龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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富岡町に行ってきた(画像あり)その3

2015年08月23日 17時21分13秒 | 大震災の中で
富岡町の中の様子1

高速のICから街の中に向かう大きな道路はこのように封鎖されていた。



そのあたりの田畑と住宅が広がる部分には、



という看板があって、普通の住宅の前に汚染土が並んでいる。


とか、


どれだけの時間があれば、ここに住めるようになるのだろう、と自分が住むのではないけれど、途方に暮れてしまうような気持ちになった。

戻るといっても、昔と同じにはできないのだろう、と正直思う。
しかし、この町以外のどこに住もうというのか、と考えると、もしここに住めるようになるなら、住みたいと思う気持ちになるのも分かる。

正直、何も変わっていないものは変わっていないようにも見える。


一方では開沼さんが『はじめての福島学』で指摘するように、福島県のお米は、震災以後も全国7位の生産量で、その半分近くは首都圏で消費されつづけている。
個人的な感想をいっても、福島の桃は今年復活を遂げた、という印象がある。
どこに旅行にいっても、福島の桃は高級なものとして値付けされ、流通している。

他方、道路をクルマで走るだけで胸が締め付けられるような気持ちになる現実もここにある。
それは、決して子どもの頃に見たマンガや写真の問題ではない。
今ここにあるリアル。

まあしかし、通りすがりに撮っただけのクルマからの写真をこうしてブログにアップしたところで、新聞の専門家がいう「マンガ」や「写真」のように扱われてしまうのかもしれない。

どんな種類の「リアル」を生きるのか、そしてどんな信号を出していくのか、は私たち福島でこの震災と原発事故を経験したものの務めだと考えている。

ではどうすればいいのか。
また考えていかねば。

富岡町に行ってきた(画像あり)その2

2015年08月23日 17時14分15秒 | 大震災の中で


生活が突如停止し、他の場所に移動させられたまま、数年経っても戻れないということは、とてつもなく怖ろしい出来事だと思う。

大熊町は帰還困難区域に接していて、山ろく線(山沿いの県道)から町に入る道は基本的に全て封鎖されていた。

富岡町に入ると、クルマの数がぐっと増えて、降りて写真を撮ることもできるようになる。
下は廃墟になったローソンの看板だ。常磐道の富岡IC近くにある。



その向かい側にはこんな看板も。



走っている車のほとんどは、この看板のロゴが付いた工事・作業のクルマばかりである。



線量計は持って行かなかった。ちょっと走って、どこがどれだけの線量か、を言い立てても始まらない。

ただ、このあと富岡ICから常磐道に乗って南下したのだが、乗ってすぐの道路脇表示は2.1μs/h。かなりの線量であった。

富岡町に行ってきた(画像あり)その1

2015年08月23日 10時38分59秒 | 大震災の中で
2015年8月19日、読書会を終えて福島市からいわき市に戻るのに、途中船引を通ってみようと思い、高速道路を使わずに、一般道で三春まで走ったのだが、そのときふと

「あ、常磐道も国道6号線も通じているのだから、もしかしたら国道288号線を東に降りていったら富岡町までいけるかもしれない」

と思いついた。
コンビニに寄って確かめてみようかとも思ったが、行けるところまで行って、もし交通止めになっていたら戻ってこようと思って、国道288号線を常葉から東に向かった。

このあたりは34年前、初任者として船引高校に着任してからの5年間、よく走った道だ。
家庭訪問もしたし、当時は地域の中学校や公民館などに担任が出向き、出身中学の地元で三者面談をしていたから、地域の主な中学校の学区は知っている。

個人的には都路村(今は田村市の都路)の岩井沢小学校の前で自損事故を起こして死にそうになったことがあるので、このあたりは忘れられない風景になっている(苦笑)。

都路を過ぎると、道はしだいに下り坂になる。しばらくいくと、この看板が目に入った。

「この先帰還困難区域 四輪車のみ通行可」


最初何気なく見過ごしたのだが、3枚、4枚と立て続けにこの立て看板が並んでいて、思わずクルマを止め、Uターンしてシャッターを切った。

当たり前のことだが、未だに帰還困難区域がある。この道路は、そこに続いている。
ただ、その周辺の地域は立ち入りが可能になっている部分も出てきたため、ここでは封鎖されていない。クルマだけが通れる道、ということだ。

人が歩けない道とはどういうことだろう。私たちの住んでいるところと、この帰還困難区域とは、歩いてはたどり着けない道でだけ繋がっている……看板一つで動悸がし始める。胸が苦しくなる。

今朝(8/23日曜)の民友新聞一面に、(素人は)原発事故以前に見た画像の種類によって、原発事故の受け止め方が違う。(そんな<愚かな>素人)を無理矢理専門家は説得するのではなく、データを正確に提供して、市民で議論してもらうことが必要だ、という記事が載っていた。


放射性物質を連想 原発事故前の視覚体験が影響 (2015.8.23民友新聞) 


http://www.minyu-net.com/news/news/0823/news7.html

子どもの頃の印象が残っていて、それを原発事故と結びつけ、結果として理解が不十分で、風評被害の原因の一つになっているみたいな記事だ。
なるほど、遠くにいる人にとっては、この語り方は理があると思う。きちんと線量を測って出荷している安全な作物を、根拠なく拒否されてしまうのは福島県民として悲しく、切ない。

それと同時に、ざっくりとした「危険」の印象でフクシマを受け入れたり拒否したりするのではなく、リアルな現場の感覚もまた、どこかで共有できたら、と思う。

私はたまたま現場を通り過ぎただけの人間だけれども、この看板一つとって見ても、福島の事故は深刻であり続けている、ということを、見ていない人と共有しておきたい。

それは、風評被害を払拭するということと無関係のことではない。福島は当然のことだが一つではないからだ。一つの印象でまとめようとするのは、思考の怠惰だし貧しさだ。

福島は、間違いなく「危機」の中にありつづけている。だから、一つのざっくりしたイメージだけでは掬い取れないたくさんの「課題」なり「局面」がある。
降りていくと、熊川海水浴場の看板が見えた。



その脇の細い道は、入ることができないように封鎖されている。大きい道は、作業のクルマだけを通すため、こんな看板が立っている道路もあった。