新田次郎「八甲田山死の彷徨」は1971年(昭和46年)9月に新潮社より書下ろし刊行されたとのことです。
江藤小三郎や三島由紀夫の影響はなかったでしょうか。
その影響があったとして、さらにこの小説の影響力は多大であったといえるのではないでしょうか。
私はそのころちょうど20歳で、何も知らずに過ごしておりましたが、今ごろになっておぼろげながらその時代というものがわかるようになってきました。
細かい事実に関しては埋もれてしまったり、思い込みが真実とされてしまうこともあったりするのでしょう。
雪中行軍については、未だに新事実発見ということがあり、語り継がれていく、ということが大事そうです。
新事実発見はできませんが、気づいたりしたことを書いてみたいと思います。
・1902年1月30日午後7時過ぎに青森で大きな地震があったとのこと。→ こちら
ちょうど捜索隊が動員されているときで、地震発生が夜でなかったら、なだれで2次災害が出てしまったかもしれません。
・クリミア戦争(1853-1856)では、イギリスが化学兵器を使い、またフランスはこの戦争を教訓に気象研究を始めたとか。
火山活動が活発であれば、ガスの発生も考えられて、窪地は要注意ということにならなかったでしょうか。
第31連隊ではその点について注意があったようです。
「八甲田山死の彷徨」では、日露戦争を前にして、軍首脳部による寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した、としています。
実験について成功も失敗もあり、その結果については公表されることはなかったということでしょう。
その地で実験をしてもよいと思わせるのは、差別感ではないでしょうか。20世紀の初めには差別というものがしっかりあったはずだと思います。