2015年8月11日、川内の原発が再稼働してしまいました。
福島で原発事故をまのあたりにした者としては、復興まだ半ばであり、10万人以上の避難者がいる現状、そして汚染された自然を回復していくために必要な長い長い時間を考えると、正直どうして再稼働するのかが飲み込めないままです。
ちょっと皮肉っぽく考えれば、確かに原発の施設は稼働停止していても大量の燃料や廃棄物を抱えており、それらの最終的な処分は決まっていない状態なのだから、どうせどうにもならないわけで、だったら
「今の(稼働できる)うちに動かした方が経済的にはおいしいんじゃないか」
と考える人がいるだろうことは想像できる。
でもね。その議論は次の事故が起こる可能性から目をそらしているし、それ以前に、今起こってしまっている大事故の状況を直視していないという印象を持たざるを得ない。
村上春樹も指摘しているように、何十万人の生活が影響を受ける原発事故を体験したものが、なおもその再稼働を主張するのは、計算可能性の範囲の中で経済的効率を優先させている「無思考」の結果だとしか思えないです。
今日も政府の要人が「事故については責任を持って対応」するとTVニュースで語っていたけれど、東京電力福島第一原子力発電所の事故の責任は誰も取っていないわけだしね。
福島の事故の総括もできないうちに再稼働っていうのは、正直どうかと思う。
今は、もしかすると世界的にいろいろ煮詰まってきている状況なのかもしれない、とも思う。
でも、だからこそ、落ち着いて「無思考」の罠がそこにあることを冷静に見つめつつ、これからのことを考えていった方がいいんじゃないかな。
原発事故を心配して川内原発の再稼働を反対するのは「感情論」に過ぎない、みたいなことをいう人もいて、「へー、そう考えるんだ」と感心してしまう。
「感情的」に反対だっていう側面もあると思うけれど、それは再稼働推進派の人たちの中にも幾分か「感情的な再稼働反対」にいらだつ「感情」みたいなものがあるんだろうな、とも思うし、そういう反応はあるよね、っていうことを踏まえていかないといけないんだろうと思う。
「感情的」であることが悪いっていうのもよく分からない。
だって、こんな福島みたいなことがあったら、そりゃ「感情的」にもなるよ。
それだけじゃ伝わらないから、言葉を選びつつ尽くして行かねばならない、とも思うわけだけれども。
私は
「悪いことはいわないから原発は止めておけ」
と言い続けます。
自分は避難せずに残ったけれど、子どもたちを避難させた体験もあるし、避難してきた人たちと共に過ごしてその実情を聴いたりもし、復興の現状を見ているわけで、これは経済の問題として語って済ませられる性質の事柄ではない、という確信があります。
「悪いことはいわないから、原発は止めておいた方がいい」