世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

手放すことのメリット

2016年03月19日 | 100の力
離婚に伴う元妻への財産分与として、

熊本市内の自宅を譲渡した。

それは内心望むところだった。


なぜなら、

借金まみれの自分が

今後差し押さえられる物件を無くすことに成功したからだ。

元妻にものになれば、債務をかぶることはない。

これは、資産保全の一手段である。


もちろん、だからといって偽装離婚ではない。

ただ結果的に好ましい方向に流れただけのことだ。


おかげでボクも、

自宅に掛けていた住居総合保険(火災保険)や

元妻の生命保険等の支払いがなくなった分だけ楽になる。

今後は彼女自身で負担しなければならなくなる。

彼女も、再婚するなり、さらに幸せになってほしいと願う。


ここでも、一見不幸に見えることが

幸いに繋がったのだ。

人生はなかなか思い通りにはいかないが、

望んだとおりに流れていくから不思議だ。


私欲を捨てればすべては好転する。

反対に、欲望(特に物欲)は身を滅ぼす。


欲しければ与えなさい。

与えれば欲しいものが手に入る。

一見逆説的だが、真理だ。



人間の心とは複雑なもので、

こうしたい、こうなりたいと思うことと(顕在心理)

本音というか、本心(深層心理)というものが望むものとが

違うことがある。


表向き、

有名になりたいだとか、偉くなりたいだとか、

お金持ちになりたいだとか言うが、

本当は、

自由で、ひっそり、気ままに暮らしたかったりする。


好きな人と一緒に暮らしたいと思う反面、

本音のところは、一人で自由気ままに暮らしたいかもしれない。


自分でもどっちが本当に望むことなのか、

分からなくなることすらある。

自分の本心がどこにあるか、

それは自分自身にも分っていないことが多いのではなかろうか。

まるでもう一人別の自分が存在しているかのようだ。


望んでいたものが手に入るようになって初めて

それが本当に望んでいたものでないことに気付くことは稀にあることだ。

結婚のドタキャンなどはまさしくこれに当たるかもしれない。


ボクは、ビジネスを拡大し、

ベトナムに特化して事業展開をしてきた。

だが、それはそういう流れが自ずと出来上がり、

その流れに乗っていたまでであった。

そしてそのトレンドに無理に合わせて突き進んできたきらいがある。


今、好むと好まざるとにかかわらず、

その流れが断ち切られた時、

どこか安堵感を覚えたのは自然な気持ちだったのだろう。


有名になりたいと思って、

いざなってみると、それはとんでもない世界だったことはあり得る。

普通の生活に戻りたいといって、芸能界を引退する人もいる。


だが、

意識しようがしまいが、

必ず本心が望むようになっていく。

その流れに逆らわずに、

素直に謙虚に物事を見つめて従えば、

真に本当の自分が取り戻せる。


今、そのことがはっきり見えてきた。

自分は本当は何をしたかったのか。

どうなりたかったのか。


邪な考えや欲望を捨てれば、

高きところから低き所へ水が場がれるように

無理なく自然にそしてスムーズに

本来望んだように人生とは流れていくものなのだ。



【余談】

いよいよ悟りの境地に入ってきた。


最悪を考え、最高の状態をイメージして事に当たる。。


屏風は、広げすぎると倒れる。

だが、畳んだままだと、意味をなさない。

さて、程よい広げ具合とは。


【本来無一物】

事物はすべて本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つないということ。


無一物中無尽蔵

空の教え。

無一物とは何も存在しないということだが、

何ものにも執着しない境地に達することができる。


本来無一物だからこそ却って

全宇宙の存在のすべてが全自己の命そのものであり、

自分でないものは何一つなく、すべてを投げ捨て

無一物に徹すれば、そこには真理の姿として一切が

無尽蔵に現成されるのだ。


本来無一物とは読んで字のごとく、本来執すべき一物も無い、何も無い、

一切空であり、絶対無であることを意味する。

自分を尽くしきり、無心の徹し

切れば宇宙の真源にし、

全宇宙は 自己となり、天地同根万物一体なりで

大いなる世界が開ける。



『即非の論理』

A は、A でないが故に、A である。

or A は、非A であるが故に、A である。


一即一切、一切一即

  一切は、すべて一点に還ってくる。
  一点は、すべてのものと繋がっている。


一即一切とは、原点をすべての基本とせよ、ということであり、

一切即一とは、部分は必ず原点と同じ要素で成り立っている、ということだろう。

原点を掴めば、全体が把握できる。

また、部分から全体を知ることができる。


全体と部分、部分と全体という重なりが、全体の姿を表すということを、

重ね合わせてすべてを見る。

アインシュタインの相対性理論という画期的なアイデアも、

華厳経が内蔵する宇宙観に通じているといえるだろう。


仏教の宇宙観を、物理学の言語で表現したものが相対性理論であると捉えるなら、

相対性理論でさえも、仏教の経典と呼べるのかもしれない。



ますますわからなくなる。

奥は深い。

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