どんたくを 夏一番が 吹き抜けり
中村 梅士 Baishi
昨日、どんたくの最後尾を一瞥して、博多湾の小旅行
から帰国した。
周到に準備をしても、必ず何かを忘れる。
今回は携帯電話を忘れた。
ある意味、娑婆を離れたとは言える。
非日常にリラックスしたはずだったが、旅の疲れは別
物らしい。
日常のポジションに戻りはしたが、今日はどうも走る
気がしない。
体の芯が疲労している。
今日は、写真の整理をし、新着の司馬遼太郎の霊対談
『愛国心を語る』を一読、続いて映画『バトルシップ』
を見たところで午後三時を過ぎた。
司馬遼太郎の霊言は初めてかと思ったが、6年前に初
霊言が出ていたのだった。
霊言に語られる思想は少しもぶれていない。
英雄を認めないのが左翼史観だということも繰り返さ
れている。
支配者以外に英雄があってはならないという平等主義
の呪縛である。
NHKの大河ドラマ史観も基本的に左翼史観である。
平清盛もそうだったし、今やっている「西郷どん」も
凡人西郷に他ならない。
もう、見る気がしない。
林真理子じゃなあ・・・。
テレ朝の女記者にやらせたセクハラ騒動や週刊誌政治
の洞察も、南北朝鮮の反日戦略のことも、そして、トラ
ンプ大統領の焦りと弱気も、共感、共感、共感の霊言だ
った。
それにしても、幸福の科学支部でさえ気概のない政治
状況では、確かに日本の滅亡は避けられそうもない。
司馬遼太郎の厳しい幸福の科学職員批判は六年前もそ
うだったのだ。
ところが、あまり変わっていない。
サラリーマン組織のぬるま湯に浸っていると言われて
も致し方あるまい。
支部はあって無きが如しである。
何がいけないのだろうか。
組織秩序に忠実であることが信仰心だと勘違いしてい
るのではないだろうか。
ある意味事なかれ主義のお役所体質になっているのだ。
その原因は、初期の頃の職員採用基準にある。
企業ブランド優先にあったからだ。
結果、おとなしい優等生の「にわか僧侶」指導体制に
なった。
今の若い職員も、最高ブランドに内定が取れたと思っ
たら大間違いである。
死に場所ができたことをこそ喜ぶべきなのだ。
軍隊組織に入隊したと考えるべきである。
幸福実現党本部は必死に頑張っているのだろうが、戦
略が間違ってはいないか。
投票箱からは英雄は出ないと言っているではないか。
議席を狙って有権者に媚びてはいないか。
手袋を手にはめて、手を振る必要などないはずだ。
選挙運動をするのではなく、支部総動員で国家的危機
と独立運動を訴えるべきではないか。
ところが、支部はほとんど革命行動には無縁である。
支部が日本独立運動の拠点であってこその幸福の科学
拠点ではないか。
政党候補者や幹部だというなら、会員に旗を配り、修
行の政治活動を呼びかけてはいかがか。
支部を動員し、その指揮を執るのが幸福実現党である。
支部長は当然、その先頭に立たねばならない。
本来、支部や精舎は革命拠点となるべきだからである。
毎日セミナーや塾をやっているわけではあるまい。
組織のない会員は書籍を頼りに「その時」を待つほか
はない。
世間に切り込めない凡庸な支部長には退場してもらう
べきである。
なんのための支部精舎なのかと思う。
支部長は幸福実現党の地域リーダーでなければならな
いとさえ思う。
それが祭政一致、政教一致であろう。
司馬遼太郎霊言のインフル―エンスが初夏の嵐のよう
に吹き荒れる。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party