風邪の熱と背中の痛みに捉えられ、ここ一週間は親鸞どころではなかった。
病気は、思考を肉体につなぎ止める(笑)
その前の週までは親鸞の『教行信証』で頭の中がいっぱいだったのに、風邪を引いたら、熱と痛みが「世界」の第一主題になってしまった。
病気はまた、日々の仕事(ルーチンワーク)に支障をきたすから、ますます神様や仏様のことなんぞ考えちゃいられなくなる。
まず生活。
朝起きて仕事にいけるかどうか、プレハブ(と言うことは鉄板で囲まれた断熱材が全くない囲いの中で1日暮らす、ということ)で体力が持つかどうか、病院に行く時間と体力があるか、飯は食えるか、体力を気遣った分、溜まっていく仕事をいつ処理するのか、だいいち授業4コマしゃべり抜くまで声がもつのか?
また、寝てたら寝ていたで、どんどん体力は落ちていくのが分かる。回復・復帰するためには、適切な負荷を体にかけなければならないのだが、それがまた難しい。取り敢えず食べないと持たないけれど、どうしても血糖値は上がり気味になる。
そんなことばかりの一週間だった。
さて、ふと思い出すと、被災してからこのかた、目の前のことをこなすのが精一杯の一年だったような気もしてくる。
もちろん、あまりにも大きな事件だったから、思わず「神様」について考えたりもしたけれど、生活レベルでは目の前のことに追われた日々だった。
むしろ、目の前の現実についての思考と世界について考えさせられる根源的思考とが極分化しつつ、複眼的にモノを見、コトを考える習慣がついたということかもしれない。
それも「習慣」か。
一週間ブログを書かないでいると、その複眼バランスが崩れた感じがして、誰に頼まれたわけでもないのになにか落ち着かなくなっていた。
習慣には依存性があるということでもあるのかしらん。
まあでも、習慣って大切だとも思う。
繰り返しが私たちの生活の自明性を支えるのだからね。
だからこそ何を繰り返すのかは、注意深くフィードバックして考えねばなりません。
どの依存症を選択するか。人生は悩ましい。
日常だけでも物足りないし、物語をDVD一気借りで満喫しただけでも不十分。
私にとっては読むにしても書くにしても、テキストと向き合うことが一番飽きのこない習慣になった。
肉体的な目の衰えが気になるところだけれど、そして風邪ひとつでリズムは崩れてしまうけれど、とりあえず
「読む快楽と書く困難」
を与えてくれた神様に感謝しておきたい。
日常を生きることがテキストと向き合うことだ、というのは、いささか病気というか、いくぶんかは「習慣」からズレたこと、になるのかもしれない。
「習慣」って前意識、みたいなものだから。
印刷のズレたテキストを読むこと。もしくはそういうメガネをかけて多重な像として見つめ続けること。
なにを定位して何をズラすか。習慣とはいえ、一筋縄では行かないようだ。
病気は、思考を肉体につなぎ止める(笑)
その前の週までは親鸞の『教行信証』で頭の中がいっぱいだったのに、風邪を引いたら、熱と痛みが「世界」の第一主題になってしまった。
病気はまた、日々の仕事(ルーチンワーク)に支障をきたすから、ますます神様や仏様のことなんぞ考えちゃいられなくなる。
まず生活。
朝起きて仕事にいけるかどうか、プレハブ(と言うことは鉄板で囲まれた断熱材が全くない囲いの中で1日暮らす、ということ)で体力が持つかどうか、病院に行く時間と体力があるか、飯は食えるか、体力を気遣った分、溜まっていく仕事をいつ処理するのか、だいいち授業4コマしゃべり抜くまで声がもつのか?
また、寝てたら寝ていたで、どんどん体力は落ちていくのが分かる。回復・復帰するためには、適切な負荷を体にかけなければならないのだが、それがまた難しい。取り敢えず食べないと持たないけれど、どうしても血糖値は上がり気味になる。
そんなことばかりの一週間だった。
さて、ふと思い出すと、被災してからこのかた、目の前のことをこなすのが精一杯の一年だったような気もしてくる。
もちろん、あまりにも大きな事件だったから、思わず「神様」について考えたりもしたけれど、生活レベルでは目の前のことに追われた日々だった。
むしろ、目の前の現実についての思考と世界について考えさせられる根源的思考とが極分化しつつ、複眼的にモノを見、コトを考える習慣がついたということかもしれない。
それも「習慣」か。
一週間ブログを書かないでいると、その複眼バランスが崩れた感じがして、誰に頼まれたわけでもないのになにか落ち着かなくなっていた。
習慣には依存性があるということでもあるのかしらん。
まあでも、習慣って大切だとも思う。
繰り返しが私たちの生活の自明性を支えるのだからね。
だからこそ何を繰り返すのかは、注意深くフィードバックして考えねばなりません。
どの依存症を選択するか。人生は悩ましい。
日常だけでも物足りないし、物語をDVD一気借りで満喫しただけでも不十分。
私にとっては読むにしても書くにしても、テキストと向き合うことが一番飽きのこない習慣になった。
肉体的な目の衰えが気になるところだけれど、そして風邪ひとつでリズムは崩れてしまうけれど、とりあえず
「読む快楽と書く困難」
を与えてくれた神様に感謝しておきたい。
日常を生きることがテキストと向き合うことだ、というのは、いささか病気というか、いくぶんかは「習慣」からズレたこと、になるのかもしれない。
「習慣」って前意識、みたいなものだから。
印刷のズレたテキストを読むこと。もしくはそういうメガネをかけて多重な像として見つめ続けること。
なにを定位して何をズラすか。習慣とはいえ、一筋縄では行かないようだ。