龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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天海祐希・織田裕二『アマルフィ』を観た。

2012年02月10日 00時55分11秒 | 大震災の中で
 天海祐希が好きだ。織田裕二も嫌いじゃない。佐藤浩市は無論いい役者だ。

 でも、この3人を並べて映画を撮るのは結構難しいんじゃないか?

 そう思った。加えてイタリアの風景も主役にしなきゃならない。

 脚本をもう少し練り上げて、さらにストーリーを3回ぐらいひねっても良かったのじゃないか。

 天海祐希は確かに美しいけれど、「絵」として撮ったら動きが消える。勿体ない。
 佐藤浩市の動機を誰か他の役者に調べさせ、セリフで喋らせるのも勿体ない。
 スケジュールが押さえられなかったのか?とか呟いてしまいそうだ。

 映画にかけられたはずの「時間」の濃密さが希薄なのだ。
 織田裕二の映画はこれが4本目だろうか。『ホワイトアウト』の時にも感じた傑作になり損ねる無念さを、ここでもまた彼の映画は繰り返している。織田とか天海とかは、彼らの持っている濃度の良さは、もっと速度を上げたり、もっと遅くしたりして具体的に画面を前後に揺すらなくていけない、と思うんだけど、どうなんでしょうね。
 そういう無茶には耐えられる素材だよねえ。

 ま、観てしまった私の側の問題、なのかもしれないのだが。
 でも、天海祐希を観たいから(笑)、しょうがないのです。
 

『鋼の錬金術師』DVDを一気に鑑賞した。かなり面白かった。

2012年02月10日 00時41分12秒 | 大震災の中で
先週半ばからずっと、風邪で半分寝込みながら過ごしていました。
特に土日はずっと寝ずっぱり。
しかし、背中が痛くて眠られず、体力消耗の週末。

でも、そのおかげで『鋼の錬金術師』(最近の方)を一気に第1巻~第15巻まで(60話ぐらい?)一気に見通すことができました。

最初は1話~10話がGyaO!で無料配信されていたので、寝床でiPhone視聴をしていたのですが、すっかりハマッてしまい、翌日朝イチ微熱を押してTSUTAYAへ。前半12巻を借りてだいたい一日で見終わりました。
ざっと1200分超の勘定になるかな。

『鋼の錬金術師』はかつて大ヒットした荒川弘という人の漫画が原作。

今の荒川弘の代表作は北海道の農業高校の青春ドラマを描いた『銀の匙』だそうで(雑誌「ダ・ヴィンチ」情報です)。

亡くなった母親を取り戻すため、錬金術を学んでいた幼い兄弟が禁断の「人体錬成」を行ってしまう。
その結果兄は片腕と片足、弟は身体全部を「向こう側」に持って行かれてしまう。

失われた肉体を取り戻すため、兄弟は最年少で国家錬金術師の資格を取り、「賢者の石」を探しはじめるのだが……

ってかんじで始まります。

まずは少年の教養小説っていうか「成長物語」でもあり

強大な力が込められているといる賢者の石を求める「聖杯探求」の物語

でもあります。そしてまた

その賢者の石の力を利用して人造人間をつくり、国家を自分の目的のために操ろうとする「お父様」なるモノと対峙する「王殺し」の物語

でもあるわけで、それらが密接に結びついていく半ばまでの展開は、本じゃないけど「巻措く能わざる」の感がありました。

後半、悪による国家破壊を阻止する話になると、「悪」の柄の大きさに主人公たちの動きも見合ったものになっていってしまい、それはちょっと「おじいさん予備軍」としては「もうちょっとお願いしたい」というところも出てくるのだけれど、飽きさせることなく適切な長さで終わってくれたのは、「少年雑誌人気連載」が抱える宿命的「正しい終わり方の喪失」を免れていて、好感は持てました。

物語って、後半が難しいんだよねぇ。
主人公の子供性が、敵の「老年」に転移・転写していくっていうのは、どうなんだろうなあ。
村上龍の『歌うクジラ』
もそういうところはあるよね。

快楽目標達成的エンジンは、どうしても「成長」を続けて「大人」から遠ざかる宿命なのかしらん。
でも、誰かがそれを背負わないと物語は動いていかないんだよね、きっと。

そこは難しいなあ。
そしてその話は、『鋼の錬金術師』のおもしろさの問題ではなくなってしまいますね。

まだ最終巻がレンタル中なので、最後の3or4話はまだ見ていません。
終了したらまた感想を。

考えてみれば、稀代のB級SF傑作アクション『ゼイラム』1・2も風邪で高熱を出したときに呼び寄せた作品だったし、『攻殻機動隊』シリーズ数十本を一気鑑賞したのも、風邪で寝込んだときだったのを思い出した。
風邪で発熱したときには、そーゆーものが身体に合っているということなのだろう。

適度に荒唐無稽で、適度に面白くて、適度にストーリー上のサスペンスもある。

でも、それが作品全体を通してその適度感が貫かれるのは結構難しい。

一緒にかりたチャンバラアニメの『ストレンヂア』は、馬にのった「追っかけシーン」の構図と動きなんて鳥肌ものだったけれど、全体としては謎は「明」の国のストレンジャーに「おんぶにだっこ」。
『鋼の錬金術師』はその点、最初は父親の失踪、次は母親の死、次は自分達の肉体の欠損、身近な人の謀殺、「国家」の戦争がもたらす喪失、と数話ごとに「死」=欠落のイメージをスライドさせながら丁寧に積み重ねていってくれるので、主人公の「賢者の石」を求める欲望もしだいに彼らの中心からずれていくことになる。
そこは買える。

問題は、物語を収斂させていく都合上、敵が「聖杯」と「王の権力」を二つながらに掌握し、その結果世界を死に至らしめようとするときに、柄が「国家」と大きいのに、それが「悪」=王に収斂していってしまうのは、どうにも話の据わりがよろしくなくなっていってしまうという点だ。

子供がないものねだりをするのは分かる。

大人がそれをやったら、「擬似子供」になってしまう。その辺りの処理は、『大人帝国の逆襲』とか『童夢』とかの方がやっぱりすごい。『天空の城ラピュタ』のムスカを考えてもいい。
「夢」を見る大人の処理っていうのは、「子供」が成長する子供の物語においては、けっこう課題だなあ、と個人的に思う。森絵都の『つきのふね』の青年の狂気と音楽家の少年の対比などを参照してもよい。

そこがきちんと描けるとすごい「作品」になる。というか、そこに凄さがほしい。

大人をどう描くのか。みんな「子供」になっていくのか。錬金術がそこにどうかかわっていくのか。
いろいろ考えながら、楽しく『鋼の~』をみた週末でした。