「生徒には、不安とともに生きなさい、っていうんです」
とその教師は語る。
何かに安心したがる大人は多い。
でも、新たな人生を切り開いていくあなたたちは、それじゃいけない。
むしろ不安とともに生きることです……
これは生徒だけでなく、福島において生きる者すべてに関わることばだ、と感じた。
不安とともに生きる勇気が私たちには必要だ、とつくづく思うのだけれど、いかがですか?
安心したいのは分かる。
だれもが放射能ゼロを願いたい。
でもそれは無理。
「無主物」がそこらじゅうに溢れている。
そしてそこの瓦礫は福島県以外に持ち出せるはずもない。
いや、そう強迫的に福島福島いわずとも、実は私たちはどこにいても不安と共に「動的な生」を生きることが、かつては、ホンのちょっと前までは、当たり前ではなかっただろうか。
同一性ではなく差異を生きること。
それを当たり前っていうんじゃないか。
最近は「当たり前」が、何かどこかでいつのまにか都合よく決められた基準値にすぎないことが多いけれど。