日露戦争での現地総司令部として満州軍がつくられたとか。→ こちら
この情報担当の高級参謀に福島安正がいたとのこと。
満州軍の隷下部隊である第2軍司令部に酒井勝軍は配属されました。
・酒井の配属された第二軍は、明治三十七年三月に編成され、司令官は奥保鞏(おく・やすかた)がつとめており、遼東半島に上陸し、満州中央部に向かって北進するという重大な任務を課せられていた。
この第二軍には、騎兵第一旅団を率いた秋山好古(あきやま・よしふる)や、乃木希典(のぎ・まれすけ)の長男乃木勝典(かつすけ)が所属していたことで知られている。
森鴎外はこの第二軍の軍医部長だったんですね。観戦外国武官たちと森鴎外は接触があったのかどうかわかりませんが、この第二軍に国際的な注目が集まっていたことを森鴎外は感じていたことでしょう。
森鴎外は1904年4月に広島・宇品を出て1906年1月に東京・新橋へ凱旋。
酒井勝軍は1904年5月の南山陥落をを聞いてすぐ出帆し、1905年8月に凱旋(だいぶ経ってからの記述のようで正確ではないようです)
観戦外国武官とは想像よりも長期に戦場にいたようだ、と思いました。
それぞれ帰国してから報告書を書いたようで、貴重な史料となっているとか。
ただし、観戦武官たちの出身の国の中には、その後まもなく消滅したところがあってほんとうに激動の時代であったのだと思います。
酒井勝軍について
・日露戦争への従軍体験は、酒井が留学によって親しんだ反戦平和主義、親米主義、民主共和主義という価値体系を根刮(ねこそ)ぎひっくり返し、戦争肯定礼賛主義、日本主義、神政主義への思想的大転換を要請してきたのである。
これは日本という国家が明治維新以降ひとすじの迷いもなく強力に推進してきた「欧米型近代」の全否定であった。
・日露戦争への従軍は、酒井に「若し地上に天国を求めば戦場の外になし」とまで堂々と公言させるほどの決定的な体験を与えてくれた。
・これは「貧しきものは幸いである」などと同じ逆説表現であり、とうていあり得ないことこそが真実であるという意がこめられてる。すなわち、それまで真理だと信じて抱きつづけてきた価値観が百八十度大転換したことと、さらには真理は大転換側にこそ存在するということを象徴的に暗示した言葉として受け取られるべきであろう。
激戦であった日露戦争を含んで戦争というものの詳細を知らなければ、現代の日本は平和の伝道師として説得力をもてないようです。
さて森鴎外は酒井勝軍よりも長く戦場にいて、思想上の転換といったことはあったのでしょうか。
そう思って読むと、日露戦争後の森鴎外の作品には、かなり地雷のようなものを埋め込まれているように思えて・・・・・
たとえば、代表作ともいわれる「渋江抽斎」は弘前藩藩医であった人物ということから、森鴎外が八甲田山雪中行軍についての思いを埋め込んだ作品ではなかったかと思ったりします。つまり戊辰戦争以降の東北に、国際的な立場での日本の将来を重ねて考えたということはないでしょうか。
観戦武官たちの熱い目は、八甲田山雪中行軍にも向けられていたように感じられますから。
これについては、ブログ「メゾフォルテからあなたへ」で考えてみたいと思います。