ベンヤミン、文庫のコレクションは持ってるけど、正直どう読めばいいのか分からない(歯が立たない)文章が多くて、複製芸術~とパサージュ論(岩波の文庫)を読んだぐらいであとは積ん読だった。
ところが、昨日、Facebookのグループでチャットめいたやりとりをしていたら、一人が飲みながら
「ベンヤミンが難しい」
とかつぶやいた。
もう一人も(たぶん飲みながら)、細見和之『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』は何度読んでもいい、とかいいつつ
「しかし私見を述べるのはためらわれる」
とかつぶやきかえした。
私は〆切を過ぎた原稿を抱え、しらふで苦しんでいたが、
「そうだよ!知ってるよ!」
と改めて思って、でもなんだか悔しくて、締切原稿逃避のため、ベンヤミンコレクション(ちくま文庫)第1巻目の最初
『言語一般および人間の言語について』
を読み返しはじめた。
やっぱり言語・精神・人間とか、それこそ固有語法(イディオム)的な表現が多くて、イライラさせられる。とくにこれは言語論なのに(たぶん……)、言語という表現がある種おまじないのように使われていて、本当に読めるのに分からない状態になる。
だが、このベンヤミンの「固有語法」とでも言うべきものを「音楽」のように受け止めてみると、全くちがった景色が立ち上がる。
つまり、私にとってそれはスピノザ的な神様に関わることなのだが、あたかもそのスピノザ的世界像と響き合わせられるところがあるかのように感じ始めることになるのだ。
つまり、ベンヤミンのテキストは、おそらく読み手のそういうところに「触れる」んだろう。
最初は読解できない、ある種の「拒み」を感じるのに、あたかも立体映像が見えてきた時のように、、ある瞬間、そのもどかしさが、むしろ「欠如」を浮き彫りにするというか、「神様」を示すマジックワードとして、読めてしまう次元に誘われていくのだ。。
テキストの欲望を映し出すテキスト。
読者の「私」がむしろ映し出されてしまいかねないような。
彼のテキストが指し示すかに見えるその指し示しの身振りに、たやすく「名付け」を与えることはできない。
テキスト自身がそう言っているのにも関わらず、読者は「主体」を演じてしまいかねない。
これは面白いが、難しい。
細見和之の本が届いたけれど、その前に、自分の中のスピノザの「表現」について考えながらこの本を読んでおきたい、と思った。
とりあえず、この言語論だけでも向かってみるとしよう。
ところが、昨日、Facebookのグループでチャットめいたやりとりをしていたら、一人が飲みながら
「ベンヤミンが難しい」
とかつぶやいた。
もう一人も(たぶん飲みながら)、細見和之『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』は何度読んでもいい、とかいいつつ
「しかし私見を述べるのはためらわれる」
とかつぶやきかえした。
私は〆切を過ぎた原稿を抱え、しらふで苦しんでいたが、
「そうだよ!知ってるよ!」
と改めて思って、でもなんだか悔しくて、締切原稿逃避のため、ベンヤミンコレクション(ちくま文庫)第1巻目の最初
『言語一般および人間の言語について』
を読み返しはじめた。
やっぱり言語・精神・人間とか、それこそ固有語法(イディオム)的な表現が多くて、イライラさせられる。とくにこれは言語論なのに(たぶん……)、言語という表現がある種おまじないのように使われていて、本当に読めるのに分からない状態になる。
だが、このベンヤミンの「固有語法」とでも言うべきものを「音楽」のように受け止めてみると、全くちがった景色が立ち上がる。
つまり、私にとってそれはスピノザ的な神様に関わることなのだが、あたかもそのスピノザ的世界像と響き合わせられるところがあるかのように感じ始めることになるのだ。
つまり、ベンヤミンのテキストは、おそらく読み手のそういうところに「触れる」んだろう。
最初は読解できない、ある種の「拒み」を感じるのに、あたかも立体映像が見えてきた時のように、、ある瞬間、そのもどかしさが、むしろ「欠如」を浮き彫りにするというか、「神様」を示すマジックワードとして、読めてしまう次元に誘われていくのだ。。
テキストの欲望を映し出すテキスト。
読者の「私」がむしろ映し出されてしまいかねないような。
彼のテキストが指し示すかに見えるその指し示しの身振りに、たやすく「名付け」を与えることはできない。
テキスト自身がそう言っているのにも関わらず、読者は「主体」を演じてしまいかねない。
これは面白いが、難しい。
細見和之の本が届いたけれど、その前に、自分の中のスピノザの「表現」について考えながらこの本を読んでおきたい、と思った。
とりあえず、この言語論だけでも向かってみるとしよう。