首相が、建設中の原発の稼働も含みを持たせる、といった報道が出ていますが、本当ですかね?
TPP前向き発言が首相のクチから出たっていう報道もありますが、本当ですかね?
私は本当に難しいことの細部までは分かっていないのだけれど、手順が「雑」なのは、戸惑いを持つこちら側ではなく、我々がまた納得していないのに、何か別の都合でものごとを推進していこうとする側のなのではないか、と最近思う。
たとえば、朝日新聞の原発事故検証記事があったけれど、これも同じ雑さが見える。
原発事故の報道が「大本営発表」のようになってはいなかったか?
と自社記事を戒めている。
だが、本気で言っているのか、と呆れてしまう。
大本営発表に荷担したっていうのは、ありもしないことを歪曲して発表したものを、無批判にイケイケで乗ってしまった歴史のことだったんじゃないかしら?
一般の人の感覚と私の感じ方とは大分ズレがあるのかもしれないが、
今回の原発事故の政府発表にもマスコミ報道にも、「大本営発表」のようなメチャメチャな嘘は全く感じない。
枝野官房長官は、与えられた情報に基づいて、責任を上手に回避するゲームを、クレバーにやってのけたのじゃないか。
たぶん戦時中の言説なんかとは比較にならない鉄面皮のゲームが進行しているんだと思う。
細野大臣の「真面目そう」な語り口もそうだ。
今の政治家は「分かっててやっている」し、市民も「分かっててしらけている」。
どう考えても第二次大戦中の「市民」は、アメリカだって日本だって、こんな風に情報をいろいろ採れる状態じゃなかった。
「大本営発表みたいじゃないか」
ってのは、居酒屋のおじさんの酔言に過ぎないだろう。大手のマスコミが反省しているつもりなのかどうか分からないけれど、「雑」だなあ、と感じる。
そんなことは百も承知で政治家が言葉を操っているのに対して、マスコミはきちんと対抗しなきゃならないのに、「大本営発表」みたいな反省じゃあ、そりゃあ歯が立たないだろう、と素人でも分かる。
雑な反省をしている暇があったら、彼らが作為的に「無知」と「限界」を装いつつ、筋道をつけようとしている「政治的言説」にきちんと対抗しえる持続的で知的膂力を感じさせる追求をしてもらいたい。
TPP問題も同様だ。
マスコミはTPP問題に対して国民が抱えている大きな危惧に、少しも触れていない。
大本営発表というなら、こちらの問題だって、深刻な不作為をマスメディアがやっているのではないか。
原発報道で反省している暇があったら、もっと食いついて執拗に取材報道を粘り強くやってほしいし、TPP問題の「課題」を、こんなに政治が急いでいるのはおかしい、と徹底的に課題を洗い出してほしいものだ。
メリットとデメリットの両方が情報不足だし、語り尽くされていないと感じるのは私だけだろうか。
農業への影響、医療への影響、実際に「関税」がどこまで問題なのか、韓国のFTAの状況との比較はどうなっているのか。
原発事故の状況と同じように、TPPにおいても、企業優先で政府は不作為の不十分な説明を続けるのだとしたら、私達の生活の質はどこまで「落ちて」いくのか。
実は、生活の質が落ちること自体が問題なのではないと思う。
右肩上がりの幻想は、私達市民の中にまずもって根強い。
企業も政治家も経済学者も、もちろん「経済成長」なり「回復」なりによって問題が解決することをつい望んでしまう。
それは私達の「不安」や「幻想への期待」、「幻滅」を準備する素地になってしまうだろう。
でも、私達はそろそろそういう幻想ばかりを追うのではなく、リアルな右肩下がりの軟着陸における新たなクオリティの向上も複眼的に視野に収めつつ思考することが必要になってきているのではないだろうか。
絶望が足りない、とかいう抑圧的言説じゃなくて、ね。
TPPに参加しなければ大変だ、とかTPPは亡国だ、とどちらも喧しいが、急がせる話はだいたい「詐欺」の手口だ。
遅かったからダメになる、というのは、遅いことが思考停止になっている場合だけだろう。
遅いこと自体が問題だ、という思考の枠組みは、間違いなくそろそろ止めておいた方がいい。
今日の朝日新聞がEUの金融危機に対して「速度」が重要だ、という提言をしていたが、EU参加国の民主主義的決定の鈍重さに危機感を抱いているのはいいとして、結局「現状適応的にうまくやろう」という日本的苦言の域を出ていないのではないか、と他人さまながら心配になった。
たとえ多少乗り遅れても、自分たちの納得の方が絶対に大切だと思う。
問題なのはむしろ、思考停止をしたまま、狭い状況適応を目指して機会主義的に「勝ち馬に乗る」速度志向の方なのではないかしらん?
一刻も早い原発事故の収束を、とか一刻も早い復興を、っていうのは、基盤となる設計がきちんとしていて初めて意味を持つ。
事故が起こった瞬間とかならいざしらず、20年30年かけて粘り強く原発依存を脱していったり、新たな形の街や地域を作っていくには、速度と拮抗するだけの準備も忍耐も緻密な計画も必要なはずだ。
今は個人的な感想に過ぎないように聞こえてしまうかもしれないけれど、この「一刻も早く」っていうヤツはかなりのくせ者だと思うなあ。
今、ハンナ・アレントの『責任と判断』という遺稿集を読んでいる。
これを読むと、人々が、こぞって官僚的にその社会=国家組織に身を委ねて「自由」を見失い、そのことによって責任が消失してしまう「社会化」=「ペルソナ化」を、丁寧に彼女が読み解いていくプロセスが見えてくる。
大震災から半年。
私達は、正直もういっぱいいっぱいになっている。
もう余計なことを考えることが辛い。
何か新しいことに直面するたび、もう勘弁してほしい、という感情が先に立つ状態になっている。
比較する対象を持たないので正確なことは言えないが、職場が6回も引っ越して、やっと落ち着いたとはいえ仮設校舎での授業が数年にも及ぶ見通しで、滞っていた行事や会議が二学期に目白押し。授業内容は間違いなく遅延しているのに、全ては「普通」に進行していく……そんな中で、もう余計なことは何も考えたくない、というところに立たされているような気がしてならない。
被害妄想、みたいなものですかね?
でもね。
それでも脱原発の志向を見失ってはならないと思うし、たとえば疑問の残るTPPについて、徹底的に情報を集めて考え、発信していかねばならないとも思う。
円高とデフレ、経済成長とインフレ、為替と株の値動き、金融危機の現実などなど、大震災と原発事故以後、堰を切ったように、今まで思考停止して瞳をそばめていた事柄が怒濤のようにやってきているような気がしている。
でも、そういう「情報」を適切に振り分けながら、無視したり無感覚になったりするのではなく、ひとつひとつ「自分の考え」を鍛え上げ、うろうろしながら視点を磨いていく「溜め」が必要なのだろう、と思う。
先日聴いていた『水曜どうでしょう』の藤村ディレクターの副音声に、
「ローカル放送局のヤツが視聴率をいいわけにするのは逃げだ」
という名言があった。視聴率はもっも重要な指標に決まっているけれど、そんな数字自体はなんでもないんだと。番組が続けられれば、自分たちのやりたいことがきちんとやれていることの方が大事なんだと。
経済成長や原発事故の収束、電力確保のための原発再開、貿易立国ゆえの関税撤廃、といった思考停止のためのキーワードに依存して解決策にしがみつくのではなく、徹底的に自分自身の初期的衝動に繰り返し立ち返りつつ、なお、グローバルなもの、人知を超えたものと向き合いつつ粘り強く考えて行動していく「意志」と「知力」が必要なんだろう。
そのためにはバカバカしいようなこだわりと遊びと愛が要るのだろうね。
北海道ローカルディレクターの言も、スティーブ・ジョブスの2005年の有名な講演の決めゼリフ「バカであれ」も、たいして変わりやしないのが笑える。
初期衝動と仕事への愛、そして他者評価を気にせず、失うことを怖れないで未来を信じる。
私は、私達はそういう場所に立てているのだろうか。
被災地で、さまざまなものにこづき回され、唯一豊かなはずの自然さえ奪われて正直よれよれの毎日の中で、それでも持ち続けるべき「初期衝動」っていったいなんだったんだろう?
そんなことを、小説の読めない身体で(再開しつつはあるものの)、考えつづけている。
TPP前向き発言が首相のクチから出たっていう報道もありますが、本当ですかね?
私は本当に難しいことの細部までは分かっていないのだけれど、手順が「雑」なのは、戸惑いを持つこちら側ではなく、我々がまた納得していないのに、何か別の都合でものごとを推進していこうとする側のなのではないか、と最近思う。
たとえば、朝日新聞の原発事故検証記事があったけれど、これも同じ雑さが見える。
原発事故の報道が「大本営発表」のようになってはいなかったか?
と自社記事を戒めている。
だが、本気で言っているのか、と呆れてしまう。
大本営発表に荷担したっていうのは、ありもしないことを歪曲して発表したものを、無批判にイケイケで乗ってしまった歴史のことだったんじゃないかしら?
一般の人の感覚と私の感じ方とは大分ズレがあるのかもしれないが、
今回の原発事故の政府発表にもマスコミ報道にも、「大本営発表」のようなメチャメチャな嘘は全く感じない。
枝野官房長官は、与えられた情報に基づいて、責任を上手に回避するゲームを、クレバーにやってのけたのじゃないか。
たぶん戦時中の言説なんかとは比較にならない鉄面皮のゲームが進行しているんだと思う。
細野大臣の「真面目そう」な語り口もそうだ。
今の政治家は「分かっててやっている」し、市民も「分かっててしらけている」。
どう考えても第二次大戦中の「市民」は、アメリカだって日本だって、こんな風に情報をいろいろ採れる状態じゃなかった。
「大本営発表みたいじゃないか」
ってのは、居酒屋のおじさんの酔言に過ぎないだろう。大手のマスコミが反省しているつもりなのかどうか分からないけれど、「雑」だなあ、と感じる。
そんなことは百も承知で政治家が言葉を操っているのに対して、マスコミはきちんと対抗しなきゃならないのに、「大本営発表」みたいな反省じゃあ、そりゃあ歯が立たないだろう、と素人でも分かる。
雑な反省をしている暇があったら、彼らが作為的に「無知」と「限界」を装いつつ、筋道をつけようとしている「政治的言説」にきちんと対抗しえる持続的で知的膂力を感じさせる追求をしてもらいたい。
TPP問題も同様だ。
マスコミはTPP問題に対して国民が抱えている大きな危惧に、少しも触れていない。
大本営発表というなら、こちらの問題だって、深刻な不作為をマスメディアがやっているのではないか。
原発報道で反省している暇があったら、もっと食いついて執拗に取材報道を粘り強くやってほしいし、TPP問題の「課題」を、こんなに政治が急いでいるのはおかしい、と徹底的に課題を洗い出してほしいものだ。
メリットとデメリットの両方が情報不足だし、語り尽くされていないと感じるのは私だけだろうか。
農業への影響、医療への影響、実際に「関税」がどこまで問題なのか、韓国のFTAの状況との比較はどうなっているのか。
原発事故の状況と同じように、TPPにおいても、企業優先で政府は不作為の不十分な説明を続けるのだとしたら、私達の生活の質はどこまで「落ちて」いくのか。
実は、生活の質が落ちること自体が問題なのではないと思う。
右肩上がりの幻想は、私達市民の中にまずもって根強い。
企業も政治家も経済学者も、もちろん「経済成長」なり「回復」なりによって問題が解決することをつい望んでしまう。
それは私達の「不安」や「幻想への期待」、「幻滅」を準備する素地になってしまうだろう。
でも、私達はそろそろそういう幻想ばかりを追うのではなく、リアルな右肩下がりの軟着陸における新たなクオリティの向上も複眼的に視野に収めつつ思考することが必要になってきているのではないだろうか。
絶望が足りない、とかいう抑圧的言説じゃなくて、ね。
TPPに参加しなければ大変だ、とかTPPは亡国だ、とどちらも喧しいが、急がせる話はだいたい「詐欺」の手口だ。
遅かったからダメになる、というのは、遅いことが思考停止になっている場合だけだろう。
遅いこと自体が問題だ、という思考の枠組みは、間違いなくそろそろ止めておいた方がいい。
今日の朝日新聞がEUの金融危機に対して「速度」が重要だ、という提言をしていたが、EU参加国の民主主義的決定の鈍重さに危機感を抱いているのはいいとして、結局「現状適応的にうまくやろう」という日本的苦言の域を出ていないのではないか、と他人さまながら心配になった。
たとえ多少乗り遅れても、自分たちの納得の方が絶対に大切だと思う。
問題なのはむしろ、思考停止をしたまま、狭い状況適応を目指して機会主義的に「勝ち馬に乗る」速度志向の方なのではないかしらん?
一刻も早い原発事故の収束を、とか一刻も早い復興を、っていうのは、基盤となる設計がきちんとしていて初めて意味を持つ。
事故が起こった瞬間とかならいざしらず、20年30年かけて粘り強く原発依存を脱していったり、新たな形の街や地域を作っていくには、速度と拮抗するだけの準備も忍耐も緻密な計画も必要なはずだ。
今は個人的な感想に過ぎないように聞こえてしまうかもしれないけれど、この「一刻も早く」っていうヤツはかなりのくせ者だと思うなあ。
今、ハンナ・アレントの『責任と判断』という遺稿集を読んでいる。
これを読むと、人々が、こぞって官僚的にその社会=国家組織に身を委ねて「自由」を見失い、そのことによって責任が消失してしまう「社会化」=「ペルソナ化」を、丁寧に彼女が読み解いていくプロセスが見えてくる。
大震災から半年。
私達は、正直もういっぱいいっぱいになっている。
もう余計なことを考えることが辛い。
何か新しいことに直面するたび、もう勘弁してほしい、という感情が先に立つ状態になっている。
比較する対象を持たないので正確なことは言えないが、職場が6回も引っ越して、やっと落ち着いたとはいえ仮設校舎での授業が数年にも及ぶ見通しで、滞っていた行事や会議が二学期に目白押し。授業内容は間違いなく遅延しているのに、全ては「普通」に進行していく……そんな中で、もう余計なことは何も考えたくない、というところに立たされているような気がしてならない。
被害妄想、みたいなものですかね?
でもね。
それでも脱原発の志向を見失ってはならないと思うし、たとえば疑問の残るTPPについて、徹底的に情報を集めて考え、発信していかねばならないとも思う。
円高とデフレ、経済成長とインフレ、為替と株の値動き、金融危機の現実などなど、大震災と原発事故以後、堰を切ったように、今まで思考停止して瞳をそばめていた事柄が怒濤のようにやってきているような気がしている。
でも、そういう「情報」を適切に振り分けながら、無視したり無感覚になったりするのではなく、ひとつひとつ「自分の考え」を鍛え上げ、うろうろしながら視点を磨いていく「溜め」が必要なのだろう、と思う。
先日聴いていた『水曜どうでしょう』の藤村ディレクターの副音声に、
「ローカル放送局のヤツが視聴率をいいわけにするのは逃げだ」
という名言があった。視聴率はもっも重要な指標に決まっているけれど、そんな数字自体はなんでもないんだと。番組が続けられれば、自分たちのやりたいことがきちんとやれていることの方が大事なんだと。
経済成長や原発事故の収束、電力確保のための原発再開、貿易立国ゆえの関税撤廃、といった思考停止のためのキーワードに依存して解決策にしがみつくのではなく、徹底的に自分自身の初期的衝動に繰り返し立ち返りつつ、なお、グローバルなもの、人知を超えたものと向き合いつつ粘り強く考えて行動していく「意志」と「知力」が必要なんだろう。
そのためにはバカバカしいようなこだわりと遊びと愛が要るのだろうね。
北海道ローカルディレクターの言も、スティーブ・ジョブスの2005年の有名な講演の決めゼリフ「バカであれ」も、たいして変わりやしないのが笑える。
初期衝動と仕事への愛、そして他者評価を気にせず、失うことを怖れないで未来を信じる。
私は、私達はそういう場所に立てているのだろうか。
被災地で、さまざまなものにこづき回され、唯一豊かなはずの自然さえ奪われて正直よれよれの毎日の中で、それでも持ち続けるべき「初期衝動」っていったいなんだったんだろう?
そんなことを、小説の読めない身体で(再開しつつはあるものの)、考えつづけている。