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3.11を思う時

あれから1年、経ってしまいましたね。

一瞬にして多くの命が奪われるという、しかもその人たちには何の罪もなく、過去を振り返る間もない
ような状況で、親兄弟の前で、共に、中には子供まで巻き込んで、死に逝くことの非情さをまざまざと
見せつけられてしまいました。




ちょうどあれは長男の大学合格が決まった直後、喜びもつかの間、初めての一人暮らしの為の準備も
満足にできなくなることになるとは。

大変な事態である事は理解するものの、でも長男にとっても人生の大きな分岐点のはず・・・。





当時は自粛、自粛の嵐で、それで日本大丈夫か、と思いつつ、苦境の中の冷静かつ前向きな少数意見は隅に
追いやられる状況だったと思います。かつての9.11後の米国のように。








今も生活の先行きの糸口さえ見つけられない人たちがたくさんいます。

それなのに復興、復興と盛り上がり、終息、終息と、騒ぎたがる、無策な政治家たち。



国民が、とか、国民こそ、と言う。

全てを政治に押しつけても、とも言う。

あげく、その、でき損ないの政治家を選んだのは国民、とまで言う。



そうかぁ~?

たしかにそれも一理はあると思うけど、いい時の権力と利権と、決定権を存分に保持しつつ、非常時に
なったら突然、国民が、では道理に合わない。無責任極りない。



だって、今だって、最終決定権を持つのは国でしょ。



まっ、でもこんな時でも党利党略しか考えてないんだから、はなっから期待するのがダメなんでしょうね。






自分自身、生か死か、の瞬間的な経験をして、自分の死に対して冷静に考えられる術が身についたと思う。



病院で、これもまた無常にも亡くなる人たちと接し、また、一緒に闘病した大切な友人が亡くなっていくの
を見て、他人の生死についても、以前とは違った感覚になっている自分に気付く。





一度に多くの命が失われるのも、大切な仲間が一人死に逝くのも、自分にとっては同じように悲しいこと
なのです。

3.11があるなら10.11があるし、2.24がある。


どちらも、まだ逝ってはいけない命が失われた日です。
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