龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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吉本隆明『最後の親鸞』を読み出した

2012年04月15日 18時49分26秒 | 評論
 ちくま学芸文庫の吉本隆明『最後の親鸞』を読み出した。

 これがすこぶる面白い(メディア日記4/15を参照のこと)

 なんだろう、吉本隆明の本を読んでいて、いちいち腑に落ちるという経験をしたのはおそらく今回が初めて、というくらい読みやすかった。

 これもまた「震災・原発事故被害」の影響、といえば言える、のかもしれないが(苦笑)、例の私の持論である、年をとった結果、ボケはじめたために細部が見えなくなって、逆に大きな幹のありかが分かってきたということかもしれない。

 あながち冗談で済ませられないのは、ETVで1年ほど前に吉本隆明の講演を番組で取り上げていて、その中で吉本隆明自身が、どうしても自分の読者ではない人(素人?)に自分の思想を伝えたい、といって、歩くことさえ不自由な身体を押して講演を計画する場面があって、その「気持ち」がとってもよく分かったからだ。

分かった、というのはまあ一義的にはこちら側の「匙加減」に過ぎないのだけれど、それでもその吉本隆明の「気分」は確実に私の側に「感染」したのだ。

例えば『言語にとって美とは何か』指示表出と自己表出、という区分も、だいたいこの「自己」で躓いたまま何十年も読めずにいたわけです。
当時(何十年も前のことです)芸術系の人って、どうしてもこの「自己」という言葉を使いがちで、若い頃の私は、その「自己」に躓いていたわけだから、自分の中の偏見では、どうにも芸術家のいう自己は「動物」としか読めず、結果、だからその自己ってどこで形成された「他者」としての「自己」なの?だいたい「自己」って誰?とか思っちゃうと、もう先に行けなかったのです。

詩とか絵とかの表現者は、そのプロセスにおいて、その語られるべき「自己」とどこかですれ違って「出会い」を果たすのかもしれないけれど、そんなことあられもなく言葉にされてもねえ、というのが正直な感想だった。

「自己」というのは、20歳~30歳そこそこの自分にとって空疎な記号のようなものでもあり、他方空疎であるだけに逆に脱獄不可能な無限のクビキ=牢獄のようなものでもあったわけだから。

でも、ここ(『最後の親鸞』)で語られる「非知」と<無智>の関係は、実によく腑に落ちた。
吉本隆明は(あたかも親鸞の如く)、最初から最後までその「非知」と<無智>の間の淵のぎりぎりの近傍点に立ち続け、実況中継をしようとしていた人だったのかもしれない、ということに、30年も経ってようやく思い至ってきたのだ。

「境界線の近傍に立ちその淵を覗く」、という比喩でいえばここ数年、それが自分にとっても大きな主題の一つだ。
吉本隆明はむしろその淵の底から、のぞき込むこちらに向かって言葉のライトを向けてくる。

それは、かつての私にはまるで深海魚の暗号のように感じられた。
一つ上の世代のたくさんの人間が反応しているけれど、それが分かっているのかな、と疑問も抱いた。

けれど、その淵の側に立ち、覚悟を決めてのぞき込むと、思いの外に「分かりやすい」のかもしれない、とも思うようになる。
ちょうど『小林秀雄の恵み』(橋本治)を読んでから、分からないながらも「小林秀雄が読める」場所に誘われはじめているのと同じように。

どうせ30年も分からなかったのだ。ゆっくりと読んでゆっくりと「分かって」いこうと思う。

親鸞とスピノザを性急に結びつけることもすまい、と思う。

全てはゆっくりと余生全部を通してわかり直していけばいいことだから。









白河の珈琲店に寄ってきた。

2012年04月15日 17時25分52秒 | ガジェット
一人暮らしをはじめた息子のアパートを急襲しつつ、白河で食事でもしよう、と国道289号線を棚倉方面へ向かう。
4月14日(土)は前夜から雨で、結局雨が上がるのは夕方だった。
一般に雨の山道ドライブは気が進まないものだが、レガシイワゴン(AWD)なのでどんと来い、である。

同じ道を2週間前に同じ排気量のベンツワゴンで走った。
重いモノがきちんとコントロールされている安心感、というか、挙動をクルマが十分に請け負って安全に移動する感触でいえば10年落ちのベンツの方がどっしりしている。

レガシィは、昨日読んだ雑誌の特集で伏木悦郎が、

技術の「マッチポンプ」を超えなければ旧態依然とした場所からスバルは動き出せないだろう

という意味のコメントを残していました。
これ、けっこう納得ですね。

AWDと水平対向エンジンという
「虎の子の高い技術」
がそこにあることは誰もが納得している。
でも、それだけじゃあダメ、っていうか、先に行けないんじゃない?
という疑問である。

伏木氏の論はブログでも読めるが、ざっくり自分なりに翻訳してしまうと

86(トヨタ)vsBRZ(富士重工)という図式で、エンジンが水平対向だから、という論調のスバルびいき記事があるけれど、スポーツカーつくっておいてスタビリティとかいってるだけじゃ富士重工に未来はない。

そもそもトヨタが富士重工にBRZの併売を「許した」ところの文脈も考えよう。
DSC切らなきゃ86もBRZもそう変わりはない。
ドリフト志向の86こそが、トヨタがオールジャパンの車作りを考えつつ、その上でFun To Driveと向き合ってる証拠だ……

的方向性。
まあ伏木氏はFR+ドリフト上等の還暦評論家ですから、指向性=嗜好性の論調として当然。

でもそれだけじゃなくて、富士重工のクルマ作りが、どうしても技術優先になっていて、何がクルマの楽しさなのかを見失っているんじゃないか?という問いかけとして、重要だと思いました。

なるほどアイサイトもあり、四駆でもあり、レガシィは実に安心して走れる。

でもまあ、安心して走るんだったら、電車で移動すりゃ「寝てても本よ読んでても」安心だわね。
人も荷物も1ボックスワゴンの方が乗るだろう。

さて、ベンツワゴンとレガシィワゴンを比べ直すと、お値段と、雪が降る地域性を考えれば私にとってはレガシィの方がずっと「お得」だ。

いくらベンツにスタビリディコントロール装置がついていても、FRはFR,雪道を走る上の安心感は比較にもならない。

では、レガシィは「安心」のためのクルマなのか。
長距離を疲れずに走るためのクルマなのか。

それとも走る喜びを味わうのがクルマなのか。

納車から2週間で2300キロ程度を走った感想でいえば、一番に運転の喜びを味わうクルマでは残念ながらなさそうだ。
それでもハンドルを握ったテイストは決して悪くない。コストパフォーマンスも高いクルマだと思う。普通に運転でき、静かで疲れず、雨や雪の安心感も抜群、アイサイトが付いて安全度も高まり、何よりアイサイトに付随したクルーズコントロールが良くできていて、高速長距離の疲れ具合は、ロードスターとは雲泥の差、レガシィは本当に疲れ知らずだ。

その上で、カーブを曲がったときに、運転を楽しんでいたかつての記憶が蘇る、みたいな、みたいな感触である。


ここから先はおそらく多くの人と共有しにくい個人的な感想になる。

ロードスターとレガシィは、私にとってクルマにおける二つの方向性が異なる欲望を満たしてくれる二台だということが分かってきた。

ロードスターは自分で運転する楽しさ。
レガシィはどこまでも運転する楽しさ。

たぶん体力が十分にあって、途中で仮眠するにも座席を倒せない過酷さに耐えられたなら、ロードスター1台で間に合う。なにせ屋根は開くし、ハンドルに応じて実に気持ちよく曲がってくれるし。

だが、50歳を過ぎ、なおクルマで一度に3000キロとか4000キロとかを走ろうとしたとき(十分にはそれは偏愛的というか変態的、ですよね)、ロードスターの「楽しさ」はいささか身体がついていかない、ということが起きてくる。

また、長旅を自堕落に荷物を積んで休み休み行くには、ロードスターだけではちと辛い。

そして、背景を支える文化はドイツ車とは違うし、技術優先の匂いがし、かつその技術的もいささか袋小路に入った感のあるレガシィですが、それでも、「どこまでも遠くに、快適に」っていうロングツアラーのコンセプトにおいては(その方向性における会社、そしてレガシィの未来は心配かもしれないけれど)、今この2012年春の時点のチョイスとしては、私にとっては納得のいく解だった、ということがいえる。

さて、今日はクルマではなく珈琲店の話だった。
(関係ある、と思うんだけどね、個人的には)

友人に教えてもらって、白河の珈琲(豆)店に出かけた。
雨が降りしきる中、細い道だが車の通りは割とある街中にお店があった。
駐車場は向かい側に10台分以上。

店に入ると、私と同年配ぐらいだろうか、ベレー帽を被ったおじさんが一人(ふだんは別にスタッフもいるらしい)いて、入るなり、テーブルにどん、と置かれたゴーダチーズと、食用油(名前は失念)を勧めてきた。
いさんでいわきから珈琲を飲みに来たのだが、喫茶店というよりは自家焙煎の豆屋さんの雰囲気だし、勧められるのはチーズと油だし、加えて間断なく繰り出される、店主とおぼしきベレー帽のおじさんのうんちく攻撃は、もう自分がここに何をしにきたのか分からなくなるほどの「不思議空間」である。

曰く、
「ハワイコナは誰も注目しないうちから私が豆を売っていた」
「この油は食べてよし、髪に塗ってよし(ただし女性ね)、男は髪の毛なんてない方がよろしい、男性ホルモンがあるから禿げるんだし、エロすなわちアタマがいいってことだからね、男はそのためにアタマを使うんだから、がはは」
「私は日本一上手い(珈琲の淹れ方?焙煎?)んだけどね。名刺にライセンスは刷ってあるけどこれ、ペーパーテストで取れるライセンスで、全然意味がない。」
「チーズナイフを水で洗うのは馬鹿。だから黴びちゃう」
「日本にソムリエは育たないんだよね。こんなに湿気が多い国じゃ無理。唯一北海道で森の空気を嗅いで育った人ぐらいかな、可能性があるのは」

もう、なんだか分からないうんちくの洪水である。
大丈夫か、このおじさん?!

友人からは、お店で珈琲も飲める、と聞いていたのだが、そんな空間も見当たらないし、うんちく攻撃にすっかり毒気を抜かれ、せめて豆を買って退散しようと思って

「あの、このブラジルの丸豆とキリマンジャロを200㌘づつください」

といったら、突然うんちくが停止。
珈琲のところになるとまた別のスイッチが入るのだろうか(笑)。

もうなんだかあきらめ気味に「あのー、珈琲もこちらで飲ませていただけるんですかね?」
と聞いたら、今度は力強く
「もちろん」
と一言。

レジ向かいのカーテンをしゃっと引くと、二階への階段が「じゃじゃ~ん」と登場。

「飲めるんだ……」

もうマインドコントロールされるがごとくの状態で二階へ。
階段をあがったところがサンルームになっていて、奥はテーブルが3つか4つ。南西側には流しとガス台、それにカップなど簡単な厨房になっていて、確かに珈琲も飲めそうだ。
しかし印象は、
「珈琲好きな友達が、実家の二階を改造して珈琲屋さんのようなものにした場所」
に招待された感じ、とでもいえばいいのだろうか。
本棚には無造作にご主人のものとおぼしき本がどさどさと積み重ねられている。

もはやおどろきもしないが、ご主人は注文もなしにお湯をガスにかけて階下へ。

ただ、さりげさく灯を入れたオーディオは真空管アンプ。
そこからまったりした女性ジャズボーカルが流れてきて、これは実にヴィヴィッド。

ご主人は下で豆を挽いて来て、階上に戻ると、お客のテーブルのところで、ネルドリップ珈琲を淹れてくれる。

この泡の盛り上がりは芸術品のようであったことはぜひ書いておかねば。

実際の様子はこちらの画像でどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=13z1P7tBBH8

何が「旨い」のか、は人それぞれの個人的「匙加減」だ、という言い方がある。
嗜好品であればあるほど、その傾向は強い。
あるいは、お金を出せば出すほど、それなりに美味しくなる、という考え方もある。
私達はそういう二つの傾向性に、十分に慣れすぎてしまった。

でもね。
この主人の様子を見ていると、そういうことじゃないんだな、と分かってくる。

お金を儲けるものだけが偉いわけじゃない。
こだわりの強さだけが旨さを保証するわけでもない。

ここの主人の挙措全てから、好きなものをつきつめて「贅沢」な「生」を生きているというリアルが、こちらに伝わってくる。

いわゆる「普通」の感覚でいえば、「へんてこりんな人」の「へんてこりんな人生」、かもしれない。
私の中の「普通」は、間違いなく彼を「笑って」しまう。

すくなくても、人をたじろがせる「偏愛」をあられもなくここの主人は客に差し出してみせる。

しかし、その奇妙なこの主人の「感染力」は、断じて頑固な蕎麦職人の「こだわり」とは一緒ではない。
ここの蕎麦はとにかく旨いから、こだわり頑固主人だけど我慢しよう、というようなこととは絶対に違う。
頑固職人は技術や腕をその基準とする。
それは、まるで富士重工のようなのですよ(笑)。
好きですよ、私は。

でも、頑固な技術への固執は、ある瞬間から開かれた広い場所に出ていく感じを失ってしまう。
すくなくても、ある種の共同体を前提としたり、ノスタルジーに寄りかかった「頑固」は、その原初的な志とは異なって、いつのまにか閉じた「正しさ」を演出してしまいかねないのだ。自らの志を裏切ってさえも。


それに対して、ここのご主人は十分に「へん」だけれど、それは「開かれた偏屈さ」だ。
そしてそこが決定的に重要だ、と私は思う。

ある種の正しさ、規範、同一性に還元されない「疎外」された「贅沢さ」、といえばいいだろうか。
ユダヤ人共同体から破門され、それに対して反論の手紙で応えた結果、ナイフで刺されることになった、その外套を一生手放さなかったスピノザのような、といったら牽強付会だね(笑)。
でも、「疎外」は共同体への回帰や同一性への希求を「結論」とする必要のない、肯定的な「贅沢」でありえることの証左が、このご主人のほほえみの中に示されているような気がしたのだ。

彼の淹れてくれた珈琲を味わい、縦横無尽に広がる蘊蓄話を楽しみ、柔らかなオーディオの音を聞きながら、その全てが心地よい。
気鬱な雨の午後の暗さがいつのまにかすっかり吹き飛んでいた。


「贅沢な人生」の一つを垣間見たような気がした。
理想、というにはちょっと「奇妙な」テイストではあるのですがね(笑)。