子育てに奮闘しているお母さま方がボクの周りに多い。
シングルマザーであろうとなかろうと。
その涙ぐましい努力の姿は、
それぞれ形こそ違えど、
ボクの胸を打つ。
ボクの場合、
子育ては終わって今は自由を謳歌している。
いや、子育て中も
十分に自由を謳歌していた。
ところが、
自分を犠牲にしてとまでは言わないが、
なかなか大変そうである。
なぜなのか?
ボクの経験上、
2つのことが思いつく。
ボクには3人の子供がいる。
娘二人、息子一人。
上の娘と、
息子、下の娘との母親は違う。
もう3人とも成人し、
娘二人は家庭を持っている。
息子は未だ独身である。
それぞれ仕事を持ち、
健康で独立して生計を営んでいる。
立派に育ってくれた彼らを誇りに思い、
立派に育て上げてくれた二人の母親に感謝している。
これを幸せと呼ばず、何といえばいいのか。
Feels like I’m walking on air!
そんな中、
今思える2つのこととは、
① 子育てを楽しむこと
親の夢を追いながら
子供とともに一緒に歩むこと。
ボクは、
子供の学校を休ませでも旅に連れて行った。
(親の身勝手という人もいるが)
子供に対する最高の教育は
「家族旅行」であった。
小さいころ
「家族旅行」をどれだかしたかで
子供の資質は大いに変わる。
違った環境(言葉を含め)に順応するための柔軟性(適応力)と
いろんな価値観があることを知り、多様性がつく。
不便さを享受するための耐性(我慢力)がつく。
何とかしようとする工夫力(問題解決能力)がつく。
そして何より、
家族という共同体の中で一団となって解決しようとする
コミュニケーション能力が養われ、
結束が強まる(団結力、協調性)。
これは、
小遣いを渡され、
留守番を強いられ、
ゲームばかりをやっていても養われる能力ではない。
あるいは、
塾漬けになっていても同じである。
そのお金と時間を「家族旅行」に回したほうが、
長い目(一生)で見たときにもっと効果的である。
(ボクの親も「家族旅行」にたくさん連れて行ってくれた。
今そのことに感謝している)
親には親の夢がある。
子供が立派に成長してくれることも大きな夢ではあるだろうが、
一人の人間としてやりたいことを後回しにする必要はない。
子供の手が離れたらと待っているのは、
定年になったらというのと同じで、
その時はもう遅い、ということになりかねない。
子育てと同時進行で、自分の夢も叶えることだ。
大変大変が口癖になり、
自分を犠牲にし、
お金も時間も子育てだけにつぎ込むことは、
一見美徳にも思える(日本では特にそう)だろうが、
むしろ、子供に取っていはいい迷惑なはずだ。
それより、
「子育ては楽しかったよ」と言ってあげるほうが
子供は、「生まれてきてよかった」と思えるだろう。
② 子供のしたいことをさせる
たとえそれが親から見て間違っているとしても。
子供が自分の意志で、
なになにがしたいと言って来たら、
それがどんなに危険でも、悪いことでもやらせることだ。
(殺人と自殺以外は)
親が、
危ないよ、悪いことだよと言って聞かせるより、
子ども自身が体験してそれを自ら分かる方が
自主性と判断力がつく。
親が何から何まで選び、押しつけると反発するだけだ。
(その時は従順でも)
ボクが、
子供にナイフを持たせ、火遊びをさせたのは
自らその利便性と危険性を同時に知ってもらいたかったからだ。
子供に選ばせ、失敗させることから
体験上、判断力と責任感が生まれる。
親は、
大けがや取り返しのつかない失敗をしないように
じっと見守っていればいい。
手をかけずに、目をかけるという意味で。
さて、世は夏休み。
子供を部屋に残してばかりいないで、
親も仕事を休み、
「家族旅行」に出掛けよう!
【追記】
俗に「子育て」というが
飛んだ思い上がりではないか。
親も子と共に育つ。
いわゆる、「共育」。
もっと言うなら、
親は子供に育てられるのだ。
子が親の鏡なら、
親も子の鏡だ。
ボクも、子供から多くのことを学んだ。
今もそうだ。
だから、
子供に感謝。
生まれてきてくれてありがとう。
君たちを誇りに思い、
心から愛してるよ。