プロレスにはタッグマッチという戦い方がある。
というか、あった。子供の頃テレビでプロレスを観た時、このタッグマッチに心を奪われた。
小学校の時、これに匹敵するほど「心を奪われた」体験を挙げるとすれば、手塚アニメ『ビッグX』の変身シーンぐらいだろうか。
ウルトラマンや巨人の星も凄かったし、『ウルトラセブン』は今でも尊敬しているけれど、プロレスのタッグマッチほどではなかった。
タッグマッチとは、青コーナー赤コーナー二手に分かれ、それぞれ2人づつ(稀には3人)レスラーが配されていて、リングに立つのは一人づつ、で戦うのがルール、というプロレスの試合形式だ。
片方のコーナーが正統派なら、もう一方のコーナーは悪役(ガイジンチームが多い)。そして正統派(こちらは主として日本人)は強いヒーローとー比較的打たれ弱い選手がタッグを組む。
ヒーローが悪役にやられて弱い方が助けることもあるし、弱いレスラーが虐められて、そののちヒーローがそれをフェアプレーでやっっつけ返すこともある。
悪役も観客もふくめて、そのドラマを享受するイベントだった。
二人の関係を観ていて、今朝ふと、あのタッグマッチの興奮を思い出した。
正統派レスラー、ベビーフェイスはもちろんこの場合國分先生だ。タッグを組むのが千葉先生。
弱そうなところを出して、國分先生の出番を提供する。
ここで注目しておきたいのは、二人の論について、複数の人が(千葉さん自身も)「並行的(平行的)」と読んでいることだ。
非意味的切断とか、ア?ポステオリな倫理をいう、むしろドゥルーズにおけるヒューム的側面、つまり切断の側から主として論を展開する千葉さんが、一元論的に発生から論じていくスピノザ主義者の國分さんとの間で、自説が相方と「平行的(並行的)」だ、というのは大変興味深い。
僭越ながら、このタッグは絶対要注意、というか要注目だと感じる。
今、池袋リブロの二人の対談の流れで、翌日の表象文化論学会でのお二人の書評パネルディスカッションもメモにまとめている。
ここでのヒール役は、「フーコー主義者」と、ちゃんとリングネームを掲げてサービスしてくれる佐藤嘉幸先生(筑波大)。
「フーコーがマルクス主義でどこが悪い~」
と雄叫びのサービスもあげてくれています。
最後には、
「千葉さんの革命はエステティックなものか」
との乱闘フラグも(^_^)。
無知な聴衆の私はエステティックがわからずに、千葉さんの怒りパフォーマンスで内容を想像してましたが。
美学的ってこと?
それは革命についての場外乱闘シーンだけれどね。
佐藤先生は千葉さんの本を、「ヒューム的切断とベルグソン的な連続性の二面性を、それぞれの側面おいて二重化した戦略をとる」
と評している。
同じパネラーの堀千晶さんもそこを「戦略」と読んでいる。
國分さんは、そういう研究「主体」からの発話とは全くことなった表現で、このタッグの相手の「キズ」を迎えるのだ。
詳細は本日付の日経新聞の書評を参照されたい。
http://mw.nikkei.com/tb/#!/article/DGXDZO62701050W3A111C1MZC002/
ようやく、この中間領域に「表現」があたえられた、と感じるのは、わたしだけだろうか。
それを國分功一郎氏
「新しいことばの創造」
「新しい論述水準の創造」
と呼び、千葉雅也の本のことば達を称揚する。
タッグの意義の一つが、ここにも現れている。
(この項続く)
というか、あった。子供の頃テレビでプロレスを観た時、このタッグマッチに心を奪われた。
小学校の時、これに匹敵するほど「心を奪われた」体験を挙げるとすれば、手塚アニメ『ビッグX』の変身シーンぐらいだろうか。
ウルトラマンや巨人の星も凄かったし、『ウルトラセブン』は今でも尊敬しているけれど、プロレスのタッグマッチほどではなかった。
タッグマッチとは、青コーナー赤コーナー二手に分かれ、それぞれ2人づつ(稀には3人)レスラーが配されていて、リングに立つのは一人づつ、で戦うのがルール、というプロレスの試合形式だ。
片方のコーナーが正統派なら、もう一方のコーナーは悪役(ガイジンチームが多い)。そして正統派(こちらは主として日本人)は強いヒーローとー比較的打たれ弱い選手がタッグを組む。
ヒーローが悪役にやられて弱い方が助けることもあるし、弱いレスラーが虐められて、そののちヒーローがそれをフェアプレーでやっっつけ返すこともある。
悪役も観客もふくめて、そのドラマを享受するイベントだった。
二人の関係を観ていて、今朝ふと、あのタッグマッチの興奮を思い出した。
正統派レスラー、ベビーフェイスはもちろんこの場合國分先生だ。タッグを組むのが千葉先生。
弱そうなところを出して、國分先生の出番を提供する。
ここで注目しておきたいのは、二人の論について、複数の人が(千葉さん自身も)「並行的(平行的)」と読んでいることだ。
非意味的切断とか、ア?ポステオリな倫理をいう、むしろドゥルーズにおけるヒューム的側面、つまり切断の側から主として論を展開する千葉さんが、一元論的に発生から論じていくスピノザ主義者の國分さんとの間で、自説が相方と「平行的(並行的)」だ、というのは大変興味深い。
僭越ながら、このタッグは絶対要注意、というか要注目だと感じる。
今、池袋リブロの二人の対談の流れで、翌日の表象文化論学会でのお二人の書評パネルディスカッションもメモにまとめている。
ここでのヒール役は、「フーコー主義者」と、ちゃんとリングネームを掲げてサービスしてくれる佐藤嘉幸先生(筑波大)。
「フーコーがマルクス主義でどこが悪い~」
と雄叫びのサービスもあげてくれています。
最後には、
「千葉さんの革命はエステティックなものか」
との乱闘フラグも(^_^)。
無知な聴衆の私はエステティックがわからずに、千葉さんの怒りパフォーマンスで内容を想像してましたが。
美学的ってこと?
それは革命についての場外乱闘シーンだけれどね。
佐藤先生は千葉さんの本を、「ヒューム的切断とベルグソン的な連続性の二面性を、それぞれの側面おいて二重化した戦略をとる」
と評している。
同じパネラーの堀千晶さんもそこを「戦略」と読んでいる。
國分さんは、そういう研究「主体」からの発話とは全くことなった表現で、このタッグの相手の「キズ」を迎えるのだ。
詳細は本日付の日経新聞の書評を参照されたい。
http://mw.nikkei.com/tb/#!/article/DGXDZO62701050W3A111C1MZC002/
ようやく、この中間領域に「表現」があたえられた、と感じるのは、わたしだけだろうか。
それを國分功一郎氏
「新しいことばの創造」
「新しい論述水準の創造」
と呼び、千葉雅也の本のことば達を称揚する。
タッグの意義の一つが、ここにも現れている。
(この項続く)