龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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風邪を引いてブログを一週間ほど更新しなかったこと

2012年02月11日 09時02分13秒 | 大震災の中で
風邪の熱と背中の痛みに捉えられ、ここ一週間は親鸞どころではなかった。

病気は、思考を肉体につなぎ止める(笑)

その前の週までは親鸞の『教行信証』で頭の中がいっぱいだったのに、風邪を引いたら、熱と痛みが「世界」の第一主題になってしまった。

病気はまた、日々の仕事(ルーチンワーク)に支障をきたすから、ますます神様や仏様のことなんぞ考えちゃいられなくなる。

まず生活。
朝起きて仕事にいけるかどうか、プレハブ(と言うことは鉄板で囲まれた断熱材が全くない囲いの中で1日暮らす、ということ)で体力が持つかどうか、病院に行く時間と体力があるか、飯は食えるか、体力を気遣った分、溜まっていく仕事をいつ処理するのか、だいいち授業4コマしゃべり抜くまで声がもつのか?

また、寝てたら寝ていたで、どんどん体力は落ちていくのが分かる。回復・復帰するためには、適切な負荷を体にかけなければならないのだが、それがまた難しい。取り敢えず食べないと持たないけれど、どうしても血糖値は上がり気味になる。

そんなことばかりの一週間だった。

さて、ふと思い出すと、被災してからこのかた、目の前のことをこなすのが精一杯の一年だったような気もしてくる。

もちろん、あまりにも大きな事件だったから、思わず「神様」について考えたりもしたけれど、生活レベルでは目の前のことに追われた日々だった。

むしろ、目の前の現実についての思考と世界について考えさせられる根源的思考とが極分化しつつ、複眼的にモノを見、コトを考える習慣がついたということかもしれない。

それも「習慣」か。

一週間ブログを書かないでいると、その複眼バランスが崩れた感じがして、誰に頼まれたわけでもないのになにか落ち着かなくなっていた。

習慣には依存性があるということでもあるのかしらん。

まあでも、習慣って大切だとも思う。

繰り返しが私たちの生活の自明性を支えるのだからね。

だからこそ何を繰り返すのかは、注意深くフィードバックして考えねばなりません。

どの依存症を選択するか。人生は悩ましい。

日常だけでも物足りないし、物語をDVD一気借りで満喫しただけでも不十分。

私にとっては読むにしても書くにしても、テキストと向き合うことが一番飽きのこない習慣になった。

肉体的な目の衰えが気になるところだけれど、そして風邪ひとつでリズムは崩れてしまうけれど、とりあえず
「読む快楽と書く困難」
を与えてくれた神様に感謝しておきたい。

日常を生きることがテキストと向き合うことだ、というのは、いささか病気というか、いくぶんかは「習慣」からズレたこと、になるのかもしれない。

「習慣」って前意識、みたいなものだから。

印刷のズレたテキストを読むこと。もしくはそういうメガネをかけて多重な像として見つめ続けること。

なにを定位して何をズラすか。習慣とはいえ、一筋縄では行かないようだ。


加速度と遅速度の問題

2012年02月11日 08時18分02秒 | 大震災の中で

今、授業で『サッカーと資本主義』という大澤真幸の文章を読んでいる。

社会学者の文章は一般に(特に、厳密な論文ではなくエッセイとなるとその傾向が顕著なのだが)、己の「匙加減」で、社会の表層にある現象と社会の深層を流れる無意識的な論理とを結びつけ、それで「世界」を説明するものになりがちだ。

少なくても、読者が「説明」を求めるその欲望に答えるべく生産される、いわば「擬似的啓蒙」の形態を取らざるを得ない。

そして、視点の提供、キャッチフレーズの提示、アイディアの共有、切り口の聡明さ……どう表現してもよいが、私たちが彼らの文章を読むときは、この世界に対して感じている違和感や不安をそのキャッチフレーズで明示的に示し、同時にそれを世界内に再配置してくれることを望むわけだ。

さてしかし、授業でこれを扱うとなると、ちょっと難しい。

これはあの子供の頃の感触の問題でもある。

教科書には面白い文章がぎっしり詰まっているのに、授業でこれを国語教師が取り上げた途端につまらなくなる、あの有名な

「国語教科書のテキスト自体はおもしろいのに、授業になると退屈問題」

のことだ。

いっちゃあなんだが、大澤真幸という社会学者が牽強附会的にサッカーと資本主義を結びつけて論じているのは筆者の「匙加減」としてまあいいんだけれど、教科書で読むほどの話なのか?という疑問は湧く。

近代化=資本主義化によって投資→回収の速度と回数が増加したのと、マスフットボール→近代サッカーの変化は、シンクロしてるってか、対応しているって話
(1ゴールでゲーム終了となる前近代的祭りとしてのマスフットボールと、ゴールを複数化して得点を重ねることになったゲームとしての近代サッカーの違い、ですね)。

面白くなくはない。いや、大澤真幸の新刊ほとんどを惰性で購入している私にとっては面白い。

でも教科書で部分を切り取って読んでしまえば、どう考えても「資本主義」とか「近代」とかがマジックワード化してしまう。

学校の国語の授業っていうのは、別に誰かの「さじ加減」に基づく世界解釈を「教える」ことではなく、もちろん生徒に適当な「匙加減」の仕方を教えるものでもなく、テキストとの「適切な」距離の取り方を「教える」ものだろうと私は個人的に考えている。

単なる「匙加減」なんぞは教えるものではない。勝手に考えればよろしいことだ。妄想特急は暴走さておけばいい。世界の果てまでいってよし、である。
その同伴者が大澤真幸だろうが見田宗介だろうが上野千鶴子だろうがお好きにどうぞ。

だが、テキストとのつきあい方は教えねばなるまい。「国語教科書問題」はだから、教室空間=教師の権力の振るい方、の問題にもなるわけだ。

そしてそれを読む主体としての自分(生徒)も、実はその「織物」として編み出された存在であり、と同時にそのテキストを読む欲望主体でもあるということをふまえた上で、「匙加減」の仕方、つまりはテキストの中で立ち上がってしまった自分と世界の関係を編み直す前提にある場所、「そこ」と収斂しないけれどそこにある場所の感触をちゃんと味わえるようにすることが、必要になるだろう。いらないんだけどね、授業なんかもともと。少なくても私は国語の授業でなにか本について教わったことはひとつもないし。

国語の授業なんて、実に余計なお世話、みたいなもの。自転車の補助輪だ。

乗れる奴には邪魔で、乗れない奴には役に立たない。

転びながら練習した方が早く乗れるようになるという事実は、補助輪を使ったことがある人、あるいは子供に使わせたことがある人なら誰でも知っているだろう。

初めて自転車が乗れるようになったとき、気がつくと後ろで支えていたはずの父親=母親の手が、いつの間にか離れていた……本当はそういう瞬間をたくさん組織できることが必要なんだよね。。

話が逸れた。

いいたかったのは「加速度と遅速度の問題」の話です。
そう、『アマルフィ』という映画には「加速度」が足りないのだ。それさえあればいわゆる「娯楽度」は数段アップするはずなのに。

それはストーリーライン上での加速度(必ずしもハリウッド的ご丁寧なアクション乱発でなくていいですよね)ばかりではなく、むしろ画面から観客に向かって出し入れされる速度の変化が重要だ、ということだ。

何をどれだけ見せ、何をかんじさせ、何をどれだけの間隠すのか。

授業=教室空間を組織する、というのも、そういう「演出」をちゃんとする、ということだろう。

ただし、個人的にはつまらない授業より、そういう権力をうまく使った授業の方がもっと嫌いだけどね。

ひそかにしめされた教師の意図をどうやってさらに密かにくじくか。授業を表層的に妨害するのではなく、その意図それ自体をくじいてやりたくなる(笑)

せめて教室空間は、そういう暗闘の場であってほしいし、映画の画面だって、同じことなんじゃないかな。

「本来性」に回帰しない「疎外」や「差異」を豊かに生きること。

というわけで、
「国語教科書が授業だと面白くなくなる」問題

は、いまだ私の中では中心課題の一つであります。もうすぐ定年なのにさあ……。

あくまで、あらかじめ与えられたもの(テキスト)を挫く形でしかひとは反応できないとするなら、の話なんですがね。