世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

春の訪れ

2014年03月17日 | 人生
春の足音とともに、心も体も浮き足立つ。


自然は正直だ。


どんななに冬が寒かろうと、春は必ずやってきて

木々にはふっくらとした芽が宿り出す。


だが、中には芽ををつけず立ち枯れていく木もある。

多くの人々がそれに気づくことはないだろう。



人間界もそうだ。


華やかさや脚光を浴びたものには光が当たるが、

その影で沈んでいく人がいることに気づく人は少ない。


目の前で沈みかけている人を放置することはできない。

だが多くのそうした人々は、

ひっそりと存在を隠して生きている。


あるいは存在そのものを消そうと試みる。


いつも思う。

どうしたらいいものかと。


ボクは精神科やカウンセラーの資格は持っていはいない。


が、なんとか支えになることはできるのではないか。

支えを必要としている人がいる。


中には背中をちょっと押してやれば動き出す人、走り出す人もいる。

本人のやりたいことがはっきりしている人はまだいい。


その夢に沿って助言を与えればいいからだ。


問題は、何をやりたいのかがわからない人だ。

好きなことはあるはずだ。


音楽、読書、ゲーム・・・・。

総じて室内で楽しむものが多い。

しかも一人で。


むしろこれは引きこもりを助長し孤立化を深める。



心を患う、体を患うとこの傾向は一層強くなる。


なんとか外へ引っ張り出したい。

太陽の下へ飛び出して欲しい。



それにはいい季節だ。


多くの人を救うことはできないかもしれない。

だけど、今目の前にいる人になんらかの力を貸すことはできるはずだ。



話を聴くだけでもいいだろう。

一緒に散歩するだけでもいいだろう。

飲める人なら一緒に飲む。


歌いたいなら一緒に歌おう。

叫びたいなら一緒に叫ぼう。



ボクも、そうしてもらえれば嬉しいから。


自分が嬉しいと思うことを人にもしてあげよう。


弱い人の力になろう。

なぜなら、ボクも弱いから。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【余談】


「お昼寝カフェ」が好評だ。




だけど、まだ実際の利用客は少ない。

きっと慣れてないせいもあるのだろう。


マッサージ系だって、そうだった。

最初は、按摩・ハリ・灸といった治療が主だった。

それも盲目の人が行っていた。


ところがどうだ。

今は町のいたるところにある。


整骨院など実際治療を受ける人も多いが、

エステを始め、癒しを求めて訪れる人も増えている。



ボクもご近所のよしみで、特別肩コリや腰の痛みもないのに

500円という値段おやすさも手伝って、時々出かける。


半分は眠りに行くのだが。


東南アジアに行けば、フットマーっサージに週2~3回通う。

$10も払えば、2時間タップリ揉んでくれる。


それ以上のサービスは、もちろん別料金だが。

(あまり深く考えないで)



そうした自分の体験談から、「お昼寝カフェ」も誕生した。



さらにボクは思う。

添い寝してくれたらいいのになー、と。

寒い日は特にそう思う。


誰だってそうじゃないのかなー、と思う。



だから、


「添い寝無料サービス」 を謳ったら、総ブーイングを喰らった。

誰も来ない、と言われた。


女性が添い寝してくれたら、男性客はいっぱい来るよ、といったら

添い寝じゃすまないでしょ、とこれまた女性陣から総スカン。


良いアイデアだと思ったんだけどナー。



というわけで、めげずにブーイング覚悟で

しつこく「無料添い寝サービス」と掲げよう。



誰か女性で添い寝してくれれば、料金は払いますよ。

もちろん、純粋に「添い寝」だけ!(そのつもり)
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底力

2014年03月16日 | 人生
ここぞという時の踏ん張り。

じっと耐えて、不断(普段)の努力を惜しまない。


これこそがフリートークの底力というインターナショナル・パーティが昨夜開かれた。




まさにインターナショナル・カフェの面目躍如といったところだ。





アメリカ人の新しいマネージャーに変わって早5ヶ月。


新生フリートークはその力をじわじわと発揮し始めた。



集まったゲストの半数以上が外国人。



          溢れんばかりのテラス

ここはどこなんだと思うばかりの熱気ムンムンのパーティ会場だった。


バースデイの主賓がイギリス人ということもあって、

特に欧米豪系の男性が多く、

ビールの出る量が半端なかった。


飛び交う言葉は英語ばかり。


日本、特に熊本でもこうした経験ができることはこの上なく幸せだ。


すべての料理をこなしたマネージャーにも脱帽だ。


     なんと、ウサギのシチュー(Rabbit Stew ) ウマイ!


まさに、アメリカン。


感謝の気持ちでいっぱいだ。(TдT) アリガトウ



継続は力。

持続は技。

結束は心なり。



この力と技と心という三位一体が成されたとき、

志は遂げられる。




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幸せな人の考え方(思考回路)と習慣(行動パターン)

2014年03月14日 | 人生
幸せはお金やモノといった形ではなくその人の考え方からくる。

その考え方は、その人の日常の行動パターンが決める。


そこで、幸せの秘訣をその考え方と、それを生む行動から考察してみた。



まず、

幸せな人は、自分が幸せだと思って疑わない。


地球は自分のために回っているとまでは思わないが、

全ての出来事は自分のために起きるものだと考える。


だから、どんなことが起きても、不利益を被ることがないと思っている。

一般的に不幸と思われることにも光明を見出す。


つまり、何が起きても楽しいし、なんといってもあらゆることを楽しむ術を知っている。


たとえ落ち込んでも、立ち直りが早い。



すべてのことに感謝する気持ちを持っている。

何か成し遂げても、お陰様という心を失わない。




傲慢であってはいけない、

謙虚で素直でなければならない。


人の話を否定せずによく聞き、受け入れる度量を持っている。

人を許す器量がある。



自信と勇気を兼ね備えている。

教養と愛に満ちている。


ユーモアを解し、常に笑顔を絶やさない。


優しさと厳しさを併せ持つ。


自分に厳しいが、時に甘い。



人を幸せにするのために生まれてきたと思っている。

人を幸せにするには、自分が不幸であってはならない。

何より自分が好きである


自己中だが、他人を思いやる気持ちを持っている。




基本的に、ポジティブであり、

パッシブでアクティブである。



モノ(ごと)に執着しないけど諦めない。

方法にこだわらず、目標を諦めない。

手段を選ばず、目標を失わない。


ブレない信念を持っている。

頑固だが柔軟である。


急がなけど、素早い。



時間とお金の使い方が上手だ。


惜しまないが、無駄をしない。

無茶はするが、無理をしない。


済んだことを引きづらない。


歴史に学ぶ心得を持っている。

勉学を怠らない。


常に未来志向である。

今この瞬間を大切に思う。


人の縁を大切にする。


理想と現実を区別しない。

つまり、常に理想を掲げ、追いかけることで現実を生きている。


愚痴をこぼさない。

悪口を言わない。



上記のことを全うすることで、幸運体質になっている。
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やりたい事はやれ!行きたいところには行け!

2014年03月13日 | 人生
”You only live once.”

「人生は一度きり!」



使い古された言葉だが、

それを生かしきっている人は少ない。


後悔のない人生なんてあり得ないかもしれないが、

後悔を極力減らすことはできる。


それには、やりたいと思ったことは全部やり、

行きたいところには全部行けばいいのだ。



大概の人は、

やりたいけれどやれないよね、

行きたいけれど行けないよね、で諦めてしまう。


なぜ努力もせずに端から諦めモードなのか。



もどきはあっても、本当に世界一周した人はそんなにはいないだろう。

しかも家族4人でとなると、まずいない。


それでも、まだまだ行きたいところはいっぱいある。

世界中に自分の足あと(foot print)をつけようと考えている。


しかも、その跡に花を咲かせようと。


これがボクの世界遺産と言わんばかりに。

つまり、Personal World Heritage(PWH)だ。




ここ1~2年、どうしても行ってみたいと思ってる国がある。

ミャンマーだ。

1、2度行きかけたがタイミングが合わず断念した。


今回が3度目の挑戦だ。


30日からベトナムに行く。

今回は珍しくホーチミンから入ることにした。


今、その足でミャンマーに行くべく検討中だ。

もちろん、ホーチミンに行ってから決めるのだが。


「足の向くまま、気の向くまま、行き当たりバッ旅」 がボクの旅のスタイル。

予定は変わるのが当たり前。



今回ホーチミンに行くのは、

納豆オジさんに会いにいくのだ。


先日納豆を作っているというベトナム人の方からメールが来た。

だから早速会いに行くことにした。


そこからまた突破口が開けるだろう。


もちろん、ハノイにも行く。

物件を探しに。


「感じたら、即、動け(Feel once, Move soon)」



プノンペン(カンボジア)にも行かなければならないのだが、

こちらは陸路から入るのも面白いかと。


こうして旅のプランを練っている時が一番楽しい。


時間と、お金と体の許す限り、ボクは旅を続ける。


ていううか、

そのために、金と時間は作るもの、

体力は鍛えるものと思っているが。


だからストイックにこうして生きていられるのだ。


いやー、旅って、ホントーにいいもんですよネ。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ベトナム、同行者を募っています。


かじえいせいと一緒に、ベトナムを旅してみませんか。


興味のある方はご一報下さい。
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ギフトとエンジェル

2014年03月08日 | 人生
人生の不思議さをしみじみと感じる。


振り返ってみると、

どんなに苦しい時にも救いの手がが差し伸べられていたことに気づく。


いや、苦しければ苦しい時ほどそれがあったのだ。


ボクは、自分に与えられた才能をギフトと呼び、

救いの手をエンジェルと呼んでいる。


ギフトもエンジェルもなかなか自分では気づきにくいものだ。


人から言われたり、あとから振り返った時に、

あ〜あれがエンジェルだったのか、自分へのギフトなのかと分かることが多い。



こういう逸話がある。

ある信心深い人の家が大雨で洪水になりそうだった。


その人は絶対に神様が守ってくれ、いざとなったら救ってくれると信じて疑わなかった。


近所の人が訪れ、一緒に避難するようにいった。

その人は、神が守ってくれているから大丈夫だと言って、断った。


家が水で浸かり始めた時警護団の人が救いに来た。


その時も断った。


半分ほど家が浸かったとき、ゴムボートで救いに来てくれた。

その時も断った。


ついに屋根に上がらなければならなくなった。

ヘリコプターで救助にやってきた。

それでも断った。


そしてとうとう屋根の上まで水が来て、その人は溺れかけながら言った。


どうして神は私を助けてくれないのか。

そしたら神の声が聞こえた。

「4度も使いを送ったではないか」と。



そうしたものなのだ。

せっかくのエンジェルに気づかないで一生を終える。



あなたの与えられたギフト(才能)とエンジェル(救いの手)を見逃さないで。



【追記】


自分にはどんなギフトがあり、

自分はどれだけの人のエンジェルになれるのか。
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頭心体

2014年03月06日 | 人生
等身大(life-sized)という言葉がある。

as large as life.


自分自身の大きさを指す。


よく、身の丈にあった(It matches stature,height)ことをしろなどと言われるが


では大きい人ほど大きいことができるのか。

そうではないだろう。


身の丈とは、一般にその人の能力や器量、経済力などを指す。

だから、能力や器量、経済力を伸ばせはそれだけ大きなことができることになる。



志が大きい人ほど大きいことをすればいい。


夢はでっかいほどいい、とも言われる。


描いた夢の大きさの人生しか送れないからだ。


サラリーマンでいいと思うなら、サラリーマンに

宇宙飛行士になりたいと思えば、それなりの夢が叶う。



人はなりたいと思ったサイズの自分にしかなれない。


身の丈は自分で決めればいい。



語呂合わせで言うと、

「頭心体」を鍛えなさいということになる。


頭とは脳のことなので

「脳心体(brain,heart,body)」と言いかえてもいいだろう。


これらを鍛えるとは、柔らかくすることだ。

柔軟にすることだ。


脳を柔くすれば、心も広くなる。

心を柔らかくすれば器量が大きくなる。


体が柔らかいことは健康につながる。


頑なな心では脳も体も固くなる。



人生はその人の脳心体の柔らかさで決まるとも言えるだろう。



柔軟力は応用力、適応力につながる。


柔軟力は、素直さで決まる。


素直さとは、

人の意見を聞くことだ。


自然の摂理に従うことだ。


従うという言葉が嫌なら、受け入れることだ。


人は、自分の脳心体(の柔らかさ)に見合った人生しか送れない。




【蛇足】


「歳相応」という言葉がある。


年齢いふさわしいという意味だ。


つまり、

10代は学生らしく振る舞い、

20代になれば社会人らしく振る舞うこと。


年相当の行動を取ること。



では、30代は、40代は、50代は、60代は、70代は、


それ以上は・・・?

もう若くないんだから、ってどういうこと?


いつからが若くないの?


誰が決めるの?


「もう年だから」

「もう遅すぎる」

などと自分で決めつける。

自分で枠を設けちゃう。

自分を縛る。



「もっと若いうちにやっとけばよかった」って?


もはや、人生を諦めた?。

生きることに対して投げやりになってる?。




いつやる?

今でしょ!


誰がやる?

あんたでしょ!


思い立ったが吉日!なんです。

No time like the present;

Make hay while the sun shines;



Out of box!


チャレンジ精神と好奇心を失ったとき、

人は老いる。



65歳、

まだまだ、これからでしょ!
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死んで何を残す?

2014年03月03日 | 人生
もし今死んだら、どうなるか?


死んだあと、家人に家や部屋を整理されたとき

見られたら困る(恥ずかしい)ものはあるか。


エロビデオ(DVD)などは始末しておいたほうがいいかも。

エッ、お父さんはこんなの見てたんだー、なんて軽蔑されかねない。


コスプレの趣味があったとか、

あまり人に言えないことは処分していたほうがいいだろう。



ただ、ボクのオヤジが死んだ時、家を整理していて

エロ本が出てきたときは思わずニヤッとしたものだ。

そこに一万円札が挟んであって、二度ニヤッとした。


ボクもご多分に漏れずエロビデオの一つや二つ(いやもっと)は持っている。




ボクはかねがね、今日死ぬと思って生きている。

だから、目覚めた時は、今日は最後の日だと心に決める。


だからといって毎日が師走のように忙(せわ)しなく動くわけではない。

悔いのないように淡々と生きている。



このブログもボクが死んだあとはどうなるのか。

膨大な量だ。


どうにかまとめて一冊の本にしたい。

そのつもりだが、いつのことやら。



facebookが今までの「故人のアカウントに関する方針」を変更し、

新たな機能を追加したことを発表した。




Facebook set to show your page even after you die.


Facebookは2007年まで、ユーザーが死亡した場合は、

報告があった日から30日間アカウントを凍結した後、

プライバシー保護のためアカウントを削除していた。


しかし、Facebookは「追悼アカウント」を設立し、

遺族や友人は故人に追悼メッセージを送ったりタイムラインで思い出をシェアできるように設定を変更した。



これは嬉しいニュースだ。

少なくてもボクにとっては。


ブログ共々、死後日記を読まれるようなものだ。


ボクが本にまとめなくても、

子供たちがそうしてくれれば本望である。


それで彼らに印税が入るようにれば、最高の遺産となるだろう。

そうなればの話だが。


いや、そうなるよううにするつもりで書いている。


生き恥は晒しっぱなしだが、

死んでからの恥はかき捨てで良い。


むしろ恥のほうが絵になりやすいのは、故人が教えてくれている。


美談より、

その裏での醜聞の方がネタになりやすいのは衆目の知るところだろう。


美談があればの話だが・・・・・・。


と思って、遅まきながら美談作りに勤しむ今日この頃である。
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書くことが浮かばないことを書く

2014年02月27日 | 人生
一年に数回、筆が進まない時がある。


全般的にモチベーションが下がっている。

待ちの状態が続いていることも影響しているのだろうか。


書いても身が入らないから、説得力に欠ける。


原稿用紙なら書いては捨て書いては捨てするのだろうが、

PCを使っているので保存したままのデータが残る。


古いデータを開いてみたが、どうもしっくりこない。



文筆家が、筆舌に尽くしがたいという表現を使うことはタブーだ。


何らかの文章表現で伝えなければならない。


そうこうしているうちに

時間は無情に過ぎていく。


何をやっても気乗りしない。


集中力に欠ける。


こういう日もあっていいか。

年がら年中気を張り詰めて生きることはできない。


乱筆乱文ご容赦願いたい。
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しぶとく喰らいつく

2014年02月24日 | 人生
良くしたもので

なんでも極めようとすればそれなりの効果が出るものだ。


「看板効果」というものもある。


つまり、「○○しますよー」と叫べば、

人が寄ってくるというやつだ。


先日TVで紹介された「お昼寝カフェ」もそうだった。

表に小さな看板を貼ったら取材が来た。


ネット時代はクチコミの時代でもある。

ネットに上げれば誰かが見てクチコミで広がる。


広告料はいらない。


「○○しますよー」と叫べばいいだけだ。



ボクのベトナムにおける「納豆レストラン構想」はそれなりの反響を呼んでいる。


そして、とうとうベトナムでベトナム人がつくる納豆が出現した。






少し前、ベトナムに住む日本人で趣味で納豆を作っている人がいることは紹介したが、

この時も感動した。


が、今回はもっと感動の幅が大きい。

しかもこの方は、納豆を作ってなんと販売しているという。

商業ベースに乗せているのだ。


色々とアドバイスも頂いた。



こうして狼煙(のろし)をあげ、

貫き続けると必ずなんらかの反応がある。



一方、何かをしたいと思っても、

人に語らず、黙って黙々とやろうとする人がいる。


それを否定するものではない。


だが、たとえそれが趣味の世界でも仲間を募ったほうが面白いのではないか。


ひとり楽しむと書く独楽(コマ)でさえも、

仲間がいたほうが楽しいだろう。


ましてやビジネスとなれば、

当然顧客が必要になるわけだし、

協力者やスタッフが必要になる。



ならば、大声を上げて叫んでみてはどうだろうか。

ネット上で。


このブログの効果も、お陰さまで絶大なものがある。

善し悪しは別にしてだが。


だが悪影響を差し引いても余りある。




もうひとつ、

やり始めたら徹底的にやること。

徹底的とは、命をかけてやるくらいの覚悟がいるということ。


そしてやり続けること。

途中でやめたらなんにもならない。


ビジネスだったら、大体一年はやる必要がある。

なぜなら、シーズンで流れが変わるからだ。


一年、4シーズンこなしてみて初めて分かることが沢山ある。

そして、できれば3年は続けなければならない。


石の上にも3年(perseverance prevails)という。


ところが、多くの人が3ヶ月、半年ほどで見切りをつけようとする。

起業やお店は一年持てば良い方などと囁かれる昨今。


一旦やると決めたからには、粘り強くやり続けることだ。


「すべてをやり尽くしたと思っても、

まだ半分」、という言葉もある。


捨てる神あれば拾う神あもいる。


諦めるな。

諦めなければなんとかなる。

いや、必ず成就する。


全ては途上にあり。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

話は変わるが、

ボクは今日内視鏡の検査を受ける。


前回、小さいポリープがあったが切るほどでもないということで放置した。

今回は、医師の判断で決めるそうだ。


多分、切れば一晩入院ということになるだろう。

そうなればまた、ぐっすり眠れる。

綺麗な看護婦さん、いるかな?


結果は、また明日。

生きてれば、だが。
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種の起源 スピーシーズ

2014年02月15日 | 人生
生物の必要最低限のノルマは、

種の存続にある。


つまり、子孫を残すことだ。


ご存知、On the Origin of Species"「種の起源」は、


イギリスのチャールズ・ダーウィンにより1859年11月24日(安政6年11月1日)に出版された進化論についての著作である。


彼は自然選択によって、生物は常に環境に適応するように変化し、

生存競争、適者生存などのフレーズを用いて

種が分岐して多様な種が生じると主張した。


彼の言う自然選択とは、

「(1)生物がもつ性質は個体間に違いがあり、

(2)その一部は親から子に伝えられ、

(3)環境収容力が繁殖力よりも小さいため生まれた子の一部しか生存・繁殖できない。


性質の違いに応じて次世代に子を残す平均的能力に差が生じるので、

有利な個体が持つ性質が維持・拡散するというメカニズム」 である。


つまり、

生物は自然淘汰によって 適者が生存し、それが蓄積されて進化すると唱えたものだ。


彼の進化論には賛否が分かれるが、

この地球上に生き残るのは、

強いものではなく、変化に対応(適応)できるものであるということになる。


つまり、竹のように靭(しな)やかで強(したた)かさが要求されるのだ。


現代社会のように変化が激しい時代においては、

サバイバル力はこの変化への適応力にかかっているといえよう。



人類の使命としては、

まず子孫を残すことだろう。


その点においては、まずまず合格点だ。

そして彼らにもまた、その種を残すことを教えた。


現代社会は、それすらも不可能にする恐怖を含んでいる。




鮭やカマキリ、またはカゲロウのように

交尾のあとで死んでしまう生き物がいる。



植物や一部の魚類、そして一部の有袋類の雄にとって

交尾は非常にストレスが多い死に物狂いの行為なので、

文字通り「死」に至ってしまうという。


雌が相手を選ばずに不特定多数と交尾しようとすることが、

この「自殺的」行為を後押ししているのだというから驚きだ。


雄の「集団死」が起きるのは、

雌から交尾の誘いがある年に1回の短い繁殖期に、

自分の精子を確実に成功に導くための並々ならぬ努力のせいだということに至っては恐れ入ってしまう。



「生殖には常に代償が伴う。

生殖は多大なエネルギーが必要な行動だ」という説には納得。


これら一部の有袋類の雄は、

交尾に没頭しすぎるために男性ホルモンのテストステロンのレベルが高くなり、

これが引き金となってストレスホルモンがねずみ算的に増加する「カスケード効果」が発生する。


このストレスホルモンの急激な増加により、

体内組織が破壊され、免疫系が崩壊するという。



また、「一度に多数の雌と12~14時間も交尾を行い、競争のように交尾するために筋力と体内組織の限りを尽くし、

持てるエネルギーのすべてを使い切る。

雄たちはこうした究極の方法で交尾して、自らの命を絶つのだ」という。


なんという涙ぐましい行為だろうか。



もし人間もこうであるなら、人類の歴史はまた違ったものになっていただろう。


腹上死を良しとするものにとっては、

それもまた有りかなとも思う。


ただ、一回ポッキリは止めてほしい、のが本音か?



「生殖には常に代償が伴う」というくだりは、

人間にも当てはまるから笑ってしまう。




なんの話をしているのかわからなくなった。


そう、子孫を残すという役割を果たし、

子供たちが自立してしまった今、自分に残された道は何か、ということだった。



それは、


恩返しに尽きる。


これだけ人としての幸せを頂いたのだから、

あとはその恩をお返しするのが筋だろう。


そして忘れてならないのは、

償い。


「愛を償えば別れになる」

これはテレサ・テンの♪つぐない♪の歌詞だ。


「だけど、忘れないでね」と何を身勝手な。


今はこの気持ち、わかる。



あちこちで子孫を残し、

償いの旅に出るとするか。


そして交尾の果てに、文字通り果てる。


最後まで馬鹿な人生を演じてしまうのか。

救いようのない、人生。


ならば懺悔の旅がいいのかも。


どれもこれも怪しさが伴うのは、なぜ?


たかが人生、されど人生。


かくして結論はまた持ち越しとなった。



【蛇足】

次のカラオケは、

♪愛はかげろう♪ でも歌うか。
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生き抜く力

2014年02月14日 | 人生
生きる力ではない。


我々は生きているのではなく、生かされている、と思っている。


この世に生を受けたのも、

それぞれひとりひとりの役割があってのことなのだ。


五体満足であれば最高だが、産まれながらに障害や奇形を伴う人もいる。

それはそれで意味があるのかもしれない。

若くして天に召される人もあれば、天寿を全うする人もいる。


生まれてくるものは親を選べないが、それぞれの親から生まれるにも意味があってのことだろう。



ボクは充分生きた。

二度の結婚と三人の子供、三人の孫を持ち、子供たちは大人になりそれぞれが自立した。


父親としては失格かもしれないが、

曲がりなりにも最低限の責任は果たせたのかな、と思う。

そう思いたい。



ただ、幸か不幸かボクはまだ生きている。

しかも元気だ、今の所。


少なくとも生があるうちは、その役割を全うしなければならない。


ではその役割とは何か。

ボクがこの世に生を受けた意味はなんなのか。


何のために生まれてきたのか。


誰しもがぶつかる大きな課題だ。



歴史に名を残す人は、あたかもその史実に基づいて生まれてきたかのように見える。

しかし本当にそうなのか。


特に医学や芸術の世界で名を残した人物は、その道のために生まれてきたのかもしれない。

政治や宗教の面で活躍(?)した人の中には、争いに終始した人も多かろう。


文学は人に示唆を与えるが、当の本人は苦しみ抜いた人が少なからずいる。

太宰や川端、ヘミングウェイはどうだったのか。


作家が為政を行ってはいけない。

最近では田中、石原、猪瀬等がそれを証明している。


使命を履き違えると不幸な結末を迎えることにもなりかねない。



「餅は餅屋」という言葉がある。

every man knows his own business best;

one should go to specialists for the best results


A specialist has his own strength.

Every man to his trade.




だから、自分はどうだ。


ボクは、地球上に人間として生を受け

日本人で男として生まれ、

五体満足で熊本に育った。



これにはどんな意味があるのか。

あるいはさして意味はないのか。


あると思う。

ある意味、選ばれし生の受け方なのではないのか。


なぜなら日本人でよかった、

中でも、熊本人でよかった、

男でよかったと思っているから。


次に生まれるとするなら、

人間になるという保証はどこにもない。


ゴキブリかもしれない。

ドブネズミかもしれない。

あるいは、ムカデや蠍かもしれない。

もしかして、目に見えない細菌かもしれない。


人間として生まれても、

アフリカのコンゴ人で女になっているかもしれない。


別にそれが悪いといっているのではない。



ただ、ボクは日本人で熊本人で男でよかったと心から思っている。

誇りに思っている。

それだけでも幸せだと思っている。



では、その役割はなんなのか。

残り少ない生涯に課せられた使命とは?



ここでテレビの取材が入った。

お昼寝カフェの取材だ。


t
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精一杯生きてきて

2014年02月07日 | 人生
遊ぶことでいっぱいだった10代の頃。


自分のことでいっぱいだった20代。


仕事のことでいっぱいだった30代。


家族のことでいっぱいだった40代。


世の中のことでいっぱいだった50代。


人のことでいっぱいだった60過ぎ。



苦しみぬいた一生。


自由を追い求めてきた人生。


愛することの意味がわかったときに、棺桶の中にいた。


後悔のない人生を生きよう。





いい歳して!

いつまで子供みたいなこと言ってんのよ!

いい加減目を覚ましたら?


40歳は40歳らしく。

50なら50歳らしく。

60過ぎたらおじいさん!?らしく。


年相応に生きなさい! だって!?



年相応って、何?

らしくない!(Not like you!)ってどういうこと?


年齢? 関係ないじゃん。




もう歳だから、って言わせたいの?


出来ない理由を歳のせいにした時

人は老いるんだよ。



いくつになっても、

あるのは自分らしさだけ。



でも、自分らしく生きるって難しい。


一番難しいんじゃない?

だって、自分らしさを知らなきゃいけないんだから。


自分って何?ってところから始めなきゃならない。


だから旅に出るのかな?


自分探しの旅なんて言って、気取っちゃって。




いつだって迷ってた。


愛が深すぎて、

愛が広すぎて、

愛に溺れて、

愛に苦しんで・・・・・・。



わかったことがある。

自分は弱いんだ、っていうこと。

自分ひとりでは何もできないんだ、ってこと。


だから、いつも誰かを探してる。

手探りで。

そしていつも迷い込む。



いい歳して。

アッ、つい言っちゃった!






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素敵な言葉をいくつか。



出来ない理由を忙しさのせいにした時

心がなくなる。


出来ない理由を誰かのせいにした時

自分が分からなくなる。


何かのせいにした言い訳が

全部自分に返ってくる。


出来ない理由を自分のせいにした時

出来る自分が返ってくる。




つまずくのは、歩いていたから。

裏切られるのは、信じていたから。

失恋するのは、愛していたから。

辛い事があるのは、ずっと幸せだったから。



寂しいのは優しさを知ったから。

恋しいのは温もりを知ったから。


他の人を好きになれないのは、

あなたを知ってしまったから。


だから

I love you.
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ハッピーシニアとビンボーシニア

2014年02月04日 | 人生
人生は歳をとってからが本当の勝負なのだ。


50歳代まではほんの助走に過ぎない。


若いうちいくら羽振りが良くても

60歳過ぎて貧乏になるのは最悪だ。


体が丈夫なうちはまだいい。

仕事ができるうちはまだいい。


生活保護に頼らなければならない状態になると

精神的に萎えてくる。


生産性のある暮らしをしたい。

社会の一員でありたい。


社会的に意義のあることをしていたい。



。これらの要素を満たした時、

人は幸せを感じるのではないだろうか。



もうひとつの要素は、

人だ。


パートナーがいるかどうか。

だが、これは諸刃の刃となりやすい。


なぜなら、パートナーは柵(しがらみ)にもなるからだ。


夫婦も、同じ方向に向かっているときは良い。

子育て時代は、ほぼ目指す方向は同じだ。


子供という共通事項が存在するから。


だが、子供がいなかったり、

子供が成長して親の素を離れた時、

その共通の方向性を失うことになる。


ひところ熟年離婚という言葉が持て囃された時期があった。

これは、主に自我に目覚めた妻が分からの三行半だった。


だが、今、離婚という手段を取らなくても、

別居、それも家庭内別居、

あるいは、お互い好き勝手やりましょうと、干渉しない夫婦が増えている。


それはそれでいい関係なのかもしれない。


愛がないわけでもない。

愛の形が変わっただけなのかもしれない。


いずれにせよ、残り少ない人生を楽しむ術を知ったのだ。


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ボクのオヤジは晩年、自分の妻を忌み嫌っていた。

鬱陶しく思っていたきらいがある。


言葉な端々にそれは伺うことができた。

だからと言って離婚に踏み切る勇気はない。


むしろ女房に頼り切った生活を営んでいた。

ある意味、女房の奴隷と化していたのかもしれない。


幸いオヤジは自由業(税理士)であったからして死ぬまで現役を貫き通した。

だが、反面酒に溺れる時もあった。

ある日突然脳梗塞に倒れ急逝した。

享年76歳であった。


元気だっただけにもう少し長生きしてもらいたかったが、

そこそこ人生を全うできる歳でもあっただろう。


ボクもあわよくばそれくらいで死にたいものだ。


ただ、オヤジを想うに、オヤジは幸せだったのだろうか、と。

オヤジも旅が好きだった。

とりわけ山が好きだった。


もっともっと行きたいところもあっただろう、

登りたい山もあっただろう。


だが、女房という柵からは抜け出せなかったのかもしれない。

とはいえ、概ね幸せな人生だったと思う。


自分の女房と、息子二人に看取られて苦しむことなく死んでいったのだから。

死に方としては理想的だったと思う。


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一方自分はどうだろうか。


女房とともに共に歩む方向性を見失っていった。

そして、ひょんなことをきっかけにボクは自由を得た。

女房殿が反旗を翻したのだ。


傷が萎えた頃、自分が失ったものより得たものへの感謝の念がフツフツと湧き上がっていた。


それこそが自由だった。

孤独という副産物もついてきたが。


だが幸か不幸か、ボクは依存型ではなく自立型人間だった。


かといって引きももることなく思いっきり世界に飛び出していった。

もしも夫婦円満であったなら、

今のボクの行動はありえない。


夫婦解消と引換に、ボクはかけがえのない自由を得たのだ。

多くの人が欲してもなかなか手に入れることのできない、「自由」。


世界の歴史は自由を手に入れるためにどれだけ多くの血を流してきただろうか。

今もそれは至るところで続いている。



人が望む究極のモノが二つある。


そのひとつが「自由」である。


そしてもうひとつは、「愛」だ。


ところが良くしたもので、この二つを同時に捕まえることはなかなかできない。


なぜなら、この二つは相反する、矛盾するものだからだ。


自由は愛を開放しようとするが、

愛は自由を縛る。


そこに人間の葛藤が生まれる。

愛は留め、自由は放つ。


だからボクは、愛を求めつつ、自由を享受する。

自己矛盾を感じながら。


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さて表題に帰って結論に至ろう。


ハッピーシニアの生き方は、

自由と愛を同時に手に入れることだ。


不可能と思えることを可能にしたとき、至福の時がやって来る。

だから性懲りもなく不可能を追い求める。

多分それは青い鳥なのかもしれない。


分かっていても追い求めることが自由の証なのだ。


お金はその手段でしかない。


お金そのものを追い求めることこそ不幸への道をたどることを意味する。

お金は得るものではない。

与えるために授かるものなのだ。


そうして生きることこそ

ハッピーエンディングへの道だと信じている。





【補足】


ハッピーシニアーになるための三要素。


① お金(経済性)。

  お金持ちになる必要はない。(勘ちがい組が多い)

  わずかでも、むしろ使い方が問題。


② 身体(心身の健康)。

  言うまでもなく心の安定が重要。


③ 居場所(生産的社会的立場)

  居るべきところ、成すべきことがあって初めて心の充実感が得られる。



【付録】


If you want a happy ending, that depends, of course, on where you stop your story.

(ハッピーエンドかどうかは、物語をどこで終わらせるかによって決まる)

by Orson Wells(オーソン・ウェルズ)


「悲劇」は必ずあるし、

また、自分も「悲劇」だけを見てしまうこともある。


それは仕方ない。


でも自分の物語を「悲劇」では終わらせない。


・・・そう思えれば、自分に残るのはいつも「ハッピーエンド」、


というのも夢ではなくなるような気がする。
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断らない主義

2014年02月03日 | 人生
極めてイレギュラーな日を過ごしている。

本来月曜日は休息日に当てている。


日曜日の夜阿蘇の別荘に帰り、

独り自然の中に身を起きマッタリと過ごすのだ。


だから、日曜日の夜はアルコールは飲まない。

車で帰るからだ。

飲みたくても飲めない。



しかし、どうしても日曜日の夜飲まなければならないことがある。

大概ボクのビジネスは夜作られるからだ。


それもお酒が入る。


そういう時は、一階のラブトリップに泊まる。

ここは都下の中のゲストハウス。


実は先ほど起きた。

午後1時。


もっと寝ていられたが、流石に起きた。


泊まりのゲストの中には午後2時まで寝ていた人もあるくらいだから、

静かでグッスリ眠れるのが嬉しい。


貴重な休息日を無駄にはできない。

一週間の英気を養わなければならないのだ。


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だから、日曜日のお誘いは原則的に受けないことにしている。

たとえデイトのお誘いでも。


だが、頼まれごとは基本一切断らないようにしていることは以前にも述べた。


どんな無理でも即断はしない。

ここでの即断は、その場で断ることを意味する。



ところが、中にはこちらの提案をいとも簡単に即決断る人がいる。

信じられない。


おい、少しは検討しろよ、と言いたくなる。


もちろん相手の為を思っての提案である。

いや、ボク(私)にはとても無理です、と謙遜しながら。


こうして人はチャンスを逃していく。

なんとももったいない人だ。




こういう記事をメルマガで読んだ。



ビジネスでも人生でも、できないことはやってこない
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大事な仕事を「この人できないかも?」

と思うような人に頼むはずがありません。


頼みごとをするのは

「あなたなら絶対できる」と思っているからです。


なぜなら、相手はできる、やってくれるという期待を込めて頼んでいるからだ。

それをにべもなく即答で断るのはなんとも切ない。


ろころが、即答遮断する人間がやたらと多い。”



とそのメルマガにはある。



そのとおり。


できないと思うことも、やってみれば案外できちゃう場合が多い。

自分を過小評価している。


もっと自信を持ちなさい。


もっと勇気を出しなさい。


もっとチャレンジ精神を持とう。



人からの頼みごとは「神様からのギフト」なのだ。


ということで、昨夜は神様といっぱいやって寝た。



さて、今日は、街中で所用を済ませてから

阿蘇の別荘に帰るとするか。




【追記】

英語で、「私には才能がある」ということを、


"I have a gift"

と言っていた。


ギフトは遠慮なく受け取っておくものだ。

もちろん、お返しも忘れないように。




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継続こそ力なり

2014年01月24日 | 人生
始めることに精一杯で、

そのあとのことを考えない。


始めることが最大の目標となってしまう。

つまり燃え尽き症候群だ。


「東大までの人と東大からの人」という本がある。

つまり東大に入ったもののそのまま燃え尽きてしまうケースと

そこから伸びる人の違いを書いた本だ。


田中將大投手のヤンキース入りが7年総額161億円という破格年俸で決まった。


甲子園の決勝ででハンカチ王子と言われた斎藤投手に敗れるものの

早稲田大学、日本ハムと進んだ斎藤投手との落差がはっきりした。


田中は甲子園で負けたことで発奮し、

斎藤はあそこで燃え尽きてしまったのか。


人生は下駄を履くまで、

いや、棺桶に脚を突っ込むまでわからない。



だから、死ぬまで諦めてはいけないのだ。

死ぬまで勝負は続いてるのだ。


生きる、生き抜くという覇気を無くしてはいけない。


死ぬまで成長を続けなければならない。

人生には3つの坂があると言われる。


上り坂と下り坂。

そして、まさかだ。


山あり谷ありが人生の常だが、

下ってもまた昇ることを忘れてはいけない。


そして、常にまさかに備えることも大切だ。


生きているうちは、命は継続している。

ならば、挑戦も継続して然るべきではないか。


使い古された言葉だが、

継続こそが力である。



イチローなどの野手と違って、

松坂に見られるように投手の寿命は短い。


田中の長い活躍に期待したい。
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