椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

2019年2月 青森 その9 八甲田山雪中行軍〔5〕

2019-03-09 14:33:30 | 歴史あれこれ

新田次郎「八甲田山死の彷徨」は1971年(昭和46年)9月に新潮社より書下ろし刊行されたとのことです。

江藤小三郎や三島由紀夫の影響はなかったでしょうか。

その影響があったとして、さらにこの小説の影響力は多大であったといえるのではないでしょうか。

私はそのころちょうど20歳で、何も知らずに過ごしておりましたが、今ごろになっておぼろげながらその時代というものがわかるようになってきました。

細かい事実に関しては埋もれてしまったり、思い込みが真実とされてしまうこともあったりするのでしょう。

雪中行軍については、未だに新事実発見ということがあり、語り継がれていく、ということが大事そうです。

 

新事実発見はできませんが、気づいたりしたことを書いてみたいと思います。

・1902年1月30日午後7時過ぎに青森で大きな地震があったとのこと。→ こちら

ちょうど捜索隊が動員されているときで、地震発生が夜でなかったら、なだれで2次災害が出てしまったかもしれません。

・クリミア戦争(1853-1856)では、イギリスが化学兵器を使い、またフランスはこの戦争を教訓に気象研究を始めたとか。

火山活動が活発であれば、ガスの発生も考えられて、窪地は要注意ということにならなかったでしょうか。

第31連隊ではその点について注意があったようです。

 

「八甲田山死の彷徨」では、日露戦争を前にして、軍首脳部による寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した、としています。

実験について成功も失敗もあり、その結果については公表されることはなかったということでしょう。

その地で実験をしてもよいと思わせるのは、差別感ではないでしょうか。20世紀の初めには差別というものがしっかりあったはずだと思います。


2019年2月 青森 その8 八甲田山雪中行軍〔4〕

2019-03-09 00:16:46 | 平和を考える

日露戦争を前にして、緊張感にかけた雪中行軍の訓練をしてしまった青森の悲劇とするだけでは、それほど教訓は得られないようにも思います。

八甲田山雪中行軍遭難事件について こちら

ブログでまとめてお伝えするには難しい事件ではありますが、少し違う視点から考えてみたいと思います。

歩兵第5連隊については こちら

西南戦争に出かけて戦死者や戦病死者がいたとのことです。

日清戦争を経て、この第5連隊や第31連隊が属する第8師団は、日露戦争で前線に立つことは予想されたのではないでしょうか。

1902年当時

第8師団 団長 立見尚文 については こちら 

第4旅団 団長 友安治延 については こちら

歩兵第5連隊 隊長 津川謙光 については こちら 

雪中行軍の最終的な責任者とされている第2大隊の山口鋠少佐は、外国語学校フランス語科を経て陸軍士官学校を卒業したとのこと。

また、この雪中行軍の指揮官である神成文吉中尉については こちら

今まで多くの説がありますが、組織の管理能力が低く、リーダーたちが無能であった、という点では一致しているようです。

 

この点とは異なる以下のように考えてみました。

フランス語科を出た山口鋠少佐は、当然のことながら、ナポレオンのモスクワ遠征について詳細に知っているはずです。

師団長をはじめ、上層部は日清戦争に参加した強者ぞろいのようにも見えます。

この第5連隊の上層部は有能であり、このままでは薩長勢に動かされて、ロシア戦で壊滅させられてしまうと考えたのではないでしょうか。

少なくとも装備を整え、兵士のレベルを上げて戦いたい、と思っていたはずです。

また、東北ではロシアと交易があって、できれば戦いたくないという気持ちもあったのではないでしょうか。

 

神成文吉中尉は、陸軍士官学校を出ていない自分が優遇された理由をどこかで知ったのかもしれません。

また、天候次第での出発であったのかもしれません。すなわち天候が急変するときが選ばれた・・・・・

戊辰戦争で分断され、植民地のような状態の東北で、ようやく原敬が政治の舞台に登場していて、1902年に選挙がありました。

岩手の犠牲者が多かったのは偶然でしょうか。

 

生き残って銅像にもなった後藤伍長の手紙が展示されていました。

 指のない手で書いたようですが、整って美しい字に感じられます。いわゆるエリートでない兵士でもこれだけ書けたんですね。

日露戦争は、ロシアの入り口のあたりで辛うじて勝ち、深く入り込むことはなかったようです。

雪中行軍の犠牲のおかげであった、といえないでしょうか。