龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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國分ゼミのキルケゴールワークショップのこと(その2)

2013年11月30日 08時59分52秒 | 大震災の中で
倫理について
ぜんぜん脈絡は分からないのだけれど、忘れてしまうからメモをしておく。

1964年パリで行われたキルケゴールのシンポジウムに招待されたハイデガーは、出席する代わりに
『哲学の終わりと思考の使命』
という文章を送っただけだった。
しかもその中にキルケゴールへの言及はいっさいない。ではハイデガーは何を「語っていない」のか?
というのが串田先生の問題提起。
その『使命』のポイントは2点。
1点目は、
「哲学は現在どのようにしてその終わりへとさしかかっているのか」
2点目は
「哲学の終わりに際し、なおいかなる使命が思考に残されているのか」

1点目については形而上学は「基礎づけつつ表象するという仕方で存在者としての存在者を思考する」のだが、今や存在者の各領域(自然、歴史、法、芸術)の存在論の提示を、固有の課題として引き受けているのは諸科学」だ、という。
2点目については、「明け開き(Lichtung)」、「非隠匿性こそが真理の可能性を授ける」のだ、という。

☆foxydog注 このあたりからハイデガーはよくわからなくなる。レトリカルになる。☆
そして、隠匿性がむしろ明け開きの本質にある、といいだす!
だから、単に光を当てると付随物として影ができるのではない。「明け開きは単に現前性の明け開きであるだけでなく、自らを隠す現前性の明け開きであり、自らを隠す隠匿の明け開きでもあることになる」

☆foxydog注 なんのこっちゃ、である。『放下』という科学技術論、原子力技術の脅威について語った講演でも、後半この手のレトリックが出てくる。単に思考することは思考の逃避であり、そうではなく「熟慮」が必要だ、と。
この「明け開け」は『放下』の「熟慮」に近いものか?☆

以上、『使命』のはなし。
串田先生は、そこにキルケゴールの
『哲学的断片への結びといての非学問的あとがき』で言及されている「真理」を併置する。

キルケゴールは、
客観的に真理を求める場合には、関わり方は問題ではなく、あくまで対象が真理かどうかがポイント。しかし、真理が主体的に問われる場合は、
「主体的内省が個体のかかわり方そのものに向かう。このかかわり方そのものが真理に貫かれていさえすれば、個体は真理に立っている」
といっている。
串田先生の話はそこから二人の芸術論に発展するのだが、そこに対して藤野先生が質問していたことが印象に残った。

発表後、藤野先生は串田先生に、

『使命』において、ハイデガーは終わった学問として自然、歴史、法、芸術、を挙げているが、そこには良さや価値は入っていない。倫理について言及していない。つまりは「語られていない」。ということは、哲学は終わっても倫理は残ると言うことか?
と「お茶目に?」質問されていた。

その質問自体、串田先生と藤野先生の間でどの水準での了解があってやりとりされているのか不明だから、串田先生が
「確かに触れていないですね、ハイデガーはそれを解体している、というか私はそれはむしろスルーしたいと思っている」
と「積極的に」応じておられたことの意味も分からなかったけれど、面白かった。

以下は単なる感想。
神様とか倫理とか、ある意味では
「ありもしない」
ともいえなくはない。
しかし、そういうモノにアクセスしないで、計算な思考を続けることをハイデガーは「思考していない」といっている。これは分かる。だから「明け開け」だの「熟慮」だのいうわけだ。
キルケゴールもまた、キリスト教の教義学とか原罪とかいいながら、
「下から上」への倫理学の再構築、なんぞということを言う。
このあたり、「実存主義」と単純に括っちゃなんだけど、この「間」をめぐる思考の渦巻きは、芸術論を含めて、極めて興味深い。