宣言が寝言に
わかき歯科がわきが歯科に
たまごクラブがたこクラブに
最近見間違えや読み間違えが増えている。
物事の認知には、それなりの蓄積が前提となるだろう。その蓄積によるパターン化は、私たちに世界像受容の速度と安定感をもたらしてもいるはずだ。
しかし、それが「見たとおり」より、「思い込み」優先になりはじめているとしたら?
他方、以前はよく分からなかったことが最近「物事が分かってきた」という実感もある。以前は全く読めなかった古典や哲学書が、ぐっと身近に感じられるようになってきた。
たしかに、土佐日記を読んでも花伝書を読んでも面白い。
あの退屈だった徒然草やグダグダでとてもじゃないがまじめに読む気がしなかった蜻蛉日記でさえ、しみじみ読み味わえるようになってきた、と思う。
でもその根底に
宣言→寝言
わかき→わきが
たまご→たこ
といった恣意的変換があって、幾分かの焦点ボケを前提とした都合の良い「理解」が進んでいるだけではないのか、という疑念も増してくる(苦笑)。
目が悪くなって活字や看板が見えなくなっただけ、なら構わない。
が、外部情報を正確に把握できなくなった結果としての都合の良い勘違いが、「発見」と「理解」を錯覚させているのだとしたらいささか滑稽でもあろう。
でもまあ。
そういう「スリップ感」のある「理解」=「誤解」も悪くないのかもしれない、とも思い始めている。
私たちの精神は仮に神様から与えられたモノだとしても、別に神様のようにすべてが分かるようにはできていないのだろうし、考えてみれは「全てが分かる」っていってはみても、別にそんな人格神がどこかにいるわけでもないだろうし。
むしろ臨界面の「摩擦」をリアルタイムで感じながら、ってのが世界を生きるライブ感覚なのかもしれない。
違いを測るという行為は、こちらが基準値を持っているということにはならないし、他方、一つの体系の構造から別の体系の構造にジャンプすれば、結局「内部」を生きることに変わりはなくなってしまう。
そのあたり、言いまつがいの周りをうろうろしてみたくなる。
スリップ感のある「溜め」
の存在は、外部に感応するための大切な「場所」の確保なのかもしれないし。
無論、ただ反応速度が鈍くなり、現実の変化に対応できなくなった「遅延」の結果にすぎないのかもしれないけれども。