龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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新型レガシィツーリングワゴンを買った(3)

2012年02月29日 23時13分01秒 | ガジェット
 私はとりあえず「衝動」と「ムダ」と「浪費」と「消費」と「依存」と「病気」と「贅沢」の関係が知りたいのだ。

 クルマはかつて一家に一台だった。

そういえば「父親のクルマをどうやって借りるか」は、アメリカ映画の青春モノでは定番の課題でもあった。

遅ればせながら、私もそういうところをくぐり抜けて大人になった世代だ。

だから就職したときの最重要課題は、父親の車を借りずに済むよう一刻も早く自分のクルマを買うことだった。
クルマさえあれば自由が手に入る。クルマが良くなれば生活の質も上がる。いや、生活の質が上がれば自然といいクルマもそのシーンに合わせて買い換えるべきだ、そんな消費行動の表象として、クルマは機能し続けてきたような気がする。

それから30年、ライフスタイルというか、生活のシーンに合わせてクルマを買い換えてきた。
2BOXのFFを乗り継いで独身から結婚に到り、子供が出来てから大きな1BOXワゴンに乗り換え、二人の息子が大学にいってからダウンサイジングしてこんどは1.3リッターのクルマになった。

そこまでは、自分達の世代なら誰もが通る「流れ」だった。

しかし、どういうわけかしばらく前から、しだいにクルマがそんなライフサイクルから離れてきたという感じがする。

子供達の世代(今の20代)は、クルマにこだわらない。田舎暮らしだから、クルマはもちろん必要不可欠なのだが、必要最低限の軽自動車で十分だ、と口を揃える。

10年~13年ほどの低年式の(資産価値や趣味性は全くない)純粋な移動手段として見ている。

一方、その世代を育て上げた父親の私は、クルマについて言うなら、逆に、どんどん、実用性から離れていこうとしているかのようだ。

これは「私」の年齢の問題なのだろうか。それとも大きな「産業構造」とか、「時代性」とかの問題なのだろうか。

さて、クルマは一家に一台から一人一台になった。
そこでクルマの数は「飽和」すると思っていた。
ところがどうもそこでは終わらないようなのだ。

たとえば、眼鏡は嘗て壊れたら(あるいは眼に合わなくなったら)買うものだった。
ところが、いつのまにか(老眼が進んで買い換えのスパンが短くなったこともあるかもしれないけれど)、眼鏡を複数持つようになった。

あるいは、通信端末(電話、ですね)は一家に1台あれば良かった。ところか次第に一人一台になり、いつのまにかiPad2なんぞという端末を追加購入してしまった。

そして今回はクルマの2台持ち、である。我ながら、いい加減にしてほしい、と思う。

冷静に考えると、本だって、こんなに大量のテキストを身の回りに置いておく必要が果たしてあるのだろうか、という疑問を抱く。
今では、古典テキストが手元に何冊かあって、そのそれぞれに対して簡潔にして要を得た注釈書が数冊もあれば、あとはブックオフで流通する一冊100円の推理小説を渉猟しておけばそれで足りる。
第一、残された人生の時間で、さほど多量の本が読めるはずもない。

さて、ようやくクルマの話である。

最近は「趣味」とかいう便利な言葉で済ませてしまうけれど、ちょっと前までは「道楽」という言葉があった。

益体(やくたい)もないものに「入れあげ」て「身上を潰す」ようなものを「道楽」といい、そういう馬鹿を「道楽息子」などと落語では読んだりもしていただろう。

そういえば、人によっては庭や家を設計して作るのが「趣味」だ、なんて人もいるらしい。
人は時に、そういうなにかどうでもいい不要のものに「アディクション」(惑溺)してしまうことが不可避なのか。

さてでは、役に立つことと「楽しみ」とはどんな関係があるのか。役に立たないことと「快楽」との関係、といってもいいのかもしれないけれど。

工業製品としてのクルマを購入し、移動の道具としてではなく楽しむ「楽しみ」。
万年筆や高級腕時計を購入し、筆記用具や時間を知るという道具としてではなく楽しむ「楽しみ」。

ようやく、「ムダ」な楽しみを楽しむ「老人」の場所に立とうとしているということだろうか。

新型レガシィツーリングワゴンを買った(2)

2012年02月29日 22時24分58秒 | ガジェット
 今日、卒業式の予行があって、生徒達は午前中一杯、寒い体育館に缶詰になりながら、立ったり座ったり歌を歌ったり返事をしたりと、不思議な「日本的光景」(どこの国にも式典の練習とかあるのかしらん。あ、北朝鮮にはありそうだね。オリンピックとかもリハーサルはするか。でも、リハーサルをするのってたいてい「見世物」だよね?ショーとか。卒業式は「見世物」ジャンルとは違うような気もするのだが。そのあたりどうなんでしょう?)を目の当たりにしつつ、しかし降雪のせいで生徒の出入りが手間取ったり、予行が中断したりと、意外に暇があったので、

ジル・ドゥルーズ『ヒューム』(ちくま文庫)

をその合間にさっくり読了してしまった。あまりのリーダビリティの高さに、また自分の脳味噌のボケが進行して、「分かることだけを分かる」ようになってしまったか、と心配にもなるのだが、確認のため家に戻ってから同じくドゥルーズの

『スピノザと表現の問題』

を開いたら、ほとんど理解できなかったので、ちょっとほっとした。
『ヒューム』は本当に読みやすい。
というか短いしね。

早わかり的に言ってしまうと、ヒュームっていうのは『懐疑論』の親玉みたいに倫社の教科書では出てくるのだけれど、『懐疑論』がたどり着くのはむしろ「道徳」だって言ってるのね、ドゥルーズは。

それって常識なんですかね?哲学史的には。
なにせ体系的な勉強をしていない素人には、誰かが誰かのことを書いているときそれがその誰かのことなのかもう一人の誰かの思想のことなのかが区別できず、まあそういう書く誰かと書かれている誰かの区別をつけるには哲学史なんて実はあんまり役に立たないぐらいのことはもう良く分かっているはずなのに、誰かに早わかりの解説をしてみてほしくなるということは間違いなくあって、たいていの場合こういう文章は読み終えてもすっきりしないのだが、それにしてもこのドゥルーズの『ヒューム』はあまりにも分かりやすいのだ。

この「道徳」と「神様」の距離を考えながら、次はやっぱりライプニッツ早わかりの方にスライドしていかねばならない、という感じだ。
ただし、文庫で買って積んである次のドゥルーズ本は『ニーチェ』。
私はニーチェ関連本は恥ずかしながらただの一冊も手に取ったことがない。

たぶん一生ニーチェのテキストはもちろん、ニーチェについて論じた本も読むことはないだろうと勝手に思っていた。
しかし、ドゥルーズの「予習」をするために、節を曲げてこの『ニーチェ』は読んでみようと考えている。

考えてみれば、読書なんてたまたまの偶然の出会いによってしか開かれない扉のようなものだ。
分かっていることなら読まなくても良い。全く理解できないのなら、読みようもないだろう。
その「ズレ」と「同一性」の匙加減の絶妙さは、間違いなく読書の醍醐味の一つではある。

文化という基盤、共同体の前提や時代の空気といったものににアクセスしつつ、それらとの距離において固有の「様子」を示す表現の不思議さ、とでも言えばいいのか。


さて、話をしたいのは新型レガシィツーリングワゴンを買ったという話なのだが、なかなかそこにたどり着かない。
二週間前まではクルマを買おうなんてことはみじんも考えていなかったわけだから、典型的な「衝動買い」だ。
しかもお値段だって安くはない。

人間・貨物の運搬装置としての自動車なら既に手にして日常使っているわけだし、「贅沢」としてのオープンカーさえ持っている。
その上なぜ下取り交換するのではなく、新型車を買い増さねばならないのか。
給料も下がるというのに。

『ヒューム』とか読んでる場合じゃなくて、その衝動こそが問題なんじゃないのか?
いや、あるいはもう既に「問題外」じゃないのか?
そんな風にも思うのだ。

身近な年寄りの話を聞くにつけても、要りもしないものを買い出したらボケの始まり、という話である。

50台半ばでボケを怖れるのもできの悪い「自虐ネタ」めいているが、昨日の夜、本屋に行って目的の本が見つからず、その合間にふと手にした別の本を買って家に戻ってきたら、助手席に置いてある袋に入ったその本のタイトルはおろか、ジャンル・内容さえ全く思い出せない、となると、ことは冗談めかしていても実は深刻なのではないか、と思ってもみたくなろうというものではないか。

1000円足らずの衝動買いだったら、アマゾンで数十回クリックボタンを連打したところでたかが知れている。
まあ、考えてみれば、購入したクルマの金額と、書籍の総金額を比較してみると、にわかに優劣はつけがたいかもしれない。
毎月数万円単位で本を買い続けていれば、30年で軽く800万ぐらいは超えてしまうだろう。それ以外に全集本や大型の辞書だけでも100万単位にはなる。

クルマは下取りしつつだから単純には言えないが30年間に1000万超ぐらいは使っただろうか。

冷静に計算してみると、大した違いはないものだ。
いや、まて。
「書籍」から「情報」とジャンルを少し広げて、パソコンや携帯をこれに含めると、さらに数百万。
クルマを超える金額になりそうだ。

これは、豊かさなのだろうか、贅沢なのだろうか、終わりなき消費の依存なのだろうか。あるいは平凡きわまりない暇つぶしのコストなのか。
結局のところ、人生を書籍とPCとクルマとに費やす、なんていうのは、私の世代ではあまりに平凡なことなのかもしれないが。




新型レガシィツーリングワゴンを買った(1)

2012年02月29日 21時47分45秒 | ガジェット

 この数年来マツダロードスターというクルマに乗っている。
FRライトゥエイトオープンツーシータ-スポーツカーというカテゴリのクルマだ。

出会いは一瞬だった。
新型デミオの評判がいいので、冷やかしにたまたまマツダのディーラーに行って試乗した。
戻ってきて車を置くと、その横にたロードスターがある。

「乗ってみますか?」
と営業マン。
「いや、マニュアルは20年も乗ってないから」
と私。
「いや、大丈夫です。ちょっとだけ乗ってみましょうよ。遅いですけど」
と妙なことを言う。スポーツカーなんだから遅いわけはないだろう。第一、私の人生にオープンカーなんて関係あるわけがない。
「じゃあちょっとだけ」
と興味本位で答える。

数分後、角を3回曲がったところでほぼ購入を決めてしまった。
それほどに運転するのが楽しかったのだ。

いや、正確に言えば、その時私はクルマの免許を取って30年間で初めて、車を運転すること自体の悦びを知った、というべきなのかもしれない。
とにかく、屋根が開いているっていうのはとてつもない衝撃だったし、車の重心が座席の近くにあると、これほどまでに車の動きと自分が一体化するというのも初めての経験だった。

クルマを運転することがこんなにも「贅沢」なことなのだと、初めて体験した瞬間だった。

それ以来4年弱、8万キロほどこの小さなオープンカーを駆って、北は下北の大間から南は阿蘇・高千穂まで思う存分走ってきた。

このロードスターは不思議なクルマである。
家に戻ってきてエンジンを切り、外に出てドアを閉めた瞬間に、またどこかに走りに行きたいと思い始める、そんな車なのだ。

私は、このロードスターと、「添い遂げる」つもりだ。
最後に道路の上でエンジンが止まり、走れなくなって、部品を取り寄せることができない、となるまでは一緒に走ろうと思っている。

クルマ好きではあるから、新型車が出れば試乗をしたりもし、何度か別の車を購入しようとしたこともあったが、この車を下取り車として手放すことを考えると、最終的にそれは「ありえない」選択だと身に沁みてくる。

もちろん、BMWが誇るオープン2シータ-プレミアムスポーツのZ4などで高速道路を走ると、車体道路に吸い付くように安定しているし、十分な馬力のエンジンを回しきると、風景がどんどん後ろに流れていき、異次元空間を滑走しているような「快感」が訪れる。

そういうときのZ4は、我がロードスターなんぞとは比較にもならない圧倒的な気持ちよさだ。

工業製品はより多くお金を出して購入・消費すれば、より快適なもの、より楽しいものを手にすることができる。
そう考えると「コストパフォーマンス」とは、貧乏人の言い訳、とも見える。

しかしお値段に応じた階段を上るような「比較」、相対的な金額に換算できるような「気持ちよさ」のリニアな増大には、正直なところ、あの初めてロードスターに乗ったときのような圧倒的「差異」の衝撃は存在しない。

私にとっての「異文化衝撃」は、マツダロードスターによって引き起こされたのであって、どんなに快適で、比較優位があろうが、Z4によってもたらされたのではない。
その「たまたま」性が、案外大切なのではないか。

歴史をさかのぼると、最初イギリスで安価なスポーツカーとして始まったライトウェイトスポーツというジャンルが、安全性重視の自動車業界に押されて消滅したあと、マツダの技術者が物好きにも、敢えてその消失したジャンルに挑んで開発し、世界中で大ヒットしたのがロードスターだったのだそうだ。
実は値段も倍以上するBMWのZ4は、マツダロードスターの追随者だったのだという。

貧乏人ゆえのロードスター、というのが、ムダで贅沢きわまりないオープンカーのジャンルの中では常識だ。
私が「いつか乗りたい」といって友人のひんしゅくを買った「ポルシェボクスター」だって、お金持ちの間では「プアマンズポルシェ」と言われていたこともある。

でも、「ポルシェボクスター」はポルシェの中では唯一無二とも言うべき超バーゲンセールの二人乗りオープンカーだ。


最初にZ4に乗っていたら?
初めてのオープンがボクスターだったら?

という疑問はもちろん残る。
でも、私が初めてであったオープン2シータ-ライトウェイトスポーツはロードスターだったし、今もこのロードスターに深い愛着を抱いている。それは技術力とか技術者魂とかも重要だけれど、「たまたまそこで出会った」ってことがけっこう大事な要素なのかもしれない、とも感じている。

とにかく、ちょっと街場の本屋さんまで買い物にいくのでも、極端な話、コンビニまで飲み物を買いに行くのに乗っただけでも楽しいのだ。


Z4でもボクスターでもそりゃ楽しかろう。
誰かがくれるなら貰ってあげよう。
そういう出会いがあるのならもちろんウェルカム、である(笑)。

私はこのロードスターと出会って、そして十分な贅沢を味わって、幸せだ。
それで十分。

ま、とにかく。

第一、屋根を開けて走れる開放感と爽快感。
第二、ハンドルを切ると自分を中心に軽々とコーナーを回ってくれる軽量FR車の「人馬一体」的感触。
   (バイクの方が無論Gも体感できワクワク度合いは大。オープンカーはむしろ「露天風呂」的なゆるくぬるい贅沢かも)

この二つを手放すことはもうできそうにない。

さて前置きが長くなった。
今日書きたいのはロードスターの話ではない。
それほどまでに気に入ったクルマがありながら、スバル(富士重工)のレガシィツーリングワゴンという車のことが書きたいのだ。