櫓を長屋と呼んでいたそうで、30軒の長屋があったわけではないようで。

 

 散策に体力の限界を感じ、黒い海鼠壁(なまこかべ)が特徴的な「鼠多門(ねずみたもん)と「鼠多門橋」を通って城外にでます。この門も2020年に復元されたそうです。石川県って財力が今でもあるんですね(それとも国の補助金でがんじがらめなのかな?)。

 

話があまりに長くなったので後半へ続く。

 

 

 

 

 

 





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