龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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読むべし!『ハイファに戻って』ガッサーン・カナファーニー

2017年07月16日 13時26分09秒 | メディア日記
ウェルベックの『服従』に続いて、同じく河出文庫の
『ハイファに戻って』
を読む。

やるな、河出。

『ハイファ~』は、パレスチナ解放運動に身を置きつつ、36才で爆殺されたガッサーン・カナファーニーが残した、パレスチナ文学の傑作……

ということらしい。

パレスチナ問題が背景にあることだけを漠然と知っていて、なんとなく最後にある表題作を読み始めた。

参りました。

最初のページを開いた途端、この 「物語」が書かれねばならなかった 「必然」を想わずにはいられない、そういう種類の小説だと感じた。

自分の側、生活の側、その中で生じてくる希望や絶望の側に生きている 「普通の私たち」が、否応なく暴力の側、政治の側、戦争の側に繰り返し引き込まれていく理不尽さと、にもかかわらずその暴力と政治と戦争の理不尽さの中で生きていかねばならない 私たちが抱えざるをえない 「問題」とは、いったいどのような形をとるのか?

西加奈子も解説で書いているが、これは小説にしかできない種類の仕事だろう。

物語のストーリーは、二十年前、イギリス軍がパレスチナから撤退する瞬間を狙いすましてイスラエルのパレスチナ侵攻の不意打ちを始めた日、サイードとその若い妻はハイファの街を一瞬にして追われ、幼子を取り戻すこともできないまま、パレスチナ人は皆港から追放され、その後パレスチナ人たちの家はユダヤ人の入植者たちに 「居抜き」で貸し与えられることになる。
その電撃的侵攻から二十年の後、サイード夫妻はかつて住んでいたハイファを訪問する。かつての自分たちの家には、ポーランドのワルシャワから入植した女性が住んでいるのだが、そこには……。

これは今日本で、そして、もちろん福島で読まれるべき小説だと思う。 描かれている 「物語」の重要さ(パレスチナ難民の人々が抱える悲劇)ももちろんだが、小説としての力(形を持ったエネルギー)を身に受けるという意味でも、読まれねばなるまい。

つまり、我々はこのテキスト以前とこのテキスト以後では、問いの立て方が変わってしまうような、そんなテキストなのだと思う。


作者の闘争の実際や、爆殺されたリアルのことなど何も分からないが、そういう私のような 「惰夫」をも立たしめる、それが 「小説」の力なのだ。

読むべし!『ハイファに戻って』。