その花も 八重に散りたり 春嵐
梅士 Baishi
今朝は昨夜来の雨である。
散りがたく見えた八重桜もはや散り始めた。
散り始めるとたちまち八重の桜の海になる。
諸行は無常である。
庭の君子蘭が咲き始めた。
去年より一週間は遅れている。
今年の春は少し気温が低い。
そのせいか、風邪ひきさんが多い。
周りがばたばたと咳や鼻水に倒れて行く中で、自分ばかりは
生き残っている。
ジョギングと鼻洗浄が効いているのだろう。
さらに、綿棒に傷薬をつけて塗布する非常手段も有効である。
健康管理にも一種の兵法がある。
インド人の計算能力は、ある意味インチキである。
まともに計算するのではなく、簡易に結果が分かるバイパス
法を使っているからである。
しかし、結果的には高度の数学技能を発揮している。
いわば、UFOのワープ航法である。
試験技術にも、こうしたワープ航法を身につけた者が勝つ。
知能試験も、こうした能力を試しているともいえる。
種を明かせば、な~んだ、という仕掛けがあるものだ。
それも創意工夫であろう。
結局は、この世は時間の勝負である。
ほかにも、ああ、なるほどと思えたことがある。
「社会学って意味があるのだろうか」という疑問があった。
『マックス・ウェーバーの「職業としての学問」、「職業としての
政治」』という霊言を読んで、その疑問がなんとなくわかったと
ころがある。
たしかに、学問は宗教に始まり、哲学を経由して専門分化し
てきた。
専門分化ということは分解して、その部品を研究発展してき
たということである。
しかし、部品はあくまで部品であって、状況に適応した機能
として組み立てなければ役に立たない。
車のように、自動車というコンセプトに従って、たくさんの部
品を組み立てる設計図を解明するのが社会学というものらし
いのだ。
さまざまな社会現象が、どのようなコンセプトの運動原理な
のかを、分解された学問を再構築して解明しようというのである。
しかし、結局は、運動原理としての、あるいは生き様としての
社会現象に与している人々のアイデンティティーというべき価
値観の解明が社会学の真相なのであろう。
幸福の科学の法原理も、現代社会学としての性格を持って
いるとも考えられる。
分解学ではなく、体系学と運動法則を示すところに真価が
あると思える。
自分という問題も、社会現象であり、社会学の対象であると
いえる。
自分がどのような価値観によって体系化され、どのような運
動法則を持ち、どのような社会的影響を持っているのか、これ
が自分を知るということでもあろう。
しかし、この問題をバイパスする兵法があるのではないか。
それが、信仰である。
幸福の科学の法を自分の価値体系とし、運動法則に仕立て
ることである。
巨大な幸福の科学体系の中にあって、部品としての自分の立
ち位置を発見することが自分社会学というべきことになろう。
次の転生まで見据えた探求になるのだろう。
思えば、自分という社会現象は、共産主義キリスト教の濁流に
飲み込まれそうになりながら、幸福の科学という法門にたどり着
き、信仰の安心立命を得たという軌跡ではあったろう。
次に目指すべき自分という社会現象は、大東亜戦争の悲劇を、
災い転じて福となす事業の一端を担うところにあろう。
その力の未熟はあるが、一片の花びらのように散りたいもので
ある。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党