私的美遊空間

美しく愛しいものたちへのつぶやき

北野天満宮の骨董市・天神さんで遊んで来ました♪

2016年02月29日 | 時空を超えて来たものたち
~ 毎月25日は天神さんの日 ~

北野天満宮の境内やその境内の外側に沿って300店ものお店が並びます。
出入りが自由ですし、気軽に手に取ってゆっくりと品選びが出来るのが魅力で、
外人さんにも人気のある、京都でも大きな骨董市です。




小引き出しや箱膳など生活雑貨



ガラス製品、ステンドグラス



ガラス小物、お茶道具



アンティーク着物は外人女性に大人気
こんな中から探し出すのが、まさに宝探し♪
キャリーケースも用意してお持ち帰りも楽々です



古民具の店はこの隣に通常開店の店もあり、台湾からのお客様が
あれこれと楽しそうに物色されていました
タンスなど大き目の家具は状態も良く、魅力的な品揃え
ここだけ目当てに来ても良いくらい♪



着物の店が多いのも、さすが京都の骨董市と言えますね
一店舗の品数も豊富で、着物好きの方は時を忘れて品選びに没頭出来ます



目についたのは、着物姿で来ている若い女性たち
それぞれに可愛らしく素敵に着こなしていました



時節柄、お雛様を扱っているお店も多く
新しいものもある中で、時代物の豪華な冠をつけた雌雛があったり
古い木目込みのセットものがあったりと、良いものは目の前で
どんどん無くなっていくので、早めに覗くことをお勧めします



編み籠や織物などの特色ある店
いっぱいの品物があふれているのもわくわく感をアップさせます♪


* * *

漆器を扱っている店も多く、外人さんが通訳を介して盛んに値段交渉をしていたり、
軸や色紙、短冊の専門店で、交渉がてら雑談に花を咲かせているご夫婦がいたり、
この天神さんならではの楽しさをたっぷりと味わって来ました。
やっぱり骨董市はいいですねえ、気分爽快です!

2016-02-25

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都・北野天満宮の梅花祭と大茶湯

2016年02月27日 | 神社仏閣・仏像
~ 宝物殿前の梅の花 ~

2月25日は菅原道真公の命日、その遺徳を偲んで毎年この日に梅花祭が催されます。
抜けるような青い空のもと、大茶湯と天神さん(骨董市)も同時開催ですので
張り切って行って来ました。



~ 一の鳥居 ~
バス停付近からもう人、人、人の波、人でいっぱいです。
お祭りはやはりこれでなくっちゃね♪



~ 楼門 ~
全国の天満宮、天神社の総本社とあって、楼門の風格はさすがです。
参道にはいろんなお店が並んでいて、あちこちから良い匂いがしてきます。




~ 撫で牛 ~
菅公と牛には深い関係があります。
伝承、伝説によると、菅公の生年が丑年だったこと、そのせいか菅公は牛を愛し大事にしたこと、
菅公が大宰府に下る時に牛が泣いて見送ったこと、刺客から菅公を守ったこと等が伝えられています。

また、菅公自ら「遺骸を牛に乗せて人に引かさず、牛の行くところに留めよ」と遺言し、
その通りにすると、牛は安楽寺(大宰府付近)で動かなくなったためにそこを墓所としたとのこと。
ー 北野天満宮HP 参考 ー

その故事により臥牛が天神様(菅公)の使いとして、天満宮に置かれるようになったとのことです。
そしてその牛の頭を撫でると頭が良くなり、痛いところを撫でるとその部分が治ると信じられています。
今でも菅公と天満宮を守るかのように鎮座している姿には、主人を思う健気さを感じてしまいます。



~ 三光門 (重要文化財) ~
この門をくぐると本殿に至ります。
ちょうどここで神事が行われるところでした。





神職一同は冠に菜種をさしています。
これは、菅公の霊の怒り(大宰府に罪もなく左遷させられたこと)をなだめる
という音に通じたなたね(菜種)を古くから神饌として奉げていましたが、
新暦への移行等により祭事の日時が一か月ほどずれたため、それ以降菜種の変わりに
梅の花を奉げるようになり、菜種は冠につけるようになったということです。
ーウイキペディアー



ー 三光門の狛犬 ー
ここにある狛犬は大きくて立派な角を持っています。
ご神紋の星梅鉢紋の提灯と白梅が良く似合っていて、私が好きな一角です。



ー 拝殿 (国宝) ー
拝殿前の左側に紅梅、右側に松が植えられています。
この紅梅は「飛び梅伝説」伝承の木、と説明書きがありました。

「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春なわすれそ」
(私がいなくなっても、春が来るたびに、忘れることなく
梅の木よ、芳しい花を咲かせておくれ)
菅公がいよいよ京を立つという時に詠んだ、梅の木への惜別の歌です。

飛び梅伝説によると、梅の木は主人を慕うあまり一夜にして菅公の暮らす
大宰府まで飛んでいき、その地に降り立ったということです。

そして、梅と同じように愛された桜と松がありましたが、桜は悲しみのあまり
みるみる葉を落とし、ついには枯れてしまい、松は梅と共に飛び立ったが
途中で力尽き、須磨の丘に降り立ちそこに根を下ろしたとのこと(飛び松伝説)
ー ウイキペディア ー

梅はいじらしく、桜と松は哀れです。
この伝説は人々の菅公への哀れみが作り出したもののように思えます。
こんなところは日本人の優しさなんでしょうね。




ー 本殿(国宝)、透塀(重要文化財) ー
拝殿の後方は本殿になっており、その本殿を透塀(すきべい)で囲まれています。

透塀は、上段、中段、下段に分かれており、
上段は、極彩色の彫刻をちりばめた欄間
中段は、朱塗りの連子窓風
下段は、塗りのない板
拝殿、本殿も美しく見応えがありますが、
この透塀も美しく整っていて必見の建物です。




ー 大茶湯、野点席 ー
こちらは三光門広場で行われる、秀吉の大茶湯に因んだお茶席です。
上七軒の芸舞妓さんのお点前とお運びで華やかなお席です。
やはりここは京都。芸舞妓さんの姿は美しくていいものですね。

お茶券は宝物館と梅園の入場券をセットで1500円
Ⅰ月25日からの販売で限定3000枚、開催時間10時~15時
当日の販売分も多く用意され、売り切れることはまず無いそうです。
長い行列でしたので、お茶席は諦めて天神さん(骨董市)に行くことに。

その後にお茶席の様子を見に行くと(13時頃)、行列はうんと短くなっていました。
ゆっくりとお茶席に入りたい方はその時間以降がいいようです。

次回は天神さんの様子をお知らせします。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日野原重明先生・102才の挑戦・考えただけではしないことと同じこと

2016年02月20日 | 思うこと
                   先日、ラッキ-なことに、日野原重明先生のご講演を拝聴する機会に恵まれた。
                   それは、申し込み期限はとうに過ぎていたが、「空席があれば当日受付する」
                   とのパンフレットの片隅にある言葉に一縷の望みをかけて出かけていった結果
                   だったから、本当に嬉しかった。
                   
                   日頃、御年102才のご高齢であるにもかかわらず、現役のドクタ-であり、
                   執筆に、講演に、国内外を問わず活躍されているお姿を尊敬の念を持って
                   拝見していた。

                   まさか自分の生涯で先生にお目にかかれる機会が来るなどとは思っても
                   いなかった。
                   だから、講演の40分間はとても貴重な時間となった。


                   先生はお話の間40分、ずっと立っておられて、一度も椅子に腰かけることが
                   なかった。
                   以前、雑誌で先生の特集があり、その中で「私は3階でも4階でも、
                   エレベ-タ-は使わずに、自分の足で歩いて登っている」と言われていたことを
                   思い出した。

                   その時、私は運動不足のせいで、3階まで登ると息は切れるし、足はフラフラに
                   なるし、先生から見れば孫みたいな歳なのに、情けない状態だった。
                   それ以降は出来るだけ自分の足で登ることを心がけるようにして、現在に至っている。

                   それにしても、先生のその努力が、40分間立ちづくしの講演をこなせる体力に
                   つながっているのだと感心し、益々尊敬の念を強くしたのであった。


                   また、ご講演の演題は「自分をどう耕し、どう生きがいを持って生きるか」
                   であったが、その中で、特に強調して言われたのが、
                   「いくつになっても新しいことに挑戦せよ」ということだった。

                   このフレ-ズは、いつでもどこでも誰かがいっているありふれた言葉であるが、
                   102才の先生が言われるからこそ重みを持って胸に響くのであった。


                   そして、最近のエピソ-ドだが、ニュ-ヨ-クに行かれた時に、
                   高所恐怖症にもかかわらず、それを克服しようと、ヘリコプタ-に乗って
                   みようとされたそうだ。

                   102才でアメリカまでいくこと自体がすごいことなのに、その上ヘリコプタ-に
                   乗ろうなんて本当に驚きである。

                   電話で申し込んだが、年を聞かれたので、「102才」と答えると、高齢だから
                   駄目だと断られたそうだ。
                   しかし、先生はどうしても乗りたくて、何度も電話をして、とうとう「99才」
                   ということで受け付けてもらったというのだ。
                   日本では考えられないことだろう。

                   本当は102才のお年寄りを、「99才でOK!」というのは、おおらかなアメリカ人気質と
                   感心してしまうが、それより何より、そのお年で「何が何でも乗る」という、
                   その好奇心と挑戦する気持ちに、ただただびっくりさせられてしまったのである。


                   もう年だから・・・・、もう・・・・だから、ついつい言いたくなる現実。
                   でも先生のお言葉を伺って、自分にもできる!と勇気凛凛、戴いたのでありました。


                     <プロフィ-ル>
                        聖路加国際メディカルセンター理事長
                        一般財団法人ライフ・プランニング・センタ-理事長
                        日本音楽療法学会理事長
                        1999年文化功労者、2005年文化勲章受章
                        著書は「生き方上手」「死をどう生きたか」など300冊以上
                        2000年 新老人の会を発足し会長に就任

2014-04-10

* * *

2月8日から始まった思い出深い記事再掲載の最終回です。
日野原重明先生は現在104歳になられましたが、今でも精力的に活動されておられます。
「考えただけではしないことと同じ」のお言葉を胸に、私もこれからの人生に向かって行きたいと思います。
思い出深い記事再掲載12回にお付き合い頂き、有難うございました。
2016-02-20


                        
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「雨は大地の恵み」 校長先生の教え

2016年02月19日 | 思うこと

            私は神戸ルミナリエの、美しく神々しい光を見ると嬉しく思い出すことがある。

            我家の次女は性格的なことを考え、環境の整ったキリスト教系の学校に通わせた。
            通学路は遠く大変だったと思うが、彼女は無事に卒業した。

            彼女が高校2年の時のこと、登校時にひどい雨風で、制服も靴も、何もかもびしょ
            びしょに濡れたことがあった。


            友達同士、「あ-っ、こんなに濡れてしもたわァ!」、
            「ほんまや、サイアク-!」などと、口々に濡れてしまった気持ち悪さや、
            雨降りの登校にあたった運の悪さなどを嘆いていたそうだ。

            すると、そこに突然、校内放送が入り、校長先生からのお話が始まった。
            そのお話は、
               「あなた方は、今朝は大変な雨降りの中を登校して、すっかり濡れてしまった
                ことでしょう。
                ですが、雨は田畑をうるおし、私たちの飲み水となる大地の恵みです。
                雨が降ることによって、私たちは生きていくことができるのです。
                雨降りを嘆くのではなく、感謝いたしましょう。」
                という内容だったそうだ。

            その時、彼女はそのお話を聞いて、それまで嫌だった気持ちが、ス-ッと無くなって
            しまったと、後で述懐していた。

            帰宅後に、「今日は雨に濡れたでしょう?」と尋ねると、彼女はその話をしてくれて
            私は嬉しい気持ちでいっぱいになった。

            学校で歌う讃美歌の「星の界(よ)」さながらの教えを、校長先生が身をもってして
            下さったのである。
            濡れて登校する生徒たちを憐れみ、今日の一日を元気で過ごしてほしいという
            温かいお気持ちが、私達家族にまで伝わったのであった。

            「星の界(よ)」
              ♪慈しみ深き 友なるイエスは 罪、咎(とが)、憂いを 取り去り給(た)もう
               心の嘆きを つつまず述べて  などかは下ろさぬ 負える重荷を

               慈しみ深き 友なるイエスは  我らの弱きを 知りて憐れむ
               悩み悲しみに 沈める時も  祈りに応えて 慰め給まわん

               慈しみ深き 友なるイエスは  変わらぬ愛もて 導きたもう
               世の友 我らを捨て去る時も 祈りに応えて労(いた)わり給まわん♪

            彼女は、この校長先生の導かれる素敵な学校を卒業して、今は、強く優しい伴侶を得て
            幸せに暮らしている。

            なお、「この詩を書いたアイルランドのスクライヴェンは、闘病生活をしている母親を
慰めるために、自らの婚約者を事故、病気で二度も失った絶望の中にも
イエスを信頼する 気持ちを詩に綴ったと言われている」ウイキペディアより

            
            自ら深い絶望の中で、この詩を書けるなんて……….
            なんと、強く、愛深き、美しい人なのだろう。

2014-03-30

* * *

2月8日から始まった思い出深い記事再掲載第11回目です。
明日で再掲載は最終日となります。
2016-02-19



         
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポチのお母さんのお母さん

2016年02月18日 | 「いと をかし」なものたち


                     これは我家の愛犬「ポチ」である。
                     柴犬の雑種(女の子)で、我家に来る前は裏山の一人暮らしのおじいさんに
                     飼われていた。
                     おじいさんが亡くなり、ポツンと取り残されていたこの犬を不憫に思った
                     通りがかりの人達がエサを与えていたらしい。

                     その後、おじいさんの家は取り壊され、犬小屋もどこかに持っていかれてしまった。
                     そして、鎖をはずされ、そうとう野良犬になってしまったのである。


                     ある日、家族で山に散歩に行った時だ。その犬がおじいさんの家の前から
                     山の上までずっとついて来た時があった。

                       「このまま家までついてきたらどうしよう」
                       「そうやね、困るね」

                     そう言いながら、又おじいさんの家の前まで来ると、その犬はピタリと止まって、
                     お座りをした。
                     まるで私達を見送るかのように、じっと見つめていた。
                     振り返ってみると、まだこちらを見つめているのだった。

                       「あの犬かしこいなァ」
                       「そうやね、自分の家の前でとまったね」
                       「ついてこなくてよかったわァ」

                     など言いながら家に戻った。


                     その後、その犬は山から下りて、住宅地の中をウロウロするようになった。
                     とうとう食べるものがなくなり、下りてきたのだろう。
                     可哀想に・・・・ そう心を痛めていた時だ。
                     次女が息を切らしてかけ込んできて、

                       「お母さ-ん、あんね、またあの犬が来たんや!連れて来たらアカン?」
                       「アカンアカン、家では飼えないからね」


                     また数日後、次女が飛んできて、

                       「お母さ-ん、あの犬なァ、だんだんやせてきてるんや!可哀想や!」
                       「ウ-ン」(母困る)
                       「もう、お母さ-ん、死んでしまうわ、あの犬、連れて来てもええか?」
                        (もう半分泣いている)
                       「じゃあね、お父さんにお話しとくね」


                     そうして、翌日お父さんの許しを得て、次女は喜び勇んで、犬を迎えに行った。
                     しばらく探して、ようやく保護して帰ってきた。
                     その犬は知らない所に連れてこられて、居心地悪そうにしていたが、
                     次女は「良かったわァ」と喜んで犬をなでまわしていたのであった。
                     こうして、その犬は「ポチ」と新たに名づけられ、我家の一員になった。


                     数か月して、ポチが我家に慣れた頃、母が新潟からやって来て、ポチと対面した。
                     すると、ポチは母を見るなり、「ワンワン、ウ-ッ」と吠えたのだ。
                     それも仕方ない。我家の家族に慣れるのも数ヶ月がかかったのだから、
                     初対面の母を警戒して吠えたのは当然のことだった。


                     すると、母はポチの目をじっと見つめて、

                       「あのね、私はね、あんたのお母さんのお母さんなの」
                        (ポチはおとなしく母の言うことを黙って聞いている)

                       「だから吠えなくていいんだからね」
                        (ポチはじっと母の眼をみつめている)

                     それからというもの、母に吠えたことは一度もなかった。

                     ポチが賢かったのか、母がエラかったのか・・・・・
                     どちらにしても、二人の心がその時に繋がったのは間違いないのであった。

                     その後、ポチは18年の天寿を全うして天国へ旅立っていった。

2014-04-13

* * *

2月8日から始まった思い出深い記事再掲載10回目です。
2016-02-18

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ミーミーはアイドル☆

2016年02月17日 | 「いと をかし」なものたち

あーい!みなたん、こんにゅちゅあ、あたちはミーミーでちゅー
はちゅかねじゅみのあかたんなのでちゅ
みるくのんだら、おいちいおいちいって、みーみーなくからミーミーでちゅ

みったんねーたんといーぱいあしょんで、こんあによごれちゃったでちゅ
おみみがうごくでちゅ、だからおふろはいっちゃだめって、ままがいいましゅ

みったんねーたんはみるくがだーいしゅき
ミーミーもだいしゅき!
ままがみるくのかんくれたでしゅよ
ミーミーのたからものでちゅ☆




みるくのんでねむねむでちゅ
みみおねーしゃんのおひじゃはあったかいでしゅ
おっきしたらあしょんでくだしゃいね

☆ミーミーは次女みったんの大事なお友達
どこに行くのもお供して、こんなに真っ黒になってしまいました
ピンクの可愛い哺乳瓶をくわえさせると、耳が動いて「ミーミー」となくので
みったんが「ミーミー」と名付けました

お出かけの時には必ずみったんはミーミーを抱いて行きました
行く先々で「まあ可愛いね!」と言われてみったんは大満足です
ミーミーはどこに行ってもそのつぶらな瞳でみなさんに可愛がってもらいました
みったんもミーミーのお陰で大勢の人たちに声をかけて頂き、人の心の温かさを
肌で感じて成長することができました

命はなくても、命があるかのような働きをしたミーミー
赤ちゃんの純真な瞳は、人間のものでもぬいぐるみのものでも
人の心を動かすものなんですね☆

2014-10-30

* * *

2月8日から始まった思い出深い記事再掲載の第9回目です。
2016-02-17
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君と来た道

2016年02月16日 | 思うこと


                                  若葉が街に萌え出す頃

                                  私は君と歩き始めた

                 
                                  開店前の百貨店

                                  人影まばらなこの道に

                                  緑の風が吹き抜ける

                                  これが君とこれから行く道








                                  初めて君と来た店

                                  食べたピザの番号は

                                  あまりに昔で

                                  忘れてしまったけれど

                                  今日食べたピザの番号は

                                  1278698と1278699

                                  これが二人の歩いた道の

                                  長さと時間

                                  今日は結婚記念日なの

                                  どの席にお座りでしたか?

                                  昔と変わっていませんよ

                                  これが君と歩いて来た道

2014-05-16

* * *

2月8日から始まった思い出深い記事再掲載の第8回目です。
この過去を振り返り、初心に戻る作業は今週末に終了の予定です。
それからまた新たな気持ちで3年目を迎えたいと思いますので、
もうしばらくのお付き合いをお願い致します。
2016-02-16

                         



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高らかに♪君といつまでも

2016年02月15日 | 思うこと

                    このフリージアの花には忘れ得ぬ思い出がある。
                    私が20才の頃のこと。まだお付き合いを始めて間もない頃に、
                    彼がプレゼントしてくれた花である。
                    「通りがかった花屋さんできれいだったから・・・」と言葉を添えて。

                    生まれて初めて男性から花を贈られた。
                    夢見る乙女は、情熱的な赤いバラを差し出し、「君を愛している」なァ-んて
                    言われるのが、素敵だと思っていた。

                    だが、人にも個性や人格があるように、花にもそれなりの個性や花格があるのだ。
                    お付き合いを始めたばかりの二人には、情熱的というより優しい雰囲気の親しみやすい
                    花の方がふさわしかった。

                    そのフリージアの花はふんわりとよい香りがして、黄色い花色が一人暮らしの部屋を
                    温かい部屋にしてくれた。

                    また、その彼はフリージアの花がよく似合っていた。
                    素朴で優しくて誠実そうで・・・・。(あとから分かったことだが、花言葉は「誠実」だった。)
                    そして、その彼とのお付き合いは5年続き、生涯を共にしようと結婚することになった。

                    その二人の結婚披露宴の時、出席者全員のスピーチ(全員が勝手に喋りはじめたのである)が
                    終わり、サプライズで新郎新婦に歌を歌ってもらいましょうということになった。

                    選んだ曲は加山雄三の「君といつまでも」だったのだが、出だしのキーが高すぎて、
                    私は途中から声が出なくなってしまった。
                    結果、彼一人が声高らかに歌ったのであった。

                        ♪二人を夕やみがつつむ・・・・
                         君のひとみは星とかがやき 恋するこの胸は炎と燃えている
                         大空染めていく 夕陽いろあせても
                         二人の心は変わらない  いつまでも

                           「しあわせだなァ....  僕は君といる時が一番幸せなんだ
                            僕は死ぬまで君を離さないぞ  いいだろう...」

                    ピューッー  ピュー  ビュー
                    ワーワー パチ パチ パチ (会場からの大声援)

                    その彼とは、もちろん今も一緒に暮らす我背の君である。

                    今では、私の瞳は星のように輝いていないだろうし、
                    昼寝姿を見て胸が炎と燃えるどころか、
                    小さな残り火すら消してしまうこともあっただろうが、
                    それでも一緒に居てくれることに感謝している。

                    これからは、私が「君といつまでも」を歌い、
                    「僕は死ぬまで君を離さないぞ、いいだろう」と言わなくてはなるまい。

                    そう面と向かって言えば、恐らく「勘弁してくれ! 離してくれェ!」なんて
                    逃げられるだろうから、このことは胸にしまっておくことにしよう。

2014-04-18

* * *

2月8日から始まった思い出深い記事再掲載の第7回目です。
2016-02-15
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニャンという奇跡!父の涙

2016年02月13日 | 猫のお話
猫大好き人間、父のお話第二弾

今日は2月22日、何の日か?
ニャンニャンの日だと、何かで見た。
そこで、昔にあった猫と父の絆を思い出した。

* ~ ~ *

私も父に似たのか、小さい頃から猫が好き、野良猫を見ると放っておけなくて
おやつや煮干しを食べさせたり、牛乳を飲ませたりして可愛がっていたことがあった。
父がそのことを知ると必ず「野良猫は汚いから、放っておきなさい!」と言っていた。

だけど、おなかを空かしてニャーニャー鳴いているのを聞くと可哀想でたまらなくて
やっぱり、こっそりと食べ物を運んで、空地の隅に保護したりしていたのである。


ところが、私の知らぬ間に家に猫がいたことがあった。
多い時には三匹いて、その子達は毛色によってシロにミケにチコと呼ばれていた。
一匹ずつ来たのか、三匹一度に来たのか、家にその猫達が何故いるのか分からなかったが
幼い私は猫がいるのが嬉しくって、そんなことはどうでもよかった。
今思えば、あの黒猫のように、やはり父がもらってきた猫達なのだろう。

* ~ ~ *

ところが、ある時から一匹ずつ姿が見えなくなった。
父に聞くと「シロはお風呂でおぼれて死んだ」と言い、
「ミケはどこかに行ったまま帰って来ない」と言った。
そしてチコは父が遠くに捨てて来たようだった。
私はもちろん「ひどいことをして!なんで!」と泣いた。
「いたずらして近所に迷惑をかけたから、、」と父が言い訳をした。

それからずいぶん経って、猫のことを忘れかけた頃
外で「ニャーゴ~、フニャーゴ~」とガラガラに喉がつぶれた猫の声がした。

段々こちらに近付いて来る。

もしや!と思って外に出て見ると、ボロボロで汚い猫がこちらに向かって来ていた。
「チコー、チコー」と呼ぶと「ニャーゴ~、ニャーゴ~」と鳴いた。
「お父さーん、チコが帰って来たー!」と叫んで呼ぶと
父はボロボロのチコを抱いて頬ずりしながら「よく帰って来た!よく帰ってきた!」と泣いた。

* ~ ~ *

犬は遠くからでも家に戻って来る能力があるが、猫にはその能力がないと聞いていたので
まさか20Kmも離れたところから帰って来れるとは、父も思っていなかったようだった。
辛かっただろうに、あきらめずに、ひたすら父の顔を思い浮かべながら戻ってきたのだろう。
父も、自分で捨てて来ながら、心の中では「帰って来てくれ!」と思っていたのだと思う。
きっと、お互いの気持ちが強い絆となって結びついていたのだろう。
その互いの念にも似た思いが、チコの帰還という、奇跡にも近い出来事を生んだのだと思っている。

2015-02-22

* * *

2月8日から始まった思い出深い記事再掲載の第六回目です。
2016-02-13



コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニャンともかわいい父の作戦

2016年02月12日 | 猫のお話

昔、私が中学生の頃、家には黒猫がいた。
その黒猫は、艶やかでビロードのようにきれいで、そして美人だった。



この黒猫は、私の目の前に不思議な現われ方をした。
ある日、学校から帰ってくると押入れの中で物音がするので開けてみた。
すると、ぽとりと床に舞い降りてきたのである。

「えーっ!なんでこんなところに猫が、、?」一瞬訳が分からなかった。
しばらくして、「ははーん!お父さんだな!」「絶対そうだ!」
そう確信して父の帰りを待った。

帰った父に「この猫どうしたの?押入れの中に入ってたんだけど」と聞くと
すると「自分で入ったんでしょ」と真面目顔で答えた。
「そんな訳ないでしょ!どこも閉まってて勝手に入れないんだよ」
「第一、押入れの戸を猫は閉められないでしょ!」
「お父さんが連れて来て入れたんじゃないの?」そう問い詰めると

「お父さんは知らない!その猫が勝手に入ったんだ」とあっちを向いて答えた。
その怪しいこと怪しいこと、、



結局、その猫が何故押入れに入っていたかと言う疑問はそれまでとし
父が連れて来たんだろうと言う疑惑も不問に付し
なんとなく、そのまま家の猫として飼うことになったのである。

それにしても、こんなにきれいな猫が捨て猫のはずはないだろう。
どこかで見かけて、気に入って譲り受けてきたのに違いないのである。
猫好きの父がこの猫を手に入れて、ホクホク顔で連れ帰った様子が目に浮かぶようであった。
そして父がそれで幸せなら、それで家族も皆幸せなんだと思って
父のそのかわいい作戦を成功させてあげたという次第なのである。

2015-02-09

* * *

2月8日から始まった思い出深い記事再掲載の第5回目です。
2016-02-12

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マリオとともに

2016年02月11日 | 「いと をかし」なものたち

              ヒロ画伯は、家中の壁やらタンスやら、様々なところに成長の痕跡を
              留めながら、めでたく幼稚園児となった。

              しかし、親の喜びとは裏腹に、彼はその繊細な気質ゆえか、幼稚園に行くのが恐かった。

              それから毎朝が、母と子の闘いになった。
                「ヒロクン、幼稚園に行こか」
                「いややぁ! 僕 行かへんのや!」 (ヒロ画伯 家中を逃げ回る)
                「そんなん 言うてもねェ、行かなアカンのやで」 (母 追い回す)
                「……… ……..」  (机の脚にしがみつく)
                「……… ……..」   (小さな指を一本一本 脚からはがす)
                「……… ……..」  (又、別な所にしがみなおす)
                「……… ……..」   (とうとう 体を抱きかかえてひきはがす)
                「やだぁ-! はなせ-!」 (腕の中で暴れる)
                「みんな、もう来ているかなぁ」  (抱いたまま集合場所まで連れていく..
                                   まるで人さらいのようだ)


              集合場所に連れていき、当番のおばちゃんに渡そうとするが、
              「いややぁ! お母さんも来(こ)なアカーン!」 (激しく抵抗する)
              それで仕方なく、当番のおばちゃんと共に毎日毎日、6人ほどの子ども達を
              引率して幼稚園通いが始まったのである。(母と手をつなぐと何も怖くない)

              そして、幼稚園に着くと、そこでも大変な仕事が待っていた。
              お部屋に入って、先生に渡そうとすると、
                「アカーン! お母さんも!」
                「お母さんネ おうちで待っているからネ!」
                「イヤヤァー! 帰ったらアカーン!」
                 (先生にがっちり体を抱きかかえられながらも、先生の髪を引っ張
                  て暴れる)
              先生は「お母さん、私は大丈夫ですから、お帰り下さーい。」
              「ギャアー! オーカーサーン!」 (先生の顔をひっかく、頭をたたく….)
              私は先生を信じて、ヒロ画伯の叫び声を背に、足早に帰宅したのであった。

              帰りは、彼的に「仕方なく」当番のおばちゃんに連れられて帰ってきたのであった。
              その後、登園時の私の付き添いは二か月も続いた。
              その間、彼はどうしてもお部屋に入らなかったそうだ。


              そして、ある時、用事があって幼稚園を訪ねると、私の姿を遠くから発見して、
              他のお母さんが走り寄ってきた。
              「あのね、今ね、あっちに行かない方がいいよ」と言うのである。
              「なんで? 行ったらアカンの?」
              「それはねェ、“お宅のおぼっちゃま”ね、今、園長先生と“お食事中”
               なのよォ」
              彼は、お友達のいる部屋に入れなくて、ずっと園長先生が一緒に、しかも
              廊下でお昼ご飯を食べていて下さったのだ。
              私達家族が、担任の先生や園長先生にどれほど感謝したか知れない。


              そんな頼りない彼だったが、ある日、私の買い物に同行していて、いきなり、
               「お母さん、僕これ買う!」
              見ると「マリオ」だった。彼はゲームっ子で、スーパーマリオが大好きだった
              のである。
               「でも、ヒロクン、これ高いよ、四千円もするよ」
               「僕 買う!」 ためらいは何もなかった。


              幼稚園のお部屋に、いまだに入れない彼が……
              登園時に、まだ私の手が離せない彼が…….
              そんな軟弱な彼が “断じて”言うのであった。

               駄菓子屋でアメの一つも買ったことがないのに……
               「ヒロクンがもらったお年玉ネ、全部無くなるけどいいの?」
               「ウン!」  決意はゆるがなかった。


              そんなこんなで、意気揚々、持ち帰ったこのマリオ、
              その後、彼が学生時代を過ごした東京のアパートにも同行したのであった。
              そして今でも、ヒロ画伯の大事な大事な宝物なのである。

2014-04-01

* * *

2月8日から始まった思い出深い記事再掲載の第4回目です。
2016-02-11


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この傑作は永久保存版である

2016年02月10日 | 「いと をかし」なものたち

             これはミロの作品ではない。ピカソでもない。
             ヒロ画伯 2才の時の作品である。

             彼がこれを描いている姿を見たことはない。
             ある日、突如として現れたのだ。
               「これは誰が描いたの?」
               「ぼくらよ」
               「何 描いたの?」
               「*△□○☆ャ….」
             何か言っているが、さっぱりわからない。
              ♪「ミラクル戦士 ジライヤ-」♪とTVに合わせて
               「チノノノォ-チヤ-」と歌っていた頃のこと。
             彼はまだむずかしいことが言えないのであった。

               「お絵描きは ここにしちゃダメだよ!」
               「ウン」
             ヒロ画伯は素直にうなづいた。



             これもある日突然現れた。
               「ハハァ-ン」
             あの時、「ウン」と答えたのに わかっていなかったのか。
             わかってはいるが、その場限りの返事だったのか….
               「ヒロクン これはなぁ-に?」
               「どこえも どあらよ」
             ヒロ画伯は何もなかったかのように、のたもうたのであった。

             しかし、その意外な答えがおかしくて、怒る気を失ってしまった。
             この小さな頭で わずか2年しか生きていない彼が、
             何を感じて、何を考えたのか….

             壁一面がドアなのか、描かれているのはノブだけだ。
             もし、ここに『どこでもドア』があったなら、彼はどうしたかったのだろうか?
             姉たちにいじわるされた時、親にしかられた時、このドアの向こうに行きたかった
             のだろうか?
             実際のところは、本物のドアを開けて外に避難して行ったのだが….
             本当のところは知る由もない。

             この落書きを見るたびに、小さい彼の姿と、その会話を思い出して、
             過ぎ去った日々を愛しく思うのである。

2014-03-23

* * *

2月8日から始まった思い出深い記事再掲載の第三回目です。
2016-02-10


コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠地蔵のお話がわが身に

2016年02月09日 | 思うこと
昔々ある雪深いところに心の優しいお爺さんとお婆さんがおりました。
二人はとても貧しくて、お正月に食べるお餅が買えませんでした。
そこでお爺さんは笠を作って町に売りに行きました。
五つ持って行ったのに一つも売れず、雪道を引き返して来ました。
すると六体のお地蔵様が雪を被って立っておられました。

「おーおー、お気の毒に」そう言って頭の雪を払い、持っていた笠を被せました。
一つ足りないので自分の笠を脱いで最後のお地蔵様に被せました。

家に戻ったお爺さんの姿を見て、「まあまあ、すかっり雪を被りなさって、、」
お爺さんはいきさつをお婆さんに話しました。
お婆さんは「それはそれはいいことをなすった」と喜びました。

そして、そのシンシンと雪の降る夜中にドスンと玄関先で物音がしました。
こんな夜中になんだろう、二人でそっと戸を開けて見ると
そこにはお餅やら野菜やらいっぱいのものが置いてありました。

そして、ザクザクと音のする向こうの方には六体のお地蔵様の後ろ姿が見えました。
お爺さんとお婆さんはお地蔵様のお陰で温かなお正月を迎えることができました。ありがたや、ありがたや、、

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

笠地蔵の昔話だが、だいたいこんなお話だったと記憶している。
多少の記憶違いはあると思うので適当に読んで頂けたら有難い。

数十年前、私の赴任したところは僻地で豪雪地帯だった。
降り積もる雪の中で、若い娘の身の上にこの笠地蔵さながらの出来事があった。




雪で一階が埋まってしまった教員住宅

新潟県では、新任の教職員はたいていの場合僻地校に赴任させられることが多い。
私も特に拒否しなかったので、豪雪地帯にある中学校に赴任することになった。

春、夏、秋と無事に過ごし、初めて迎えた冬は近年まれにみる豪雪の年であった。
一晩で降る雪のために、朝起きると玄関前は雪の山になっていることがほとんどだった。
若い娘の身、早起きして雪かきをしてから出勤なんてするはずもなく、
いつも雪を手で掻き分けながら消雪水の出る雪のない道まで出ていた。

そして、日直の日は皆より早く登校しなければならない。
学校の入り口から玄関までは100メートルくらいあるが、まだ除雪されていない。
フワフワに積もった雪をまた手で掻き分けていくしかない。
必死で雪と格闘していた時、頭の上でカラスが「アホーアホー」と鳴いた。
自分のこの状況の滑稽さに自分でも可笑しくなって、それまでの悲壮感が消え、かえって楽しくなった。

そうやってようやく到着して、こんなに大変だった、という話を用務員さんに話すと、
「先生!そりゃあ大変でしたね。裏手の入り口のほうは私が除雪してますから、今度はそちらから来て下さいねえ」
と笑いながら言った。「なーんだ、そうだったんですかあ!」一緒に笑った。




朝ドアを開けた様子

積もった雪で玄関よりも道のほうが高いので、出勤時はまずこの新雪が乗った雪の階段を上ることになる。




まるでほら穴

道から玄関を見下ろすと、まるで熊が冬眠しているかのようなほら穴に見える。




踏み固められた雪の道

ある朝のこと、いつものように雪を掻き分けながら行くつもりでスノーブーツを履いて外に出ると
そこにはきれいに踏み固められた道が出来ていた。

毎日雪まみれになって出て行く私を憐れに思ってくれたのか、、、
なんだか嬉しいような、、哀しいような、、有難くて、、じわっと涙が出てきた。
それから毎朝その道は出来ていた。

道づくりの現場を見ようと、ある朝うんと早起きして窓から見ていた。
すると「かんじき」を履いたお婆ちゃんが雪を踏みながら教員住宅の方までくるのが見えた。
昨晩から積もった新雪を何度も踏みながらずっと道をつけてくれていた。
私が出勤する頃には、お婆ちゃんの家からと教員住宅からの道がすっかりと出来上がっていたのである。

後日、お婆ちゃんの家に実家のお土産を持ってお礼に伺った。
「いつも有難うございます。朝早くから道をつけて下さって、、すっかり甘えさせて頂いてます」
「いやいや、どうもないよ、ついでだからね」そう言ってニッコリ笑った。

人の情けが身に染みた初めての冬の出来事であった。

2014-12-08

* * *

昨日から続いて、思い出深い過去記事の再掲載第二回目です。
2016-02-09

コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

素朴に生きることは美しいこと

2016年02月08日 | 思うこと

ああ、懐かしいなぁ、、山、畑、蔵、家、そして煙、幼い頃見た風景に似ている。
私の父母の実家は新潟の山奥で、冬になると2mも雪が積もる豪雪地帯にあった。
村人は、春から秋にかけては田んぼや畑に精を出し、冬には男衆は関東に出稼ぎに行き、
女達は機織りをする、自然に逆らわず、自然と共につましい生活を送っていた。

私は2歳から4歳くらいまでの「三つ子の魂百まで」と言われる時期をそんな母の
実家で過ごした。母が私を帝王切開で産んだ後、予後が悪かったため預けられたのである。

母の実家にはその頃4世代が住んでいて、独身の叔母まで同居する大家族であった。
そんな中で私の立場といえば、よく小説に出てくるような「厄介者」扱いの可哀想な子
ではなく、おっきい婆(曾祖母)、おっかあ婆(祖母)、おっかあ(義伯母)、おばちゃん(叔母)の
4人の女達に囲まれて明るく元気一杯に育ててもらったのである。

家には従兄弟が二人いて、兄のほうは10歳も年上、弟は2つ年上。だから私は一番のちびっ子で
しかも女の子だったから、皆の庇護を一身に受けていた。従兄弟達は、たとえ私が悪くても
私を泣かせると反対に、爺ちゃんや親に叱られるから我慢していたとのことだった。

と言っても、私自身の「悪さ」や「お行儀の悪さ」には容赦なく、お仕置きが待っていた。
暗い蔵に入れられた時はさすがに怖かった。明るい内はまだしも、暗くなって、星空になっても
出してもらえなかったのだから、、何をしでかしたか覚えていないが、よほど悪いことをしたのだろう。

村のあちこちを駆け回って遊び、ごはん時に家にいない時には、家人は「どこどこでご飯食べてるんだろう」
などと言って心配はしていなかった。昨今の物騒な事件など思いもつかないのどかさである。
そして「どこどこの家」でも、自分の家の子もよその家の子も区別ないおおらかさである。

ある時、どこを探しても私がいないと家人が騒いでいたら、「ここだよお、、」と声が聞こえるので
そちらを見ると、何と壁に垂直に掛けた長い梯子の天辺まで登っていたとか、、私は覚えていないが、、
そこで近所の村人も集まって来て、どうやったら無事に降ろせるか、いつ落ちるかと心配しながら相談したらしい。

大きな声を出すと「あっこ」がびっくりして落ちるといかん。だから小さな声で「おーい、あっこやあ、
降りてこーい」と声をかけたそうだ。すると、あっこは「降りられないよー、こわいよー」と。
梯子は釘に引っかけてあるだけだから、大人の重みに耐えられるかどうか分からない。
結局、伯父が梯子を上りあっこを支えながら降りてきたそうだ。その騒ぎのお咎めは?それも覚えていないが、
あわや、大惨事というところ、無事だったんだから怒るより「よかった!よかった!」と喜んでくれたことだろう。

今でも当時の私を知っているお年寄りに合うと「ああ!あの(あっこ)か、、!」と懐かしんでくれる。
「はい!あのゴンタのあっこです」「ほーか、ほーか、おおきゅうなったのう」
素朴で実直な村人たちの、あったかーい見守りの中で過ごせたことは、私の心を豊かに育ててくれたと思う。
そして、素朴に生きることは「美しいこと」と教えてくれたように思うのである。

2014-11-18

* * *

※ もうじきブログを始めてから二年が経とうとしています。
ここで以前に投稿した思い出深い記事を再掲載してみたいと思います。
今回はその第一回目です。
題名を「素朴に生きる」から「素朴に生きることは美しいこと」に変更しています。
2016-02-08
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松江の椿・意宇の里

2016年02月05日 | 花便り

~ 意宇の里 (おうのさと) ~

今年もふっくらときれいに咲きました。
花色は桃紅地で、底の色が白色の「底白」と言われる希少種です。




花期は12月~3月、寒い時期は底の白色が
はっきりと出ますが、暖かくなるとぼんやりとして来ます。
このくらいが一番きれいに出ている状態です。




中輪の一重筒咲きで、横からの姿がとてもきれいです。
横顔美人とでも言いたいくらいのすっきり感です。




きちんと整った「筒しべ」もきれいです。



「意宇の里」とは珍しい名前ですが、その名前の由来は松江近辺の地名にあります。

* * *

中海、宍道湖以南の地域 (現在の安来市から松江市にかけて) は意宇郡と
呼ばれていた。「意宇」という呼び名の起源は風土記によると「八束水臣津野命」
(やつかみずつねのみこと) が国引きを終えた時 「意恵 (おうえ)」と言った
ことから「意宇郡」と呼ぶようになったと書かれている。
~ 松江市HPより ~


コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする