世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

円より縁

2014年02月05日 | 人間関係
今、世界同時株安が進行している。

中でも日本は突出している。

15、000円をあっさり切り、年末までの値上がりが吹っ飛んだ。


アベノミクスの脆弱さが露呈した形だ。

加えて、アメリカや新興国の景気減速が懸念されている。

とりわけ中国だ。


オバマは先日の所信方針演説で

「もはや中国は世界一の投資国ではなくなった

(China is no longer the place in the world to invest.)」と語った。



株安と同時に円高基調に潮目が変わった。


ボクは輸出入とも手がけるので、痛し痒しだが

海外に出かけるには円高の方が助かる。


韓国もウオン安が一転し、サムソンはじめ危機に陥っている。


ただ日本の企業は、空前の利益を出している。

企業内留保は増えても、世間にその恩恵が及びにくい仕組みになっている。


投資家も企業も消費税が上がる4月以降を睨んでいるからだ。


日本経済のみならず、世界経済はどうなるのか。

予断は許さない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


さて、話は変わるが、

いうまでもなく、お金は大切である。


だけど、

お金がなければ何もできない、のだろうか。


否。


お金よりもっと大切なものがある。

それは人との縁。


縁を大切にしない人は、

いくらお金があっても何かを成し遂げることは困難だろう。


なぜなら、

人の心はお金では買えないからだ。


時に人はお金になびくことがある。

だが、それはあくまでも表面上のこと。


サービスはお金で買うことができるかもしれない。


だが、プライスレスのサービス、

つまり、心のこもったそれはお金では買えないものだ。



円より縁を貯めなさい。


縁を貯めるということは、

徳を積むということだ。


徳を積むということは、

相手のために無償で、見返りを求めず尽くすことだ。



これはなかなかできない。


どうしても徳より得を優先しがちになる。


自分が損するか得するかに注目する。


それをいうなら、相手の損得を考えてあげることだ。

相手が得するように振る舞うことだ。



ボクのビジネスを甘いと批判する人がいる。

情が移るからだ。


ビジネスは、ある意味情け容赦ない。


それは、金が全てと考えるからだ。

金のためなら人を切る。

それがビジネスの世界だ。



そこで情が移っては元も子もなくなる。

どうもボクはその傾向があるらしい。


まあ、損して得せよという。

それを進めて、「損して徳せよ」がいまのボクの心情だろうか。


「少し損をして生きなさい」、と賢者はいう。




得ばかりしている人に、人は妬みを持つ。


損ばかりしている人には、同情する。

手を貸してあげたくなるものだ。


それが、神様からのギフト。



苦しい時は、遠慮なくすがればいい。

そしてまたお返しをすればいい。


その循環が、幸せを呼ぶ。



「金の切れ目が縁の切れ目(The end of money is the end of love)」になりがちな、世知辛い世の中。


長~いお付き合いをしたいものだ。


それが人の縁というものだろう。



【今日の英語】


金の切れ目が縁の切れ目.

When poverty comes in at the door, love flies out at the window.


Out of pocket, out of mind.


The end of money is the end of love.
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外国人の取り説

2014年01月20日 | 人間関係
「新生フリートーク」になって早3ヶ月半が過ぎた。

徐々に新しいお客様が増えてきた。


このところ、ニューカマーが多い。

そのほとんどがクチコミだ。


古い仲間たちも帰ってきている。


それもこれも、

新しいマネージャーの良さが発揮されだしたことが大きく貢献している。



フリートークの基本理念は保ったまま、

ボクは、人間としての個性を活かすことに努めている。



「日本人に英会話力を」、

「外国人に雇用を」、


というのがフリートークを作った時の2大理念だ。


それには揺ぎがない。

そしてそれは今申請中のNPO法人へと受け継がれようとそている。




外国人を使うというより、

彼らの良さ、個性を十分に発揮してもらう、

表現してもらうことでフリートークは成り立つ。


その意味で、初代マネージャーは思う存分個性と魅力を発揮していた。

彼女の社交性、エンターテインメント性は群を抜いていた。


多くのゲスト(お客様)が彼女のファンとなった。

そうして彼女は1年で黒字化に成功した。



それだけに、彼女の卒業(退職)とともに

フリートークからゲストの姿が消えた。


「企業は人なり」と言われる所以だ。


本来「フリートーク」はここで消えてなくなっていてもあながち(not necessarily)不思議ではない。





ボク自身が手がけたホテルは、

これまで3箇所(阿蘇・南阿蘇村、大分・久住高原、阿蘇・西原村)とも自分自身のいわゆるプライベートブランド力で伸ばしてきた。


そこに、「ペンション」、「観光牧場」、「古民家」というブームが火をつけた。

ボクの感性とマーケットニーズがぴったりと符合した証だ。


それには、すべて『旅』 という根本的な自分自身のコンセプトが隠されていた。



それは今も変わってはいない。


子供の頃から、ボクは『旅』 一筋で生きてきた。


「外国語大学」、

「総合商社」、

「宿泊業」と携わる姿は違っても、

そこには全て『旅』 という共通理念が必ず内在している。



フリートークも然り。

ゲストハウス「ラブトリップ」に関しては、まさに宿泊業の名残りを潜ませた。



国内はもとより、

ボクの旅先は海外へと大きくシフトしている。


その中でどうしても避けて通れないのが、当然だが外国人との接触だ。



今、ボクにとって、外国人は単なる一期一会の存在を離れ、

生活を共にする存在へとその意義を増した。


仕事上の、生活上のパートナーとして。


その関係は事実上は雇い主と従業員と言えるかもしれないが、

ボクの中ではそういう位置づけではない。


ボクは人を雇うということをあまり好まない。

そこには主従関係が生まれるからだ。


むしろボクは、対等な関係を好む。


だから自主性に任せる。


ところが、日本人ときたら、

こと仕事に関しては他人依存が強いから自ら動こうとしない。


日本人体質の中には、指示待ち族、事勿れ主義が蔓延している。


多くの外国人にはその意識が希薄だ。

むしろ、如何に自分を表現するかに長けている。

その芽を摘み取ってしまったら、元も子もないではないか。


自分が好むと好まざるにかかわらず、

その個性、特徴を活かすべきだ。



だからボクは何も命令しない。

提案し、判断は相手に任せる。


明らかに日本人に接するときと、外国人に接する時では

ボクの考えは異なる。



外国人を日本人と同じように手懐(てなず)けることなどバカのやることだ、と思っている。

それでなくても、日本に住む多くの外国人は日本に同化しようと必死なのだ。


とくに「おもてなし」と呼ばれるサービス精神においてはお粗末そのものと言える。

だがそれは、身をもって教える、いわゆる背中で語れば彼らは自ずと理解する能力を持っている。



よく日本人は外国人を「あいつら」と表現することがある。

とくに海外においては顕著である。

何か特権意識を持つかのように、だ。


この意識を払拭しなけれbならない。

確かに、日本人は多くの外国から優秀性を持った目で見られる。

それは日本民族として誇りに思う。

(㊟ ただ、英語に関しては、世界中からバカにされているkとを忘れてはいけない)


だが、日本人が世界で秀でた民族であるを良いことに相手を蔑むようなことがあったら、

それは愚行の何者でもない。


それぞれのお国柄に特徴があるように、

人にも特徴、個性がある。


それを生かさず殺してしまったら無意味だ。


だから、彼らと接するときには

彼らをリスペクトすることから始めなければならない。


そして、思い切って任せることだ。


たとえ、例え自分のやり方、考え方と違ってもだ。

相手を信頼することだ。


「好きにやっていいよ」というと、

最初は戸惑う人もいるかもしれない。



ただ、結果を重要視することは忘れない。

すなわち成果を出すこと、つまり利益を上げることだ。


ここに暗黙の了解がある。

それは彼らのサラリーに無条件に反映するからだ。


利益を上げなければ淘汰される。

言うまでもない企業の論理だ。


それをわきまえ、実行に移せる者だけが残る。


だから、出勤時間も、休みも全て本人に一任している。


法を犯さなければ、あるいはスレスレでも何をやっても構わない。

要は、結果が重要視される。


それだけ厳しいのがグローバル社会(世界)なのだ。




そうしてもう一つ、心がけていることがある。

前のマネージャーと一切比較しないこと。


話題にもしないこと、だ。



彼は水を得た魚のように徐々に頭角を現してきた。

これこそがボクノ意図するところである。



【追記&補足】


今や海外(ハノイ)にも店を持つ身。

そこで働く人も、全て現地の人々(ベトナム人)である。



ドップリと外国人の中に身を置く自分を、

ボクは幸せ者だと感じ、

彼らの一人ひとりに感謝している。


ボクがいなくても、彼らは一生懸命考え、工夫してやってくれている。



海外展開はこれから勢いをますことは間違いない。

もちろん、国内においても然りである。



なお、題を「取説」としたのは

人に対しては不適切な言葉であると自覚している。


そのうえで、敢えて使ったのは、

一種の流行り(はやり)に沿っただけのことである。


ご理解いただきたい。


「外国人の取り説」まとめ:


① リスペクトする

② 任せる

③ 信頼する

④ 比べない



不思議なことに、

これは、ボクの子育ての論理とも一致する。

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人は見た目が一割

2013年12月23日 | 人間関係
「人は見た目が9割」なんてベストセラーがある。

とんでもない。

だから見た目で騙される人が多いのだ。


それを言うなら、

「人は中身が9割、見た目は一割」


♪ボロは着てても心は錦ィ~♪

と水前寺清子の歌にもある。




時に恋多き男なんて言われることがある。

プレイボーイだとも言われることも何度かある。


実に名誉なことだ。

もてなきゃそう言われないだろうから。


だが実は違う。

本当のボクを知らない人の言うセリフだ。



恋は一筋型だ。

Good play guyである。

遊び上手だというとまた誤解されかねないが、

いろんな遊びを熟(こな)すことを意味する。


趣味が多いとも言える。


スポーツ(乗馬、テニス、スキー、水泳などなど)、音楽(ギター、ピアノ、歌など)、

映画、旅行、読書 DYI、etc.


浅く広く、下手の横好き、器用貧乏、好奇心旺盛なのだ。


それに、アウトゴーイング(outgoing)な性格が誤解を与えているらしい。


英英辞典では

outgoing: someone who is outgoing likes to meet and talk to new people:

新しい人との出会いや話することが好きな人、とある。


社交性がある、そして出べそなのだ。

それもそのはずである。

旅と英語は内向きな性格を外向きに変える効力があるからだ。



もうひとつ、

outspokenである。

これも英英辞典によれば、

outspoken:expressing your opinions honestly and directly, even when doing this might annoy some people:

素直に、正直に意見を言う人(たとえ相手が嫌なことでも)、とある。


つまり歯に衣を着せず、遠慮なくズケズケ言うことなのだ。

だから時には嫌われる。

いや、よく嫌われる。



本当のボクを知る人(ほとんどいないが)は、

ア、またあいつが大ボラ吹いている、と冷めた目で見てくれるだろう。


それでいいのだ。



「人生楽しく明るく生きよう!」というのがボクのモットーだから。

できるだけ人様に迷惑をかけないように。


できるだけ、が重要。

迷惑を変えずに生きるなんてできないから。


人の役に立つことをやりなさい、

なんて大それたことはできない。


ちょっと相手のことを考え、

相手に気持ちになってやればいいのだ。


困っている人にはそっと手を差し伸べればいい。

悩んでいる人には話を聞いてあげればいい。

悲しんでいる人にはそっと寄り添ってあげればいい。


何も大きなことをする必要はない。



ただ、それらが裏目に出ることはよくあることだ。

相手の為を思ってしたことが、逆恨みを買うことがある。



感情移入をしやすい。

そこで誤解を生む。


恨みや反感が憎悪となり、流布される。

そうなると歯止めが効かなくなる。


時に悲しくなる。

時に寂しくなる。

時に切なくなる。


それでも、人の気持ちになって生きなければ意味がない。

生まれてきた意味はそこにある。


人からなんと言われようとも、

相手の気持ちを思う心を失ってはいけない。



【追記】

どこかで君のことを見守ってくれている人がいる。

君のことを分かってくれる人が必ずいる。


人生捨てたもんじゃない。


笑ってごらん。

ほら、明るくなるだろう。
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仲間に感謝

2013年11月24日 | 人間関係
フリートークの体制が変わり、初めてのパーティだった。




アメリカンスタイルのパーティ。

なんにもできないボクに変わって相棒がよくやってくれた。




感謝してもしきれない。

それに、今までの仲間たちも来てくれた。

本当にありがたい。


そしていつまでもこうありたい。


どんなに状況が変わろうが、苦境に陥ろうが

ずっと一緒にいてくれる仲間たち。


そうした人たちが幸せになれば、ボクもハッピーな気分になれる。


ボクは、縁があって知り合った人たちのために仕事をするのだ、と決めてから

仕事は増える一方で忙しさは何倍にも増した。


それでも幸せな気分でいられるのは、その人たちの笑顔が見られるからだ。


お陰さまでボクは生かされている。

幸せにさせていただいている。


現実は厳しく、決して綺麗ごとでは済まされないけど、

それでも打ち立てた理想に向かってひたすらに進むのみだ。



あえて険しい道を選ぶ。

これがボクの生き方だから。



君の笑顔にカンパーイ!!
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蠢く妖怪たち

2013年10月22日 | 人間関係
一般に人間は、安定を望み変化を嫌う。

そして、痛みを避け、快楽を求める。


これは当然といえば当然だろう。

変化は痛みを伴うし、快楽は安定の先にあるからだ。


ところがどうだ。

ボクは常に逆行しているのではないか。


つまり、好むと好まざるにかかわらず変化の中に身を投じ、

痛みばかりを味わっている。


ときに痛みは快感をもたらす。

だからといって、Sexのときに変態プレイは好まない。

至ってノーマルである。


オット、ここはそういう話ではない。




今年に入り、大激変が次から次へと訪れている。

その度に人間関係の妙に巻き込まれては、身を削っていく。


そこには妖怪どもが蠢(うごめ)いているからだ。


おもに、悪口雑言が飛び交い、

よからぬ噂がひとり歩きする。


またそれを確かめもせず、鵜呑みにする輩も多い。



それに対し、ボクはほとんど言い訳をしない。

反論もしない。


なぜなら、そんなくだらないことに構っている暇がないからだ。

そういう低俗な連中と遊んでいる時間はない。



そうすると、相手は無視されたとますます怒りを増幅させ

あることないこと煽り立てる。



しかし、言うではないか。


人の噂も75日。

つまり、2ヶ月半の辛抱なのだ。


年内には跡形もなく消えるだろう。

来年はすべてが花開くことになる。





ボクの美学とする

「来る者は拒まず、去るものは追わず」に自分自身一種の冷酷さを感じる。


去ろうとしている人をもっと引き止めたら? とアドバイスする人もいる。

ありがたいことだ。

時におせっかいおばさん(おじさん)もいるが。


誰しも人間関係の新陳代謝は常に起きている。

別れただのひっついただのもその一つだろう。




人生は川の流れに例えられる。

淀めば腐るとも言われるが、

淀みも、大雨が降れば一気に解消される。


大雨は一時の河の濁りを引き起こすが、

やがて清流へと生まれ変わる。


そして、すべからく大海へと注ぐのだ。



フローとストックという言葉があるが、

ボクの場合、金銭感覚も人間関係もフロー型なのだろう。


それもそのはず、初めの述べたように

変化を好み痛みに耐えられる体質だから。




良し悪しはつけられない。

人の生きる道に、正解不正解はない。


ただし、全ては因果応報の法則に則り、その人間に跳ね返る。


だから誹謗中傷する人間にその資格はない。



後ろ足で砂をかけて去っていく人間でもボクは非難しない。

寄り添ってくれる人のことを考えるだけで精一杯だ。


済んだことをいつまでも引っ張るより、

新しい世界に向かって希望を繋ぐことが重要なのだ。




愚者は、今起きている現象のみを見て判断する。

賢者は、その現象の先にあるものを見て行動する。


愚者に付き合っている暇はない。
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友達がウツになりまして

2013年10月14日 | 人間関係
またかと言いたい。

本人にすれば必死なのだろう。


久しく合わなかった友人が訪ねてきた。

一見いつもと変わらないようでわからなかった。



しかし、話しているうちに、どこか変。

ときどきしどろもどろになる。

話しのつじつまが合わない。


趣味の音楽もやめたそうだ。


「今何してんの?」

「家にいますよ」


「じゃあ、仕事一筋?」

彼に家は農家だ。


「えー、まあ」


曖昧な返事。


「ひょっとしてまた、ウツになった?」

「エッ!どうして分かるんですか!?」


彼はボクと知り合う間、うつ病になり引きこもっていた。


「はい、またうつ病になりまして・・・」

「なんで?」


「人間関係が嫌になって」

「○○のグループだね」

「エッ、どうして分かるんですか?」


彼はまた驚いた。


「だいたい分かるさ。

困ったね、せっかく音楽始めたのにね」


「・・・・・・・・」

「旅に出たら」

「・・・・・・・・」


「家にばかりいたら、かえって悪くなるよ」


「そうなんです。いろいろ考えてしまって、

俺はなんで生まれてきたんだろう。

どうしていきてるんだろう、って」



「考えるから悪くなるんじゃない。

動いてりゃ考える暇がなくなるから。

どっか旅してらっしゃいよ」




ボクがそうだった。

悩んだ時、苦しかったときは

いつも旅に出た。


特に大自然の中に身を置いた。


時には岸壁から打ち寄せる波を何時間も見ていた。

時には、阿蘇の大草原の中で吹き渡る風に吹かれた。

そして、歩いた。



そのうち、吹っ切れた。


自然の雄大さに圧倒された。

自然の力強さに勇気をもらった。


今思えば、エネルギーを注入されたのだろう。

『気』をもらったのだろう。


ボクはひきこもらなかった。


一旦引きこもったらおしまいだ。

なかなかそこから抜け出せなくなる。



だから旅に出よう。

どこでもいいから、旅に出よう。


知らない町に行ってみよう。

どこか遠くへ出かけよう。



♪ 知らない町を 歩いてみたい

どこか遠くへ 行きたい

知らない海を 眺めていたい

どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海

夢はるか 一人旅


愛する人と めぐり逢いたい

どこか遠くへ 行きたい


愛し合い 信じ合い

いつの日か 幸せを


愛する人と めぐり逢いたい

どこか遠くへ 行きたい ♪




「帰ります」

彼はいきなり席を立つとそう言った。

「どこいくの?」

「それが分からないんです」


そう言い残して闇の中に消えていった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

最近、大人の引きこもりが増えているという。


きっかけはいろいろある。

だが、人間関係によるものが最も多いらしい。



なぜもこう日本人は弱くなったのか。


思い当たる節はある。

現代病の一つだ。


と言って、簡単な言葉だけでは解決策はない。



ストレスフルな社会。

希薄なつながり。

疎外感。

それでいて追い立てられるような社会のシステム。


「社会がぎすぎすし、人心も荒れたということだろうか」

と、今日の天声人語にある。



社会のスピードについていけないで、振り落とされる。


それでも生きていこうと必死でしがみつく。





これはなんて言ったっけ。

みんながぶら下がって、

だんだん回転速度が速くなると怖くなって降りてしまう。


中で小さくうずくまるもの、

必死でしがみつくもの、

振り落とされるもの、

飛び乗ろうとするもの。


これが今の地球の縮小版なのかもしれない。




さ、「旅に出よう!」



とりあえずボクは今日は、

馬に乗りに行きます。


みんなを連れて。


おいでよ、

午後から大津の ”Sunny Farm” にいるから、ネ。
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世界を変え、自分を変える

2013年10月10日 | 人間関係
世界をより良く変えてみたいと思わないか。

自分自身を、より素晴らしい自分に変えてみようと思わないか。



世界には二つの意味がある。


ひとつは、いわゆる地球的な世界と、

もう一つは、自分を取り巻く環境的世界だ。



一国の大統領になっても、

巨万の富を築いても、

地球的な世界を変えることはなかなか難しいが、


いわゆる自分の世界を変えることはできる。



その中でも、地理的環境は

転居(移住)や旅行によって変えることができる。


あるいは、仕事を変えることでもかなり自分を取り巻く世界を変えることができる。



自分を取り巻く世界にも、物理的な世界と人間的な世界がある。


転居や転職で人間的世界を変えることはできる。

つまり、場所を変えることで付き合う人間が変わるのだ。


これは当然である。


ところが、

転居も転職もせず人間関係がガラリと変わることを経験した。


今まで親しく付き合っていた人々が何も言わずに離れていく。

友達だと思っていた人間がいともあっさりと去っていく。


一抹の寂しさは感じるものの、

結局は腰掛けに過ぎなかったのかと、人間の本質を垣間見た気がした。





だが、ボク自身も一部の人間に囲まれて寂しさを紛らわしていたことに気づいた。


そして、自分にはもっと違う世界があることを知った。


そこで新たな人間関係が生まれる。



人は所詮人の中で生きていくことを余儀なくされる。



別れの中で、それまでの人間関係が崩壊し、

出会いによって新たな人間関係が構築される。


ここでもスクラップ・アンド・ビルドの原理が生きている。



去っていくものは、ボクの悪口をいい、責任をボクになすり付けるだろう。

ボクが変わったと言うだろう。


ボクから去っていった女のほとんどすべてが、

「あなたは変わった」 

と捨てゼリフを残している。


「あなたにはがっかりよ」

「見損なったよ」

何度言われたことか。



そうかもしれない。

いや、そうなのだ。


だが、そういう人間はどうなのか。

人は自分を正当化したがる。


それはお互い様だろう。




ボクは変わるたびに、進化し成長を遂げる。

それを理解する者だけが、真の友となる。


あるいは、利害関係だけかもしれない。


それでも利とするところがボクにある限り、

人は留まる。




古い服を脱ぎ捨てて新しい服に袖を通すとき

惜別の念とともに清々しい気持ちに襲われるの何故だろう。



新陳代謝はあらゆる世界で起きている。


国のリーダーを変える時、

クーデターであったり、

革命であったり、

暴動から紛争、市民戦争へと発展していくことはよくあることだ。


一見民主主義的な選挙も汚職とイカサマに苛まれることも多い。



人間関係とはかくも醜いものなのか。

いや、むしろ甘美すぎるのかもしれない。



だから飽きもせず仲間を求めてつるむのだ。


ボクは所詮一匹狼。

つるまず、緩まず、絡まずを貫く。



去っていくものの背中を見送ったあとは、

新しい来訪者の歓迎の宴を開こう。



世界を変えよう。

Change the world.


自分を変えよう。

Change yourself.


自由な発想を持て。

Think out of the box.


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おもしろい出来事

2013年07月12日 | 人間関係
愛する皆さんへ。



一昨日、知り合いの下へ、以下のようなメッセージが届いたとの知らせがあった。





最近FB上での成りすましや、誹謗中傷が多く見受けられるが

これは確信犯である。



さらにこう続く。




     文面から、送り付けられた相手が賢明な判断(返事)をしていることが窺える。




ボク自身は、何と言われても一向に構わない.


全く気にしない(I don't care any more)。


自分自身に自信を持っているからだ。


たしかに、ビジネスを手掛けるにはきれいごとだけでは済まされない面が多々あることは

否定しないし、周知の事実だ。



時には、人の心を傷つけることだってある。

その反面、だれかが救われているのだ。


複数の人から愛を告げられ、

一人の人を選べば、他の人を傷つけることになる。


ただ、選ばれた人は幸せだ。


一方、一人の人に限定せず、多くの人に愛を振りまけば、

薄く広く幸せを分配することができる。


だが、それでは世間一般のやっかみモノから後ろ指を刺されることを覚悟しなければならない。

事実やっかみモノ、おせっかいの多いことよ。




ただ、犯罪はいけない。

こうしたブラックメールを第三者に送りつけることも

犯罪に等しい。


名誉棄損で訴えることだってできる。

事実相手は、窃盗を犯し、器物損壊の犯罪者である。


ただボクは今のところ警察沙汰や、裁判沙汰にはしていない。

喚起を促して改心してくれるのを待っている状態だ。


だが、事の成り行きではそうせざるを得なくなるだろう。



逆にブラックメールを送られた人々のことを危惧する。


そして送った彼を愚かで可哀想な人だと同情する。

根が悪い奴だとは思わない。

むしろいい奴だ。


ただ無知で弱いだけなのだ。

まだまだ、世間のルールというものが分かっていない。


あわよくば、これ以上悪あがきや犯罪を繰り返さないでほしいと願う。


彼に踏み倒された金銭や、壊された物はまだ修復がきく。

ただ、第三者がが傷つけられることはあってはならない。




―――――――――――――――――――――――――――――――――

【補足】


ボクの周りの人で、ボクをよく知らない人は特に

彼のように、ボクにはガールフレンドが沢山いて、

手当たり次第に口説いているように思う輩がいることは

ボクも承知している。


そして、敢えて否定はしない。


むしろそう誤解されているところに心地よささえ感じてしまうのは何故だろう。




では、実際ボクから口説かれた人が誰かいるだろうか。

口説かれたという本人に出会ったことはない。


ボクに口説かれた人がいるなら名乗り出てほしい。


ボクに口説かれない人ほど、ボクがプレイボーイだと吹聴しているきらいがある。



ボクは好きな人には好きだと素直に伝える。

綺麗な人にはきれいだといい、

可愛い人には可愛いね、という。


一種のセクハラかもしれないが

それは受けた本人が判断することだろう。



さらに、ボクが誰とでも寝ると思われている節もある。

では、ボクと寝たことのある女性が何人いるというのか。


ボクに口説かれて寝たことのある人は名乗り出てほしい。(~_~;)


ほら、誰もいないでしょ!

(言えるわけないか!)



ボクは、女性関係についても、ビジネスについても真面目一辺倒である。

意外でしょ!?


当然、駆け引きはする。


以前にも書いたが、

ビジネスと男女関係は方法論として基本一緒なのだ。


ボクにとってビジネスも恋も、命を懸けたゲームに過ぎない。

なぜなら、人生そのものがゲームなのだから。


ただ、文字通り、生死を分かつ。


地球を舞台とした壮大なサバイバルゲームなのだ。

そしてそれを目いっぱい謳歌している。


だから楽しくて仕方がない。

たとえどんな結果になろうとも。




事実、ボクが彼女と呼べる人間は世界中にただ一人しかいない。

そう、それはあなただ!



【蛇足】


こういう曖昧模糊とした表現が、

きっと誤解を招くのだろうな。


またそれを結構楽しんでいる自分がいることも否定しない。


いずれにせよ、ボク自身がどうお思われようとnever mind(まったく気にしない)だ。


ボクは結構打たれ強いのだ。

見くびってはいけない。



ただ、第三者にブラックメールを送りつけるような卑劣な行為には

好むと好まざるにかかわらず、対抗せざるを得ない。


ボクを敵に回したら、怖いぞ!

代わりに味方に付けらた、千人力だ。


さあ、あなたはどっちに付く!?
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去る人来る人

2013年06月30日 | 人間関係
年末番組(ゆく年くる年)ではない。


一年中起きている現象だ。

千客万来の中、一過性の人もいれば親しくなる人もいる。


親しくなった人たちでも、中にはちょっとしたきっかけで疎遠になってしまう人もいる。

それは悲しいことには違いない。



一見はちゃめちゃな人。

常識的でマジメな人。


ボクの周りにはもう一つの種類の人たちが集まる。

変わった人だ。



だが、最近気づくことは、

ずいぶん弱い人が増えたな、ということだ。


そして、心を病んでいる人も多い。


現代病(Modern deseases)は、


一昔前( a decade ago)までは

公害病、生活習慣病(成人病)、職業病などで、

呼吸器疾患、高血圧、心臓病、動脈硬化、消化器疾患、不眠症、癌(がん)、筋肉疾患といった

肉体的疾病(physical desease)が多かった。


だが、ここ近年は心を病(mental desease)む人が増えているという。


これは、ストレスを原因とした病気であり、

機能性胃腸症やアトピー性皮膚炎、喘息、花粉症などのアレルギー性疾患として現れる。


日本人口の1/3が罹患しているともいわれている


そしてその行きつく先が鬱(ウツ)だ。


几帳面で真面目、何事に 対しても手抜きができない性格の人がなりやすい。


先に述べた、一見マジメな人なのだ。


そういう人は、だらしない人を見ると許せないらしい。

そうして、人間関係をずたずたと切り裂いていく。




大目に見ること、寛大であること、そして、許すことをしない。

時にそれが自分に向けられる。


自分を追い込み、殻に閉じこもるようになる。




そもそも人間とはだらしない生き物だと思う。

ボクがそうだから。



マジメであるべき、真面目でなければならない、と思っていると

兎角この世は生きにくいものなのだ。



何事にもきちんきちんとしていなければ気が済まない四角四面な人は

歪(いびつ)に丸い人が許せなくなる。



本来マジメな人は、自分を殺して生きている。

喜怒哀楽をあまり表現しようとしない。



だが、やはり人間は感情の動物である。

何かの拍子にたまりに貯まった鬱憤が爆発して、感情をむき出しにしてしまう。



先日、それを絵に描いたような出来事が起きた。


普段穏やかで立派なことを述べ、みんなから尊敬されている人だった。


その人が、こともあろうか大衆の面前で、キレた。


それは、その人が今まで培ってきた素晴らしい言葉を全否定するに等しい行為だった。

「罪を憎んで人を憎まず」といったことを常々語る人だったのに。



だからといってボクはその人を嫌いになったり蔑(さげす)んだりはしない。

やはり彼も人の子なのだ。


立派な言葉を語るのはイイ。

それが自分への足かせとならないようにしなければならない。


弱みや醜い面を普段から曝け出していた方が、よっぽどこの世は生きやすい。


仏頂面は辞めて、笑いなさい、泣きなさい


そして、人を自分を、許しなさい






【余談】


どうしてあんなだらしない人と付き合っているの?


人があなたから離れて行って、損するわよ。


そう何度言われたことか。




ボクは答えた。



「どんな出来の悪い子でも、

慕ってくる子を捨てれますか!?」




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相手のため

2013年06月24日 | 人間関係
自分のためより相手のためになることを考える。


世のため、人のためなどという思い上がり(egotism)は全くない。

気負い(excited mood)もない。


ただ、出会った人のことを想うだけだ。


星の数ほどいる人たちの中から、この人に出会うということは


この人のために何かをしてあげなさいというか、

自分がしてあげる何かがあるからなのだ、と感じる。



この人が自分にとって意味のある人ではなく、

自分がこの人にとって意味付けをしなければならない立場にあるのだ、と。



縁を大切にするということは、そういうことなのだ。


―――――――――――――――――――――――――――――

よく、give and take だとか、win-winの関係だとかいわれる。


お互いにとっていい関係、お互いが利益を得る関係のことだ。



だがそんな虫のいい話は少ない。


どちらかが得し、一方が損をするまではなくても

利益が一方に偏(かたよ)ることはよくあることだ。

そこに妬みや僻(ひが)み根性が芽生え、人間関係が崩壊する。



得とは、基本的にはお金の多少で測ることが多い。

いわゆる儲けだ。


どちらにせよ、あいつだけが儲けやがって、と妬みや恨みを買う。




儲けは相手にくれてやる、的な大きな心を持ちたい。


ボクが手がける社会起業、NPOはその精神を貫く。



信じてくれないでしょうが、ボクは今貧困のどん底にいる。


ボクの表面上の行動や活動を見ている人は、

資金的に裕福だと思うかもしれない。


真実は真逆。



借金苦に喘ぎ、日々の食事もままならない。


何も同情を買うために言っているわけではない。

なぜなら、今人生で最高の幸福感を噛みしめているから。


最も心が裕福な状態にある。


それは、素晴らしい仲間たちに囲まれているから。

そして、みんなから生かされているという充実感を味わえるから。


だから同情はいらない。

(同情するなら金をくれ!などとは口が腐っても言わない)



これは、どんなに儲けて、お金持ちになろうが

決して手に入れることのできない感覚(充実感)だと思う。



一期一会。


出会った人すべての人が幸せになってくれるよう、

どうすればその人の役に立てるかを常に考える。


それぞれの人にはそれぞれの幸せがあって、姿形は違う。

一律ではなく、その人に見合った幸せを実現させたい、と願う。



だから、話を聞く。

一緒に考える。

アドバイスする。


出来ることは、一緒に行動に移す。


そうすることが自分の役目であり、それだけでぼくは十分幸せになれる。



相手が誠実であればあるほど、

ボクは命を懸けることができる。



時に誤解を招く。

恨みも買う。

裏切りにも出会う。


それはそれでイイ。



死にかけている人に、ボクの命を捧げようと思った。

神に祈った。

命は捧げなっかったが、その人は生きながらえた。

逆に恨みを買ってしまった。



それでいいのだ。


ボクはそういう役回りを演じるためにこの世に生まれてきたのかもしれない。


自分にウソをつくことは出来ない。

ボクは自分の信じた道、正しいと思える道をテクテクと死に向かって歩くだけ。



ボクは、何かを行動に移す時、

いつも自分自身に問いかける言葉がある。



それは正しい道なのか?

自分の意に沿った道のなのか? と。



とはいえボクも人の子、凡人であるからして、

時に邪悪な考えが頭をもたげる。

それはご愛嬌。


何処までも凡人であり続けたいから。

その方が気が楽だしネ。



世の中、聖人ぶる人のなんと多いことか。

多くの人は、「理にかなう」ことより「利にかなう」ことの方を考えがちだ。

つまり、情理より場利(その場の利益)の方を優先する。



ボクは、grate になることを望まない。

あわよくば、 grace でありたい。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


昨日、二つの新しい試みがあった。


一つは、ベトナム語講座。




もう一つは、ワッフルの店頭販売。




彼らの純真無垢なひたむきさに打たれた。


お二人に祝福あれ、と願う。




【感想】


ワッフルは「輪フル」

人の輪をいっぱいにすることかな。
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頑張っている人

2013年06月08日 | 人間関係
いろんな分野で頑張っている人は多い。


十分成果を出している人は良いが、

実力のわりには世に認められていないというか、

なかなかそれに見合う報酬を上げていない人もいる。


むしろそういう人の方が多いのではないだろうか。



ボクが惚れ込んだ作品を手掛ける書画家(Japanese Art Calligrapher)の人がいる。

既にI氏をご存じの方も多いかと思う。



実はボク以上に彼の作品に、あるいは彼の人柄にほれ込んだ男がいる。


そのN氏とともに勝手にI氏の応援団を作ることにした。




ボクはすでにI氏の海外進出に協力すべく、単身ニューヨークに乗り込み、

ソーホーの路上で無許可で展示販売したことがある。


    ソーホーの路上で、I氏の作本を興味深く見るNYのアーティスト




そして、今度はベトナムである。


先日2週間ほど滞在した折、彼の作品を持参して、いわば営業をした。


ハノイにある「日本カルチャーセンター」を訪ね、彼のことを紹介しながら

ワークショップやデモンストレーションといったイベントができないものかと。







この企画は、現在政府が積極的に推し進めている「クールジャパン構想」に合致する。


それは、現在平行して進めている着物からアオザイを仕立て、



お互いの伝統衣装によるコラボ戦略やJ-Popなどの音楽とともに

現在設立中の『NPO法人インターナショナル・プロジェクト協会』の企画として扱いたいと考えている。


その下地として、先日度越したおりハノイで活躍するベトナム人ファッションデザイナーに話を通している。





書画家のI氏単独の企画は


独立行政法人「日本国際基金」(Japan Foundation)が窓口になっている

文化芸術交流海外派遣助成プログラムに申請しようと思っている。





そのため昨夜は、I氏にその旨伝え彼の意思を確認した。


     レストランバー「GAKUYA」似て食事をとりながら打ち合わせ




もう一つは、ベトナム中部の町、ダナン市からの「日越国交樹立40周年」のイベントの企画だ。




これは、日本に留学経験のあるハノイに住むP氏と知り合い、

同じく書画家I氏のことや、着物アオザイの案件を伝えてた。




国際プロジェクトを動かすには、国内以上にそれぞれのお国事情が異なるなど難関は多い。


それをクリアしてこそ実現できるものなのである。


それだけに遣り甲斐がある。


ボクが惚れ込んだ書画家I氏の海外進出をプロモートできることは身に余る幸せである。




併せて、I氏の応援団長であるN氏とも昨夜遅く合流してマスコミ戦略も練った。


彼は、阿蘇にある某有名な観光企業の重鎮であ理、その方面には滅法顔が広い。



彼と顔を合わせるのは3度目だが、

ボクの大好きな北九州に住むM氏のハーブ・アロマ案件も推し進めてもらえるよう重ねてお願いした。





酒を酌み交わし(依然断酒の身のボクはウーロン茶だが)、カラオケでお互いのコミュニケーションを計る。


こうして、またまた新たなコミュニケーションの輪とビッグ・プロジェクトが夜な夜な作られていく。



今日の夜はまた別のパーティ。

それにしても、眠い。



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時が解決する

2013年04月07日 | 人間関係
1,2,3月があっという間に過ぎ、

4月も早半ばにさしかかろうとしている。


今年に入り、ボクの人生は急激に動きを増したように感じる。

歳とともに時間の過ぎるスピードが増すといった

一般的感覚とはまた違った意味で慌ただしい四半期(a quarter of a year)だ。


足早に死に向かって進む時間の流れを意識して日々を送る。

毎日が緊張感に満たされている。


それは、初めて訪れる外国にいる感覚にどこか似ている。


右も左もわからず戸惑いながらも

期待と不安に胸をときめかせいそいそと街中を散策した気分にさせられる。


旅慣れしたこの身でもいつもそうなのだから、

人生を幾星霜も重ねたところで、ビギナーとしての初々しさを忘れない。



それは毎日が新しい出会いであり、

時に悲しい別れを味わうからだろう。


失望と自己嫌悪のどん底に叩きのめされても、

諦めという言葉を払いのけてきた。


Never give up!

Try and keep up!

自分を叱咤し、ややもすれば失いかける自信と勇気を手探りで引きづり出そうとする。



ボクの好きな言葉に

『日々是好日』という禅語がある。

にちにちこれこうにちと読む。


毎日いい日が続いてけっこうなことだ、という浅い意味ではない。



ある日幸運が訪ずれても、

その後に来る不運に脅えるという拘りや囚われをさっぱりと捨て切って

一日を只ありのままに生きる楚々とした境地のことをいう。



何か大切なものを失った日であろうとも、

ただひたすらに生きれば、全てが好日となる。



この場合の好日の好は【好き】の意味ではない。

【積極的に生きる決意】を意味する。


過ぎ去ったことに拘ったり、

まだ来ぬ明日を密かに期待したりはせず、

今この一瞬を精一杯に生きる。


これこそが禅的生き方だ。



また、『縁』という一文字にボクは重きを置く。

縁は出会いばかりではない。

別れもまた縁のなす業である。


どんな別れも多かれ少なかれ悲しみや痛みを伴う。

それを乗り越え、別れを経験するたびに人は成長するものだと思う。


もののあわれを知り、それだけにこの瞬間がかけがえのないものだと分かる。


厳しさに耐える強さと、

儚きもの対する優しさを別れは同時に教えてくれる。



別れの三月、新たな旅立ちと出会いの四月。

そしてそれが同時に織りなすのもまたこの時期であろう。


『悲喜交々(ひきこもごも)』


悲しみと喜びを、代わる代わる味わうこと。

また、悲しみと喜びが入り交じっていることを指すが、


ボクにとっては後者の意味合いが強い。


そしてまた一つ。

どんな苦しみも悲しみも、時が必ず解決する、と。


それが3日で終ろうと、一年かかろうとも。


そして、死がすべてを終結させる。


人は例外なく死に向かって歩いている。

それまでは苦行の身。


時が解決し、死がすべてを洗い流す。


だから何も心配することはない。

なにがこの身に起きても、動じる必要もない。


淡々とこの瞬間瞬間を正直(Honest & Straight)に生き抜いていればいいのだ。


別れと出会いを繰り返しながら。
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人間関係で最も重要なこと

2013年03月19日 | 人間関係
人間関係で重視されることは

コミュニケーション力だといわれるが

それ以前に最も大切なことがある。



それは信頼関係だ。


いくらコミュニケーション能力を磨いても

その土台が築けていなければ本末転倒だろう。



信頼関係は、信用から来る。

相手を信用し、相手から信用されることから信頼が生まれる。


では信用はどこから生まれるのか。




まず、約束を守る ことが基本だ。


約束とは、

口で言ったこと、紙に書いたことなど

やる、あるいはやらないと断言したことを遂行することである。


約束を守らないことは、とりもなおさず嘘をついたことになる。


約束事をいとも簡単に反故(ほご)にする人がいる。


気が変わっただの、あの時とは事情が違うだの

見苦しい言い訳を並べれば済むと思っている。


なんとも情けない人間だ。



言ったことがコロコロ変わる人間を誰が信用しようか。

それは裏切りに他ならない。


ドタキャンなどもっての外(ほか)だ。

軽い約束事も、数回繰り返せばもう信じてもらえなくなる。


個人的な軽い約束事はまだしも

ビジネスにおいて約束を守らないことは

死をも意味する裏切り行為になる。


それは契約に等しいからだ。


だから少なくともビジネス上で

一度言った(約束した)ことは死んでも守らなければならない。


そうでなければその人は

一切他のビジネスでもうまくいくことはないだろう。

それはその人の体質になってしまう。



特にリーダーともなれば、

朝令暮改で言うことがコロコロ変わるような人間に誰がついていこうか。



もう一つ大事なことは、

自己犠牲(self sacrify)の精神だ。


自分を犠牲にしてまでも、組織を守り抜こうとする強い決意のこと。



それに予定を立てられない人間は信頼に足りない。

いつも曖昧模糊なことに終始することは、

自己管理能力の希薄な人なのだ。


あるいは自分に自信がない人はこういう行動をする場合が多い。


行くと言っていけなくなった時のための自己防衛策が働くのだろう。

当たり障りのない関係を築くことできても

とても信頼関係は築けない。




自分をさらけ出すことも必要だ。

秘密の多い人間を誰が信用しようか。

本音と建前の違う人間を誰が信頼するだろうか。


かといって、いつも建前だけの人間では

心から許して付き合うことは出来ない。


ガラス張り、スケルトン人間の方が見た目は悪くても、

理解しやすいのは誰しも同じではなかろうか。


     これじゃむしろ気味が悪いが




――――――――――――――――――――――――――――――

だが、どうしても約束を守れないときは誰しもある。


その時は、

はっきりと理由を述べ、潔く謝ることだ。


だからといってすべてが許されるものではない。

当然、その人の信用は瑕がつく。


完全に信用を失うこともある。



いかなる理由があろうと、

約束事を反故にするには

ウソつき、裏切者というレッテルが張られ、

二度と信用されなくなるのは覚悟しなければならない。


その痛手を思うなら、

一度こうと決めた約束事を

死守する覚悟の方がまだましかもしれない。


ただ平気で約束事を破る人は、

約束を堅持する辛さから逃げたい一心だけが先行し、

そのあとにくる取り返しのつかないダメージを予測する術を知らない。


自分が傷つくことは覚悟してます、と嘯(うそぶ)く。

覚悟を間違っている。


その覚悟があるのなら、

約束をやりぬく覚悟が先だろう!

覚悟の矛先が完全に間違っている。


簡単に約束し、問題が発生すれば簡単に約束を破る。

まさに敵前逃亡である。


困難を乗り切ろうとする努力や、

問題を何とか解決しようとする意欲に全く欠ける。


こんな輩は臆病で卑怯者といわれても仕方あるまい。


リーダーはもちろん、

ビジネスマンとしても風上には到底置けない。




こんな奴には気をつけろ!


想いだけが先行する、一見、情熱人間。

熱しやすく冷めやすい人間。



その場の雰囲気にのまれやすい、調子のいい奴。

結論を出すのが早い奴は

良いときはいいが、覆すのも早い。



利害関係だけを重視する奴。

自分の利益中心の奴。

自分のことをあまり語ろうとしないやつ。



実際、困った奴が多すぎる。


機会を見て、人を見る目について語ろう。


【追記】


信頼を得るには、長い期間を要する。

だが、失うのは一瞬である。


小さな約束ほど大事にするのが肝心だろう。

その積み重ねが信用を産み、信頼を勝ち取る唯一の方法だ。
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手放す勇気

2012年12月26日 | 人間関係
大事なもの、人を一度手放してみよう。

本当に大事なもの(人)なのかわかるはずだ。


と言うことで、今までの人間関係を全て消去することにした。

リセットするといってもよいだろう。


今までのしがらみを一度全部捨て去ると、どんなにスッキリするだろうか。



所有物を全て投げ捨て、関係性を全て捨て去り、

天涯孤独の身になることは理想的姿だ。


天涯孤独の身となるI get left all alone in the world.


幸か不幸か、ボクには身寄りがない。

家族はいるが物理的にも精神的にも遠く離れている。

家族は居ても、家庭というものからは程遠い。


ボクは小さいとき、親も兄弟もいない中で育った。

だから家庭への憧れを抱いていた。


だが、いざ家庭を持ってみると

それがいかに虚構の上に成り立っているのかが分かった。


血縁という家族の絆はあっても

家庭とは所詮他人との同居にすぎない。

夫婦と言えど、所詮他人の域を出ないのだ。


歪な環境で育ったことがボクを厭世家に仕立て上げた。

だからボクの笑顔の裏には厭世観が潜んでいる。

自殺願望は常にボクの中に生息している。


それを知る人は、いないだろう。


その虚しさを噛みしめたうえでの天涯孤独。


――――――――――――――――――――――――――――――

天涯とは、身寄りがないという意味と同時に

「遠く異郷に、独り暮らす」 という意味もある。


孤独と言うより孤高でありたいと常に思う。



だいぶ前だが、新田次郎の「孤高の人」を読んだ。




社会人登山家としての道を開拓しながら、

日本アルプスの山々をひとり疾風のように踏破していった“単独行の加藤文太郎”の物語だ。

その強烈な意志と個性により、

仕事においても独力で道を切り開き、

高等小学校卒業の学歴で造船技師にまで昇格した

加藤文太郎の交錯する愛と孤独の青春を描く長編小説だ。



これは井上靖の「氷壁」と並んで、山岳小説の双璧を成す。




これらの本は、高所恐怖症のボクを山へ挑戦させてくれた貴重な本だ。

スキーへの興味もここから来てスキーバムへと突き進んでいった。


それがペンションを知るきっかけとなったのは皮肉なことかもしれない。


いずれにせよ本は、居ながらにして人生を一変させる力を持つ。



話を戻そう。


孤独は自由と対を成す。

つまり、自由でありたいなら孤独を恐れてはならない。

集団の中にいては自由が制約されることは言うまでもない。


また、孤独とは必然的に寂しさを伴う。

それゆえ、自由もまた寂しさと同居していると言えよう。



人間とは、常に自由と不自由の狭間で揺れ動いている生き物かもしれない。


時に現代は、いかに異国の地においてもインターネットという怪物が

人とのつながりを否応なく強いる。


それは良い意味でも、悪い意味にもなる。

所詮、一匹狼(a lone wolf)を気取るのが精一杯なのだろう。



【注釈】

孤高(ここう)とは、

個人の社会生活における1つの態度を表し、

ある種の信念や美学に基づいて、

集団に属さず他者と離れることで必要以上の苦労を1人で負うような人の中長期的な行動とその様態の全般を指す。


本来は俗世間との通行を自ら断って1人で道を求める者の姿を指しており、

私利私欲を求めず他者と妥協することなく

「名誉」や「誇り」といったものを重視する姿勢から、

周囲が「気高さ」を感じるような良い意味での形容に用いられる他に、


協調性を欠いた独自の態度を軽く批判する場合にも用いられる。

迎合主義の対極に位置する。

芸術家や指導者に多く存在する。
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新コミュニケーション論

2012年12月14日 | 人間関係
一般的にコミュニケーション能力(communication ability)とは、

「他者とコミュニケーションを上手に図ることができる能力」を指し、


これに対してコミュニケーションスキル(communication skill)とは、

人と人の間でコミュニケーションをとる方法・手法・テクニックを理論付けし、

検証を行い技術または知識としてまとめたものである。


つまり、コムにケーションスキルはコミュケーション能力を高めるための手段。



それには、話し方、聴き方などの手法として


「相手の話の内容や感情に理解を示す」とか

「相手が受け入れやすい伝え方」

「伝わる話し方」

相手に納得・合意してもらう「説明力」を身につけるなどといった

抽象的方法論が多い。




これらは日本人同士では有効かもしれない。


だが、多様性を持ったグローバル社会においては通用しないことが多い。


へりくだった言い方や、

持って回ったような回りくどい言い方では

曖昧模糊として何を言いたいのかが相手に伝わらない。


相手を気遣った建前論だけではなかなか通じないのだ。



日本語でのコミュニケーション技法と

英語によるそれとでは大きく異なる。


英語で話す場合は、日本語に比べてストレートな表現が多い。



いきなりとは言わないが、まず本音で語ることだ。

自分の心、本心を吐露することが案外効果的だ。


意外とプライベートなことを述べる方が相手の心を打つ場合が多い。

それには自分の恥を包み隠さず話すことだ。


人に恥をさらすことは非常に勇気のいることだが、

誰しも同じような悩みを抱えているものだ。


だからこそそうした気持ちを抱く人に共感を覚える。



交渉ごとは強気で攻めまくることもいいが、

時には弱音をポロリとはくと、相手の心に響きやすい場合がある。



だから、

困ったことは困ったとはっきり言おう。

出来ないことは出来ないと言おう。


ただ、それでもなんとかしたいと思ったら、その気持ちを正直に伝えよう。


感動したら少しオーバーなくらいに表現しよう。

苦しかったら、その苦しい胸の内をとつとつと語ろう。


こちらから胸襟を開き相手の心に訴えかければ、相手の心の扉も開いてくるだろう。


そのあためには、話す(speach)、喋る(tell/say)というより、「語(talk)」るといった方が適切かもしれない。


そうした本音の会話こそが、多様性の壁を打ち破ってくれる。



たとえ、考え方が違おうと、文化が違おうと、習慣が違おうと、

宗教観が異なろうと、人間は本質的には同じだと思う。


そうした英語のストレートな表現方法を身につければ

日本語の会話力、コミュニケ―ション能力も自ずと高まってくるものではないだろうか。



まずは自ら「心を開く」ことだ。




【補足】

コミュニケーションにかかわらず、

どんな能力においても

スキルだけを磨いても、相手の心に届かないことが多い。


何かにつけスキルアップを身に着けようとセミナー漬けの人がいるが

いくら受けてもさほど効果を上げることは少ないだろう。


技術的理論をいくら学んだところで

感情の動物である人間の本質を知らなければそれは画餅のすぎない。


人は機械やロボットではないのだから。



【補足の補足】

感情を表す方がいいのか否か。


喜怒哀楽といった感情(emotion)には

相手に受け入れやすいものとそうでないものがある。

あの人は感情的だと言われる時、

あまりいい意味では使われない。


つまり怒りっぽい、ヒステリックだという意味合いが強い。

怒りや嫉妬、憎悪、怨念といった感情は抑えた方がいい。


ただ、悲しみや苦しみといったものはさりげなく伝え、

喜びや感謝の気持ちは体いっぱいで表現する方がいい。



弱みや恥をさらすことは決して恥ずかしいことでない。

むしろシャーデンフロイデ(注釈1)といった感情を相手に与える。


同時にサウダージ(注釈2)といった気持を呼び起こすこともある。



ただし、気分(mood)屋だと言われてはならない。

同じ現象でもその時によって感情が左右されるようでは、

信用されることはないだろう。


コミュニケーションの基本には、「信用」、「信頼」そして「尊敬」といった根幹が横たわっている。



(注釈1)シャーデンフロイデ:

他者の不幸、悲しみ、苦しみ、失敗を見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情。

ドイツ語で「欠損のある喜び」「恥知らずの喜び」の意味である。

日本語で言う「様を見ろ」の感情であり、

日本でのシャーデンフロイデの類義語としては

「隣(他人)の不幸は鴨(蜜)の味」、

同義の「メシウマ((他人の不幸で)飯が美味い)」が近い物として挙げられる。




(注釈2)サウダージ:

サウダージ(Saudade)は、ポルトガル語で、

郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味合いを持つ。
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