龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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環境概念とクルマの運転

2012年04月05日 17時30分42秒 | 大震災の中で

昨日、クルマの乗り方を忘れてしまった、という話を書いた。
無論運転の仕方を忘れたわけではなく、道を忘れたわけでもない。

お気に入りのクルマを走らせると、その乗り味の違いが、ある種の戸惑いをもたらすのだ。

今までも父親の車をたまに運転したり、息子や妻のクルマを運転したりしたことはある。レンタカーを借りたこともあるし、新車の試乗もたくさんした。
だが、そういうときにはこの「わからなさ」や「戸惑い」に襲われることがない。いくら運転したところでそれは「よそ」のクルマなのだ。
よそゆきを意識していれば違和感は起きない。違っていて当たり前なのだから。

ちょうどいくら食べ物を口に入れてもそれは予め予期された異物であるため、異物感は感じないのと同じように。
しかし、歯を治療して詰め物を入れたり入れ歯を装着したとき、私たちは言いようのない違和感を抱かされる。いずれ数日後には消えてしまい、あたかもそれが自分自身の一部になっていくことは予想されるのだが、それに成れるまではどうしても違和感や戸惑いを隠せない。

クルマと入れ歯はちがうといえばいえる。
しかし、自分のクルマ、となると事情が違う。

クルマが自分自身の前に開く世界の様相が明らかに異なり、しかもそのいずれもが自分自身の挙措の延長線上に定位されているため、不思議な齟齬の感覚、ズレの感覚が生じるのだ。

クルマの運転はだから、決して機械の操作ではなく、自分自身の身体の「延長」としての運動=スポーツに外ならない。

クルマは、自分の身体運動における環境とのインターフェース、と考えるべきか、あるいは擬似的な身体、ととらえるべきか、はたまた身体に運動をアフォードする環境可能性条件、ととらえるべきなのか。

ロードスターに慣れた身体と、レガシィに慣れた身体は、別の「生き方」を生きている。その切り替えが瞬時にはできない。

別のモノ、別のコト、でないからこそ、切り替えの遅延が起こる。いずれ必ず消えて行く違和感なのだが。

自分の家の匂いや、自分の家のオニギリの感触。数え上げれば、自分に近い環境の「標識」はたくさんある。

身体という境界をめぐる「分からなさ」の手触りは、いずれにしてもそこにスポーツがたち現れることの理由を、また一つ示してくれたのかもしれない。