龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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ヤスパース選集23『スピノザ』と柄谷行人『哲学の起源』を平行して読んでいる。

2012年12月08日 18時43分13秒 | 大震災の中で

ヤスパースという人は、何だかスピノザを分かってた人って感じがする。すごく寄り添って考えてるなあ。


そして、柄谷の『哲学の起源』で語られる「イオニア」的なるもの、アーレントを引用しつつ語るイソノミア(無支配=自由)と、ヤスパースがスピノザにみているモノとは、そう遠くないのではないか、そんなことも考えさせられる。

単独者が世界と向き合うときに参照されなければならない「外部」としての、普遍的な何か。

自由?倫理?普遍性?神様?

よくわからないけれど、面白い週末になりそうだ。

伊坂幸太郎の新刊『残り全部バケーション』の割り込む余地がないぐらい!



『菊と刀』を読んで(1)

2012年12月08日 10時13分41秒 | 大震災の中で
読書会がなければ読まなかっただろう。
個人的には『菊と刀』、『日本辺境論』、『甘えの構造』、『日本人とユダヤ人』など、視点の種類、著者、時代を問わず、日本人論なんてものは、自己啓発本と同様、バカが読んで自分を納得させたがる読み物だと思っていた。

ということはもちろん、私は若い頃そういうものを好んで読みもし、深くうなずきもするバカだった、ということだ。

だが、今回この本をはじめとするきちんと読み返してみて、非常に面白かった。

80歳になる同人が、戦後の当時、これを呼ん深くで納得する部分があった、と感想を述べていたのが特に興味深い。

私が日本人論を好んで読んでいた状況(たぶん高校生の頃だったと思う)の感想とは、意味が違う。

小学校で漱石鴎外や芥川、司馬遼太郎などは読んでいたが、中高生になると小松左京や平井和正、半村良、ハインライン、庄司薫、北杜夫、遠藤周作、吉川英治などエンタ系から「世界」をみるものを好むようになる。

マンガに限らず小説でもなんでも、エンタテイメントを一段下にみる「目」が、間違いなくその時代にはまだ存在していたから、
「面白くて何が悪い?」
と思っていたし、口にもしていた。

ただ一方、哲学とやらにも興味がわき、実存主義っていうものがあるらしいときいて、倫理のレポート発表をハイデッガーでやってみたりはしたものの、当然のことながら皆目歯が立たず、小林秀雄は受験に出るらしいが、もったいを付けたいやらしい文章のどこがいいのか全く理解できず、結局頭に入らなかった。

せいぜい
「日本人は日本人論が好きだから」
と「利いた風な口」聞きつつもちょうどこの程度が、私にとっては単純で分かりやすい「物語」だった、のだろう。

ちなみに、小林秀雄が「読める」ようになったのは橋本治の『小林秀雄の恵み』という小林秀雄読解マニュアルを読んでからだったし、ハイデッガーは震災後の原発事故で技術論を参照し始めてからようやく「読む気」になれた。

本というのは、読める「時」というものがあるものである。

それはもしかすると「時代」がテキストを読ませている、ということでもあるだろうか。

そんな中で漱石と鴎外はやっぱりオールタイムベストだった。
全集や選集を買ったから、だけではあるまい。
「面白い」のに、ただそれだけではたくてその向こう側に、分からないながらも「世界」の匂いや手触りを感じていたのだ、と今は懐かしく思い出す。
「国民作家」についてはまた別の機会に。

閑話休題(それはさておき)、『菊と刀』の話だ。


大人になってからは当然ながら「日本人」とかいう雑な括りの本は読めなくなった。血液型占いじゃあるまいし(笑)

けれど、本当にその呪縛というか「戦後の日本人論」の圏域から距離を取り始めたのは、やはり震災以後かもしれない、と思う。
ここ数年の読書傾向の中心は中世キリスト教とか近世哲学のスピノザとかで、もはや日本とはまったく無関係だったし。

震災後も、思考の基盤となったのはスピノザだった。

そのあまりに独特な「単独者」的な思考の基盤がどこにあるのかが気になり、「世界」の把握方法に魅力を感じた。

翻って、『菊と刀』は、日本人をテキストのように「読んで」いるテキストである。

日本人論を日本人が好んで読むと言うことは、それ自体で、幾分は不可避的にそのテキストとして読まれた結果としての「論としての日本人」を内面化して生きることになる、ということを含む。

「日本人」というカテゴリーの問題でもあり、「日本人論」というカテゴリーの問題でもあり、さらにそれは「日本という国」の問題でもある。

考えてみると、『菊と刀』はアメリカの日本占領政策のための1ピースとして「徴発」されたものでもある。

だから無意味だ、というのではない。

ナショナルアイデンティティを構成するべき参照「言説」として、むしろ戦後すぐではなく、ただ占領されている状態が終わってから、その後に「戦後民主主義」として内面化されていく「敗戦忘却」の症状のなかに、少なくても私自身の日本人論は置づけられてきたのではないか、ということだ。

例を挙げるとしたら、天皇制であってもいいし、自衛隊の問題でもいいし広島・長崎の原爆投下であってもいいし、福島県への原子力発電所の設置であってもいい。民主主義と大上段に言ってみてもいい。

何故アメリカが投下した原爆の責任をアメリカに問わないのか、日本が負けた戦争の責任を天皇に問わないのか、なぜ、こんな事故を起こす原発を反対出来なかったのか、自衛隊が違憲なら憲法を改正するか自衛隊を止めるかできなかったのか。
戦後民主主義がどうして単独者同士の対話に発展せず、みんな仲よくしようとして出来ずに数の論理……みたいな話に終わってしまうのか。

そういうことすべての根底には「敗戦」という要素をどのように内面化していったかをとわない非歴史性がそこにあったなあ、と、『菊と刀』を読み返してみて、つくづく感じた。

白井聡が敗戦をしっかり把握しないと原発事故も見えやしないよ、みたいなことを何処かで書いていたような。
(思い出せない……)

※at13の「永続敗戦論」でした。
この論文は必読!

(絶対的平和を祈る崇高な理念が、天皇の国体護持と冷戦状況によって成立したという重要な問題提起をしている加藤典洋の論が、どうして戦後の「主体」のありようの議論に回収されてしまったか、が指摘されていて納得。
ちなみに私個人にとっては、高橋哲哉の真摯さがやるせない理由もかいまみえる視点です。)

赤坂真理の『東京プリズン』が今書かれ、読まれるのは「基盤が動く」感触の中だからこそ、とも見えないことはない。

ただし断っておくけれど私は今も「戦後民主主義派」だと自分では考えている。

たしか、中野重治が戦後すぐ言っていた。

日本の平和や民主主義は背丈の縮まった寸詰まりなものにすぎない。勝ち取ったものではなく、与えられたものに過ぎない。それをどうまっとうなモノにしていくかが課題だ……

そんなことを中野はかいていた。

私は戦後文学を学んできた者の一人として、その時の中野重治に深く共鳴する。

それは今もって変わらない。

だが、「戦後民主主義」が顔を背けてきた側面、軍事的な「戦い」に負けたという国の現実を、経済的技術的な側面によって限定して「回復」させることで忘却し、しかもそれは東西冷戦の中、アメリカの圏域の範囲内で収めるという側面
、そういうことをきちんと把握してこなかったツケを自分自身で支払う必要があるのだ、と思う。
日本という国が、ではない。私自身がツケを払うということだ。
さてでは、国とか日本人とかに任せず自分でツケを払うって、どういうことだろう?


原発誘致自体は、仮に福島がこばみつづけ得たとしても、どこか別の拒み得ない場所が誘致を受け入れていっただろう。

一旦狙いを定められたら、沖縄の例をみれば分かるように覆すことは容易ではない。

だからこそ、今、私たちには「動物のように」生きる知性がどうしても必要だ。
スピノザのテキストの中では例外的に読みやすい『国家論』を読んでいるとそう思う。

私たちは、日常的には「理性1」を持って判断していながら、実際には「人為的な環境」=自然という「基盤」に乗ったまま流されていき、人為に対する環境適応性=擬似的「動物性2」を発揮してしまう。

そうではなく、その「理性1」の尽きるところから、「理性2」を立ち上げ、そこを起点としせて「動物性1」を発揮しなおしていくこと、自分を動物のように、あるいはvehicleのように、社会的には不全を呈した「人為=自然」の裂け目を見つつ、向かうべきところを探る嗅覚を「理性2」において鍛えていきたいのである。

それは決して個人の怖れには止まらない。
個人に止まっていれば、外部参照は所詮空絵事に終わる。

「神」についてずっと考え続けているのはその「裂け目」を単に修復可能な綻びとは見ていないからだ。
かといって、修復不可能な綻びとみている、というわけでもない。

それじゃあハルマゲドンだものね(笑)

ここ、重要です。


インフラ整備は、コンクリートか人か、の二分法の問題ではない。
私たちの生きる基盤について考えることこそが、インフラ整備だ。

「便利な方がいいに決まっている」
ということばかりを続けていては、いつのまにか奴隷仕事の分担が回ってくる。

かといって、インフラ抜きに全部自前でやるわけにもいかない。
風車や馬車だけで生きるわけにはいかないだろう。

自由について考えるためには、そういう二分法だけじゃだめなんだ、ということか。

『菊と刀』からは大分離れてしまった。

このあたり、メモとして残しつつ、あとでもうすこしまとめます。

ただ、人間の振る舞いを読むという方法の限界も感じました。

テキストをがっちり読むことの必要性を改めて感じた。

『菊と刀』だけで終わっては後味が悪い。

デザートとして加藤周一や大岡昇平を読み直したくなる、といったらおかしいかな(苦笑)