手稲区に「前田」という町があります。
通り過ぎる機会は多いのだけど、ゆっくり歩いたことはそんなになかったように思います。
昨日紹介した「稲積公園」のある「稲積」は、正式な行政地名ではありませんが、こちらは、行政地名の付いた「前田公園」が整備されています。
ここもまた、広場が整備されていて、地域の人達の憩いの場となっています。
園内には、地域の歴史を記した表示板があります。
縄文時代の遺跡があるという話は初耳でした。
札幌市内において、遺跡があるという話はそんなに聞いたことがなかったように思いますが、知られざるスポットが沢山あるのかなと思いました。その辺を調べてみるのも面白そうです。
この記事で一番強調したかったのがこちら。
「前田」という地名について紹介されています。
昨日の「稲積」と同様、農場が設置されたことが地名の由来だったのです。
「前田農場」を開設した「前田利嗣」は、表示板にあるとおり、加賀(現在の石川県)前田家第15代当主。
明治維新による大変革のあおりで、加賀藩の大名や武士が大量に失業してしまったのを受け、利嗣は、藩士達に、授産(新たな職業先開拓と職業訓練)の道を付けようと決心し、明治17年(1884年)後志の「共和町」で士族79戸を開墾に従事させ、成功を収めました。
この成功を受けて、利嗣は札幌周辺における農場開設に意欲を燃やし、農民に土地を貸して小作料収入を上げるのではなく、直営の大農場を経営して、畑作物や乳製品などの農畜産物加工・販売で利益を上げようと考え、明治27年(1894年)には現在の北区茨戸で農場を買収し、翌28年(1895年)、総面積368ヘクタールと大変広大な「前田農場」を創設しました。
このことが由来となって、昭和17年(1942年)、「前田」という地名が誕生しています。
因みに、前田家が最初に開墾した共和町の地域にも「前田」という地名が付けられています。
※ 手稲区役所公式HPから引用
先程の表示板にもある、明治44年(1911年)に、東宮殿下(後の大正天皇」がこの地を視察したことを記す記念碑が建てられています。
この公園でもう一つ紹介したいのが、このサイロ。
農場が経営されていた当時、家畜の飼料を貯蔵していたものが、そのまま残されています。
中に入ることはできませんが、当時のままの外観だけでも、歴史を伝えるのに十分なものがあると思います。
「前田公園」のすぐ近くにある会館。
その一角には・・・、
このような記念碑が設置されています。
昭和6年(1931年)、北海道庁の「自作農創設維持資金貸付規定」が適用されたことによって、当時の「手稲村」は道庁から資金を借り受け、それを小作人に転貸する形で自作農の創設に努め、前田地区の51世帯が自作農として独立を果たしたことを記念するものです。
※ 手稲区役所公式HPから引用