1年間國分先生のスピノザ講義が聴けるかと思うと、それだけで幸せな気分になれます。
(第1回目の内容詳細はメディア日記の方を参照のこと。)
一点、興味深かったのは、講義終了後の質問。
國分氏が「できたときにわかる」・「分かるときには分かる」、の例として「自転車乗り」や「水泳」の習得という身体訓練を挙げたのに対して、
そういう身体訓練の場合、手の角度や足の角度をこうして、といった支援・助言が可能なので、ちょっと違うのでは?と質問が出たところだった。
つ
時間の無いところでもあり、噛み合った応答にはなっていなかったようにも思うが、そのあたりこれからじっくり講座の中でそのあたりも聞いていきたいと思うポイントがいくつか見えて、面白かった。
一つは、「身体」の問題だ。スピノザは「コナトゥス」(自己の力能)を私達は自らの内に持っている、という。
この、ある意味では神=自然の「顕れ」でもある「コナトゥス」と身体の関係をどう捉えていくのか。
体験的理解、とは内在的理解、というのに近いようにも思う。
この内在的=体験的な現象の根底に「神様」というか「根源的法則性」というか、そういう風に二つに分けない「表現」された「神の摂理」みたいなものを見る、ということだろうか。
このスピノザの「分かる」+「分かることが分かる」という理解の二重性(そしてそれは無限遡行しない!)は、実は「表現」の問題(ドゥルースにそういう題名の論文があったけれど、その関係もまだよく掴めてません)にもなるんじゃないか、という興味も湧く。
実は國分氏の出した例は、身体内部におけるGの制御、という側面をはらんでいて、私のいうクルマにおけるスポーツ論(論にもなってはいないが<笑>)と他人の空似程度には関係しているかもしれない、とも思う。
身体は自己にとってまず第一の「他者」でもあるだろう。その自己と他者の幸福な出会いの典型的な体験例が「自転車乗り」と「水泳」の習得だったりもする。
単なる身体運動の内面化、ということでいえば、けっこういろいろなスキルというか指導のための言語支援は蓄積がある、とも言える。でも、そっちの方向にこの話を引っ張っていくと、あんまり生産的ではないかもしれないね。
でも、他方、スポーツのコーチングには、「喩」が必須の力だったりもするだろう。
それはスピノザの「知性」とはどこで重なり、どんな距離があるのか。
この辺りも興味は尽きない。
スポーツのコーチングのことばには「喩」が満ちている。
○○を××するように、とか▲▲を描くように、とか、へそを何センチ向こうに、とか、具体的な部分によって全体の動きを「喩」として提示したり、比喩によって運動の形を先取りして提示したりすることは決して稀ではない。
一緒にいった友人(小学校の先生)に教えてもらったのだが、いわゆる「法則化運動」というのは、そういった体育のコーチングのアイディアから始まったのだそうだ。
ここで繰り返し書いてきたクルマの運転は果たしてスポーツか、というテーマにおいても、重心が自分の身体に近くなると、自分自身の身体運動のごときものとしてクルマの動きが感覚される、ということが一つのポイントになっていた。
これは「喩」というより、その逆方向の「手応え」というか、自己身体感覚の「拡張」という「結果」の説明なのだが、そんなことさえ、スピノザの哲学のお話とどこかで交わっているような予感を抱く。
とりとめない感想だが、とにかくとても面白かった。
一緒にいった友人のサイトがこちら(「考えるネコ、走るイヌ」)。よろしかったら是非飛んでみてくださいませ。休眠中の福島在住アスリートが福島で考える、というサイト(不正確な紹介だなあ<笑>)。とにかく、面白いです!
(第1回目の内容詳細はメディア日記の方を参照のこと。)
一点、興味深かったのは、講義終了後の質問。
國分氏が「できたときにわかる」・「分かるときには分かる」、の例として「自転車乗り」や「水泳」の習得という身体訓練を挙げたのに対して、
そういう身体訓練の場合、手の角度や足の角度をこうして、といった支援・助言が可能なので、ちょっと違うのでは?と質問が出たところだった。
つ
時間の無いところでもあり、噛み合った応答にはなっていなかったようにも思うが、そのあたりこれからじっくり講座の中でそのあたりも聞いていきたいと思うポイントがいくつか見えて、面白かった。
一つは、「身体」の問題だ。スピノザは「コナトゥス」(自己の力能)を私達は自らの内に持っている、という。
この、ある意味では神=自然の「顕れ」でもある「コナトゥス」と身体の関係をどう捉えていくのか。
体験的理解、とは内在的理解、というのに近いようにも思う。
この内在的=体験的な現象の根底に「神様」というか「根源的法則性」というか、そういう風に二つに分けない「表現」された「神の摂理」みたいなものを見る、ということだろうか。
このスピノザの「分かる」+「分かることが分かる」という理解の二重性(そしてそれは無限遡行しない!)は、実は「表現」の問題(ドゥルースにそういう題名の論文があったけれど、その関係もまだよく掴めてません)にもなるんじゃないか、という興味も湧く。
実は國分氏の出した例は、身体内部におけるGの制御、という側面をはらんでいて、私のいうクルマにおけるスポーツ論(論にもなってはいないが<笑>)と他人の空似程度には関係しているかもしれない、とも思う。
身体は自己にとってまず第一の「他者」でもあるだろう。その自己と他者の幸福な出会いの典型的な体験例が「自転車乗り」と「水泳」の習得だったりもする。
単なる身体運動の内面化、ということでいえば、けっこういろいろなスキルというか指導のための言語支援は蓄積がある、とも言える。でも、そっちの方向にこの話を引っ張っていくと、あんまり生産的ではないかもしれないね。
でも、他方、スポーツのコーチングには、「喩」が必須の力だったりもするだろう。
それはスピノザの「知性」とはどこで重なり、どんな距離があるのか。
この辺りも興味は尽きない。
スポーツのコーチングのことばには「喩」が満ちている。
○○を××するように、とか▲▲を描くように、とか、へそを何センチ向こうに、とか、具体的な部分によって全体の動きを「喩」として提示したり、比喩によって運動の形を先取りして提示したりすることは決して稀ではない。
一緒にいった友人(小学校の先生)に教えてもらったのだが、いわゆる「法則化運動」というのは、そういった体育のコーチングのアイディアから始まったのだそうだ。
ここで繰り返し書いてきたクルマの運転は果たしてスポーツか、というテーマにおいても、重心が自分の身体に近くなると、自分自身の身体運動のごときものとしてクルマの動きが感覚される、ということが一つのポイントになっていた。
これは「喩」というより、その逆方向の「手応え」というか、自己身体感覚の「拡張」という「結果」の説明なのだが、そんなことさえ、スピノザの哲学のお話とどこかで交わっているような予感を抱く。
とりとめない感想だが、とにかくとても面白かった。
一緒にいった友人のサイトがこちら(「考えるネコ、走るイヌ」)。よろしかったら是非飛んでみてくださいませ。休眠中の福島在住アスリートが福島で考える、というサイト(不正確な紹介だなあ<笑>)。とにかく、面白いです!